4月27日(日) 晴 (高塔山公園~下関市「火の山ユースホステル」)
4時、起床。いよいよ九州最後の日。
5時40分、高塔山公園を出発。若戸大橋方面に向かって坂を下っていく。
下っていく途中で、火野葦平の文学碑を見る。「泥に汚れた背嚢に さす一輪の菊の香や」と刻まれてある。火野葦平は、『麦と兵隊』などを書いた作家であり、アフガニスタンやパキスタンで医療活動や水源確保、農業支援等の活動を行っている「ペシャワール会」の中村哲医師の叔父である。
文学碑より洞海湾を一望する。
若戸大橋が見えてきたものの、
途中出会った散歩の男性の話で、若戸大橋は自動車専用のため徒歩では渡れないことを知る。歩くには昨日の道を戻り、洞海湾をぐるっと巻いて行かねばならず、足痛もあって弱気になり渡船にすることを選択。
朝の商店街をぬけて渡船場へ。
7時03分、船が出ればあっという間、9分で戸畑に着く。乗船券は100円。
船内から、若戸大橋と朝日を望む。
7時15分、戸畑駅を通過。
8時、コンビニで牛乳、おにぎり2個、を買い、牛乳だけ飲む。
8時40分、高速道路の下を小倉方面に向かっているのだが、はたしてこれでいいのだろうか。
高速道路の下のツツジの花がきれいだ。JR鹿児島本線と並行して行く。
9時05分、小倉城に着き、30分まで、テントを干したり、おにぎりを食べたりした後、お城の写真を撮る。
小倉城は、熊本城に比べると小ぶりだが端正な姿の城である。築城は1602年で、40万石の大名である細川忠興が居を構えた。
城内に「歩兵第十二旅団司令部跡、小倉連隊区司令部跡」の石碑がある。西南戦争の際には、小倉城内に駐屯していた歩兵第14連隊が乃木連隊長に率いられてここから出征した。その後は歩兵第12旅団や第12師団の司令部が置かれたとのこと。
森鴎外の文学碑もある。『小倉日記』や『二人の友』など鴎外が小倉滞在時に残した文章が記されている。
ユースホステルは16時にならないと入れないので、今日はゆっくりと見物モード。
10時20分、小倉駅。
小倉港の海岸に沿って赤レンガ倉庫の写真を撮ったり、
海峡を行く船や、漁港の写真を撮ったりしつつのんびり行く。
関門海峡の彼方、下関市のシンボルタワーである「海峡ゆめタワー」が霞んで見える。いよいよ本州上陸近しを実感する。
その後国道3号線をいくことにしたが、これは失敗。展望はいいが何回か坂道のアップダウンをさせられる。ずっと海岸沿いに行くべきだった。右手に関門橋が見える。
門司駅の郵便局のATMで2万円下ろし。
13時25分、赤レンガの門司税務署前を通過。
13時30分、国の重要文化財である門司港駅に着く。歴史を感じさせる木造の駅舎はネオ・ルネッサンス様式といわれ、構内には戦前から使用されている青銅製の手水鉢などもある。
門司港駅のアップ。
駅前広場ではバザーをやっていた。
隣の赤レンガの鉄道記念館や旧門司三井倶楽部の建物など、このあたり一帯は「門司港レトロ地区」という観光スポットを形成している。
駅横のスーパー前の八百屋でトマト2個を買う。八百屋のおばさんにザックを見ていてもらい、スーパーの中で、大福、コロッケ、寿司、ハム、ちくわ、買う。おばさんに、ザック見張り賃として大福をあげたら、かわりにバナナをくれた。
14時20分~50分、和布刈(めかり)公園のベンチで、スーパーで買った寿司を頬張りつつのんびり海峡を眺めていたら、波が急に襲いかかって来て、水をかぶってしまった。
関門橋の写真を撮ったりして時を過ごし、
関門トンネル人道にエレベーターで降りる。
15時10分、福岡県と山口県との境界線で写真を撮ってもらい、九州を後にする。
下関側に出る。ついに本州に入ったかと思うと感慨深い。
海峡のこちら御裳裾川(みもすそがわ)公園は、源平壇ノ浦の戦いの舞台である。
源義経「八艘跳び」の像。
平知盛「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」の像。
安徳天皇の入水の地の石碑があり、「今ぞしるみもすそ川の御流れ波の下にもみやこありとは」と刻まれている。
15時40分頃「火の山ユースホステル」に着き、一休み。
16時、ユースが開扉。風呂、洗濯などし、夕食後、足の手入れをして寝る。明日は九州縦断記念に自分への御褒美で休養日。
経費 9,134円 累計 67,057円
歩数 47,497歩 累計 782,620歩
距離 26km 累計 494km
4時、起床。いよいよ九州最後の日。
5時40分、高塔山公園を出発。若戸大橋方面に向かって坂を下っていく。
下っていく途中で、火野葦平の文学碑を見る。「泥に汚れた背嚢に さす一輪の菊の香や」と刻まれてある。火野葦平は、『麦と兵隊』などを書いた作家であり、アフガニスタンやパキスタンで医療活動や水源確保、農業支援等の活動を行っている「ペシャワール会」の中村哲医師の叔父である。
文学碑より洞海湾を一望する。
若戸大橋が見えてきたものの、
途中出会った散歩の男性の話で、若戸大橋は自動車専用のため徒歩では渡れないことを知る。歩くには昨日の道を戻り、洞海湾をぐるっと巻いて行かねばならず、足痛もあって弱気になり渡船にすることを選択。
朝の商店街をぬけて渡船場へ。
7時03分、船が出ればあっという間、9分で戸畑に着く。乗船券は100円。
船内から、若戸大橋と朝日を望む。
7時15分、戸畑駅を通過。
8時、コンビニで牛乳、おにぎり2個、を買い、牛乳だけ飲む。
8時40分、高速道路の下を小倉方面に向かっているのだが、はたしてこれでいいのだろうか。
高速道路の下のツツジの花がきれいだ。JR鹿児島本線と並行して行く。
9時05分、小倉城に着き、30分まで、テントを干したり、おにぎりを食べたりした後、お城の写真を撮る。
小倉城は、熊本城に比べると小ぶりだが端正な姿の城である。築城は1602年で、40万石の大名である細川忠興が居を構えた。
城内に「歩兵第十二旅団司令部跡、小倉連隊区司令部跡」の石碑がある。西南戦争の際には、小倉城内に駐屯していた歩兵第14連隊が乃木連隊長に率いられてここから出征した。その後は歩兵第12旅団や第12師団の司令部が置かれたとのこと。
森鴎外の文学碑もある。『小倉日記』や『二人の友』など鴎外が小倉滞在時に残した文章が記されている。
ユースホステルは16時にならないと入れないので、今日はゆっくりと見物モード。
10時20分、小倉駅。
小倉港の海岸に沿って赤レンガ倉庫の写真を撮ったり、
海峡を行く船や、漁港の写真を撮ったりしつつのんびり行く。
関門海峡の彼方、下関市のシンボルタワーである「海峡ゆめタワー」が霞んで見える。いよいよ本州上陸近しを実感する。
その後国道3号線をいくことにしたが、これは失敗。展望はいいが何回か坂道のアップダウンをさせられる。ずっと海岸沿いに行くべきだった。右手に関門橋が見える。
門司駅の郵便局のATMで2万円下ろし。
13時25分、赤レンガの門司税務署前を通過。
13時30分、国の重要文化財である門司港駅に着く。歴史を感じさせる木造の駅舎はネオ・ルネッサンス様式といわれ、構内には戦前から使用されている青銅製の手水鉢などもある。
門司港駅のアップ。
駅前広場ではバザーをやっていた。
隣の赤レンガの鉄道記念館や旧門司三井倶楽部の建物など、このあたり一帯は「門司港レトロ地区」という観光スポットを形成している。
駅横のスーパー前の八百屋でトマト2個を買う。八百屋のおばさんにザックを見ていてもらい、スーパーの中で、大福、コロッケ、寿司、ハム、ちくわ、買う。おばさんに、ザック見張り賃として大福をあげたら、かわりにバナナをくれた。
14時20分~50分、和布刈(めかり)公園のベンチで、スーパーで買った寿司を頬張りつつのんびり海峡を眺めていたら、波が急に襲いかかって来て、水をかぶってしまった。
関門橋の写真を撮ったりして時を過ごし、
関門トンネル人道にエレベーターで降りる。
15時10分、福岡県と山口県との境界線で写真を撮ってもらい、九州を後にする。
下関側に出る。ついに本州に入ったかと思うと感慨深い。
海峡のこちら御裳裾川(みもすそがわ)公園は、源平壇ノ浦の戦いの舞台である。
源義経「八艘跳び」の像。
平知盛「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」の像。
安徳天皇の入水の地の石碑があり、「今ぞしるみもすそ川の御流れ波の下にもみやこありとは」と刻まれている。
15時40分頃「火の山ユースホステル」に着き、一休み。
16時、ユースが開扉。風呂、洗濯などし、夕食後、足の手入れをして寝る。明日は九州縦断記念に自分への御褒美で休養日。
経費 9,134円 累計 67,057円
歩数 47,497歩 累計 782,620歩
距離 26km 累計 494km
義経や知盛の像があるなんて知らなかった!
読んでいると、自分の足が傷んでいるような気がします。
早く治るといいですね。
義経と知盛の像は、しばらく前のNHK大河ドラマにちなんで作られたそうです。