天正10(1582)年2月八浜合戦があった。東寺中国地方最大の勢力の毛利と宇喜多との間でたたかわれた合戦。
岡山城当主の宇喜多直家は1581年に53歳で病没。翌年毛利軍は穂井田元清を総大将として常山城へ進軍し、児島郡を制圧しようと画策。
毛利勢進出の報せは児島から岡山へ注進される。宇喜多氏は宇喜多春家・宇喜多基家 父子を大将とし、戸川秀安、岡家利等を率いて八浜城に布陣し、常山城に対抗して麦飯山に砦を築こうとした。しかし、築城を察知した毛利勢は、麦飯山を占拠して八浜城と対峙し、小競り合いを続けた。
天正10年2月24日の早朝、宇喜多勢が麦飯山麓に馬草刈りのために数名の兵を繰出す。
これに対して毛利勢は数人の兵を出し、馬草刈りをしていた宇喜多勢を追い払う。そこで宇喜多勢は更に数人が加勢、毛利勢も数名を繰出し応戦。
こうした両軍のやり取りで双方共に大勢となり、大崎村(玉野市八浜町大崎) 柳畑の浜辺で大合戦となった結果、宇喜多基家は戦死した。
柳畑古戦場
岡山城当主の宇喜多直家は1581年に53歳で病没。翌年毛利軍は穂井田元清を総大将として常山城へ進軍し、児島郡を制圧しようと画策。
毛利勢進出の報せは児島から岡山へ注進される。宇喜多氏は宇喜多春家・宇喜多基家 父子を大将とし、戸川秀安、岡家利等を率いて八浜城に布陣し、常山城に対抗して麦飯山に砦を築こうとした。しかし、築城を察知した毛利勢は、麦飯山を占拠して八浜城と対峙し、小競り合いを続けた。
天正10年2月24日の早朝、宇喜多勢が麦飯山麓に馬草刈りのために数名の兵を繰出す。
これに対して毛利勢は数人の兵を出し、馬草刈りをしていた宇喜多勢を追い払う。そこで宇喜多勢は更に数人が加勢、毛利勢も数名を繰出し応戦。
こうした両軍のやり取りで双方共に大勢となり、大崎村(玉野市八浜町大崎) 柳畑の浜辺で大合戦となった結果、宇喜多基家は戦死した。
柳畑古戦場