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そぞろ神の物につきて―日本列島徒歩の旅の記録

  (2008年 日本海側)
  (2011年 四国八十八ヶ所)
  (2014・15年 太平洋側)

徒歩の旅 第19日 下関市  長門二見駅へ

2009年02月16日 | 2008年日本海側の旅
4月29日(火) 快晴 (「火の山ユースホステル」~下関市 JR長門二見駅)




今日の行程は長いので一人だけ5時起床。ユースの朝食は断って、
5時25分、出発。ユースの庭からの有明の月。


坂を下り、御裳裾川公園で、周防灘のかなたから上ってくる朝日の写真を撮る。朝焼けが美しく空気も清々しい。


5時45分、関門橋の彼方の朝日。これからはずっと日本海に沿って歩くことになるので、太平洋側の海ともしばらくはお別れ。


6時05分、唐土市場・旧イギリス領事館の横を曲がり、近道をして国道191号線(「北浦街道」とも「赤間関街道」とも言われる)に向かう。昨日見た旧イギリス領事館だが早朝は静かだ。


7時05分~15分、コンビニで牛乳、おにぎり2個、で朝食。
7時35分、山陰本線を越えたところで、国道191号線に合流。以後はずっと191号線を行く。
しばらく車と並行して歩く。単調な道だが、結構起伏もあってやや消耗する。
7時45分、「特牛 42km」とある。「特牛」は「こっとい」と読む。だが、これでは宿泊予定地の土井ガ浜キャンプ場まで43キロどころではない。ユースからここまでの2キロほどの距離もどうなってしまったのか、計画段階での計算間違いかな。出鼻をくじかれる。


8時50分、JR山陰本線の福江駅あたりから海が見えてきた。
9時15分、海の色はきれいなコバルトブルーなのだが、


なんと汚い海岸だろう。ゴミや漂着物が海草と一体になって、べったりとテトラポットにこびりついている。きれいな日本海のイメージが一瞬にして吹き飛んだ。ずっとこれではかなわないなあ、と思いつつ歩く。


9時45分、海沿いの道路を行く。特牛まで34キロ。


10時35分、再びやや内陸部に入っていくと、畑では麦が熟れている。もうこんな季節になったのだなあ。


10時40分、本州最西端「毘沙ノ鼻」に近く。


10時45分、雲ひとつない青空の下、のどかな景色だが特牛までは30キロ。


新緑と芽吹きの小山。「山笑う」という季語があったっけ。


暑くなってきたので、途中の無人売店で甘夏を買い、さらにペットボトルの飲料水を買って喉を潤す。路傍にイチゴの売店があり、買って、おばさんやその親類という女性と話をしながら、店の中で平らげる。九州を歩き通したためか、気持ちにも多少余裕がでてきたようだ。
歩いているとバイクや自転車のグループに何度も追い越される。そういえば大型連休に入っていた。
JR山陰本線のディーゼル列車の写真を撮ったりしつつ行く。気がついたのは、鯉のぼりの数が少ないこと。九州ではもっと沢山あったが、今日これまでに見かけたのはわずかに2・3軒でしかなかった。
13時30分、川棚温泉駅で小休止。広い待合室で昼食をとりつつ涼む。


14時40分、山間部から海に小島が見える。


15時30分、湯玉駅通過。ここも立派な待合室があり、泊まりやすそうだ。土井が浜キャンプ場は遠いので、どこか手前で宿泊地を確保しなければならないが、時間的にまだ早い。
16時10分、広い畑の中を行く1両のみの山陰本線のディーゼル車。


16時15分、宇賀本郷駅もやや狭そうだが寝られないことはないな、などと思いつつ通過。


16時45分、長い海岸線をひたすら行く。


16時50分、二見が浦「夫婦岩」の注連縄。


特牛が近づいてくるのだが、


ついに歩みがあまりははかどらなくなってきて、長門二見駅手前のトンネルで思案。
17時20分、トンネルを抜けたところに、運よく立派な休憩舎(「夫婦岩ふれあいステーション」)が併設された無人駅の長門二見駅があった。土地の人たちの管理によるとかで畳敷きの快適そうな建物だ。今日はここで泊まらせてもらうことに決定。


閑散とした駅前で開いていたたった一軒の店で、パン、ソーセージ、アイスクリームを買う。休憩舎で、出発時刻を待っていた路線バスの運転手と話。彼の食道癌のことや、この地方の過疎のことなど。若者は下関市街や北九州・瀬戸内方面に行ってしまい、老いた親ばかりが残されている、と。
宿泊者は一人きりなので、手足を伸ばしのんびりと寝る。もちろん寒さは感じず。
今日は42キロ歩いた。ちょうどフルマラソンの距離だ。
 
経費  1,428円    累計  70,870円
歩数  59,814歩    累計  842,434歩
距離  42km   累計  536km


徒歩の旅 第18日 下関連泊

2009年02月14日 | 2008年日本海側の旅
4月28日(月) 晴 (「火の山ユースホステル」に連泊) 

休養日につき、ゆっくり朝寝。下関市見学と装備の補充等のため、10時少し前にユースを出る。高台にあるユースホステルから、緑の木々に囲まれた坂を日差しを浴びつつ下り、御裳裾川公園方面へ。


御裳裾川公園で、幕末の下関戦争で長州藩が使用した長州砲の実物大模型を見る。攘夷を掲げる長州藩は米・仏・蘭の艦船にこの加農砲で砲撃したが、英・米・仏・蘭の報復にあい大敗を喫した。この戦いがその後の長州藩の倒幕開国への方針転換の契機になったといわれる。 




こちらは旧式の天保長州砲。




また、ボランティアが身振り手振りを交えて、「源平壇ノ浦の戦」の紙芝居をやっていたので拝聴。紙芝居の後、彼から平家蟹の標本を見せてもらったが、やはりちょっと不気味な甲羅の模様であった。




その後、関門橋の下を通り、写真を撮りつつ下関駅方面に行く。


旧秋田商会ビルや




旧イギリス領事館、


下関南部(みなべ)町郵便局など、海峡のこちらにもレトロな建物がいくつかある。


さらに下関港を見たり、


「海峡ゆめタワー」方面も。


市内では、旅の装備補充と、久しぶりに書店に本を眺めに行った。
帰りに唐土市場を見物し、商店街で食料を買い、昼食。旧秋田商会で金子みすずの展示を見、
赤間神宮や、




日清戦争の講和記念館を見て、




のんびりユースに戻る。
夕刻、同宿者にBさんがやって来る。66歳、やはり徒歩で宗谷岬まで行くとのこと。これまでに日本百名山、江戸五街道、青春18切符での普通列車全区間乗車などの経験があるという旅の大先輩である。彼は大隈半島先端の佐多岬から来たとのことで、1日30キロ弱の歩行で、約100日で宗谷岬へという計画。こちらとほぼ同一の日本海沿いのルートだが、津軽半島から北海道に入り、内陸部(札幌、旭川、名寄)を行く。1日あたりの距離からすれば、僕の方が多少先行することになるかと思うが、ただし、こちらは休養日が多いからどうなるか。彼の方は休日は取らずに、毎日歩くと言っている。(……ちなみに、彼とはその後もお互いに連絡を取り合いつつ、励ましあって二人とも目的を達成しました。)今日の同宿は3人(Bさん、自転車で中国地方を回っているという60歳代の男性、それと僕)。昨日は5人だった。夜、ユースのベランダから関門橋の夜景の写真を撮る。


宿泊代は昨日済み。翌日に備え早寝する。

経費    2,385円    累計  69,442円
歩数  (20,095)歩   累計には加えず
距離     (?)km   累計には加えず



徒歩の旅 第17日 下関市  火の山ユースへ

2009年02月13日 | 2008年日本海側の旅
4月27日(日) 晴 (高塔山公園~下関市「火の山ユースホステル」)



4時、起床。いよいよ九州最後の日。
5時40分、高塔山公園を出発。若戸大橋方面に向かって坂を下っていく。

 
下っていく途中で、火野葦平の文学碑を見る。「泥に汚れた背嚢に さす一輪の菊の香や」と刻まれてある。火野葦平は、『麦と兵隊』などを書いた作家であり、アフガニスタンやパキスタンで医療活動や水源確保、農業支援等の活動を行っている「ペシャワール会」の中村哲医師の叔父である。


文学碑より洞海湾を一望する。


若戸大橋が見えてきたものの、


途中出会った散歩の男性の話で、若戸大橋は自動車専用のため徒歩では渡れないことを知る。歩くには昨日の道を戻り、洞海湾をぐるっと巻いて行かねばならず、足痛もあって弱気になり渡船にすることを選択。
朝の商店街をぬけて渡船場へ。


7時03分、船が出ればあっという間、9分で戸畑に着く。乗船券は100円。


船内から、若戸大橋と朝日を望む。


7時15分、戸畑駅を通過。


8時、コンビニで牛乳、おにぎり2個、を買い、牛乳だけ飲む。
8時40分、高速道路の下を小倉方面に向かっているのだが、はたしてこれでいいのだろうか。


高速道路の下のツツジの花がきれいだ。JR鹿児島本線と並行して行く。


9時05分、小倉城に着き、30分まで、テントを干したり、おにぎりを食べたりした後、お城の写真を撮る。


小倉城は、熊本城に比べると小ぶりだが端正な姿の城である。築城は1602年で、40万石の大名である細川忠興が居を構えた。


城内に「歩兵第十二旅団司令部跡、小倉連隊区司令部跡」の石碑がある。西南戦争の際には、小倉城内に駐屯していた歩兵第14連隊が乃木連隊長に率いられてここから出征した。その後は歩兵第12旅団や第12師団の司令部が置かれたとのこと。


森鴎外の文学碑もある。『小倉日記』や『二人の友』など鴎外が小倉滞在時に残した文章が記されている。


ユースホステルは16時にならないと入れないので、今日はゆっくりと見物モード。
10時20分、小倉駅。
小倉港の海岸に沿って赤レンガ倉庫の写真を撮ったり、






海峡を行く船や、漁港の写真を撮ったりしつつのんびり行く。




関門海峡の彼方、下関市のシンボルタワーである「海峡ゆめタワー」が霞んで見える。いよいよ本州上陸近しを実感する。


その後国道3号線をいくことにしたが、これは失敗。展望はいいが何回か坂道のアップダウンをさせられる。ずっと海岸沿いに行くべきだった。右手に関門橋が見える。


門司駅の郵便局のATMで2万円下ろし。
13時25分、赤レンガの門司税務署前を通過。


13時30分、国の重要文化財である門司港駅に着く。歴史を感じさせる木造の駅舎はネオ・ルネッサンス様式といわれ、構内には戦前から使用されている青銅製の手水鉢などもある。


門司港駅のアップ。


駅前広場ではバザーをやっていた。


隣の赤レンガの鉄道記念館や旧門司三井倶楽部の建物など、このあたり一帯は「門司港レトロ地区」という観光スポットを形成している。




駅横のスーパー前の八百屋でトマト2個を買う。八百屋のおばさんにザックを見ていてもらい、スーパーの中で、大福、コロッケ、寿司、ハム、ちくわ、買う。おばさんに、ザック見張り賃として大福をあげたら、かわりにバナナをくれた。
14時20分~50分、和布刈(めかり)公園のベンチで、スーパーで買った寿司を頬張りつつのんびり海峡を眺めていたら、波が急に襲いかかって来て、水をかぶってしまった。




関門橋の写真を撮ったりして時を過ごし、




関門トンネル人道にエレベーターで降りる。


15時10分、福岡県と山口県との境界線で写真を撮ってもらい、九州を後にする。


下関側に出る。ついに本州に入ったかと思うと感慨深い。


海峡のこちら御裳裾川(みもすそがわ)公園は、源平壇ノ浦の戦いの舞台である。
源義経「八艘跳び」の像。


平知盛「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」の像。


安徳天皇の入水の地の石碑があり、「今ぞしるみもすそ川の御流れ波の下にもみやこありとは」と刻まれている。


15時40分頃「火の山ユースホステル」に着き、一休み。
16時、ユースが開扉。風呂、洗濯などし、夕食後、足の手入れをして寝る。明日は九州縦断記念に自分への御褒美で休養日。

経費  9,134円    累計  67,057円
歩数  47,497歩    累計  782,620歩
距離  26km     累計  494km



徒歩の旅 第16日 北九州市 高塔山公園へ

2009年02月12日 | 2008年日本海側の旅
4月26日(土) 晴ときどき曇 (「直方オートキャンプ場」~北九州市 高塔山公園)



4時45分、起床。朝食の後、撤収して、
5時50分、出発。薄い雲の上は晴。


今日もまずは遠賀川を下っていく。昨日から今日にかけて歩いている遠賀川流域は、かつて日本一の生産量を誇った筑豊炭田の中心部である。
6時05分、日の出橋を渡り右岸へ。山の端から朝日。


6時25分、筑豊電鉄の電車が鉄橋を渡ろうとしていたので写真に撮る。


昨日よりやや歩きづらくなった河川敷の自転車道をしばらく行くが、小砂利がふえてきたので、土手上の道に。


しばらく行くと歩道橋が切れ、車も増えてきたので、土手反対側の下の用水路沿いに少し行ってみる。


6時50分頃、3人組の散歩のおばあさんに会い、彼女達に確認すると、この用水が折尾までずっと続いているとのこと。それなら問題なし、明瞭だから今日は道迷い無し、と思いきや、甘くは無かった。
気付かないうちに北九州市に入って、旧長崎街道の宿場町だった木屋瀬宿跡に出たので、そこを通ることにする。




この長崎街道は、長崎と小倉を結び、長崎出島からの文物や情報を、京や江戸へ伝える重要な道であった。
7時05分、町家建築の遺構(旧安田家)。




村庄屋跡(松尾家)。木屋瀬宿には、村全体を統括する村庄屋、旅籠などを統括する宿庄屋、川舟を管理する船庄屋の三つの庄屋があったという。




7時10分、放送作家の伊馬春部生家(旧高崎家)横で休憩。




早朝のため人気のない、木屋瀬宿のレトロな家並みを眺めつつ行く。




しかし、木屋瀬宿を抜けると、その後の用水路の道が複雑になり、今日もまた彷徨うことに。
8時40分、ようやくにして中間市役所前の遠賀橋脇の交差点に出たので一安心。


ここで遠賀川と別れ、県道203号線を、商店街の人に聞きつつ進む。


途中コンビニで、牛乳、おにぎり3個を買い、食事。さらに、
9時45分、水巻町に入る。


そのまま道なりに行くと遠くに鹿児島本線が見える。


10時15分、国道3号線につきあたり右折、ほんの少し行くと北九州市に入る。


すぐに国道199号線に。
新折尾トンネル内は歩行者通行不可なので、トンネル上の木立の下のプロムナードを行く。
11時50分~12時30分、本城公園にて休み。ベンチに腰掛ているとホームレスの男性が話しかけてくる。彼の話では、飼い犬が人に噛み付くので困っている、と。ホームレス襲撃の話などもあるから、彼らも自己防衛しなければならないのか。無人駅泊とテント泊でこっちもひげ面だから、親近感を抱かれたかな。でも明日の晩は下関の「火の国ユースホステル」で風呂だ。
12時35分、高塔山方向を示す表示板。そこを回り込めば目的地は近し。


その後足を引きずりつつ洞海湾に沿って進み、
13時、今夜、九州完歩の打ち上げをすべくスーパーで買い物。牛乳、パン、ハム、マーガリン、レトルトカレー、ガム、チョコ、トマト。
重くなったザックを背負い、宿泊予定地の「しょうぶ谷キャンプ場」をめざすが、道はアップダウンもあり入り組んでいて非常に複雑。何度か出会った人に尋ねるが、すぐに分からなくなってしまう。
途中、洞海湾が遠望できるとおおよその現在地が分かるのだが……。


尋ねたうちの一人で、換気扇の清掃作業をしていた中年の女性が、中間の方から来た人でしょう、と言う。今日はこれで見かけるのは3回目、とか。見ている人は見ているものだ。こりゃ、ちょっとばかり疲れたり足が痛かったりしたからといって、ヘタレた格好はできんぞ。彼女に親切に道を教えてもらったのだが、でもまた迷う。
こんなところも通ったりして……。どうなっているのやら。


15時40分、ようやくにして高塔山公園にたどり着き、園内案内図を見ると、


予定地の「しょうぶ谷キャンプ場」へはあと3キロ以上起伏のある道を行かねばならず、あきらめる。
公園内で、風をよけて木立の間にテント設営。ここにもホームレスの男性がいたので挨拶などしたが、いつの間にかいなくなってしまった。


その後、全行程の半分を超えたら呑もうと決めていたので、酒なしで一人ささやかに九州最後の夜を祝す。怪我の功名として、明日越える若戸大橋に意外と近い地点にいることが分かったが、こんなものかな。16日間の歩行を足に感謝しつつ、テラマイシン軟膏で右足小指の化膿の手当てをして就寝。体に新聞紙を巻きつけて寝たので、多少寒さは緩和されたようだ。

経費   2,005円     累計  57,923円
歩数  48,389歩     累計  735,123歩
距離     28km   累計  468km

(経費について調べなおしたところ、第5日目の経費に間違いがありました。7,415円は宿泊費のみの金額でしたので、その他の買い物も含め、当日経費は8,423円。従って、当日累計も19,331円に訂正。またその後第15日目までの累計にもそれぞれ1,008円ずつプラスして訂正しました。失礼しました。)


徒歩の旅 第15日 直方市  直方キャンプ場へ

2009年02月07日 | 2008年日本海側の旅
4月25日(金) 晴 (筑前山家駅~直方市「直方オートキャンプ場」)



寒くてとても寝ていられず、5時起床。筑前山家(ちくぜんやまえ)駅の写真を撮る。

(クリックすると写真が大きくなります)

乗車ホーム反対側の、長いホーム跡は、かつての筑豊炭田の石炭輸送全盛時代の名残り。


5時50分、出発。防寒用に、雨具上下を着用。フリース手袋もする。
5時55分、木立に囲まれた「山家宿大庄屋役宅跡」を通過。「大庄屋」は、江戸時代にこの地域を管理していた役人で、年貢割り当てや納入、土木工事、参勤交代時の人馬役などの仕事をした、と書かれてある。


国道200号線を行くが、徐々に自動車が多くなってくる。正面右端に、旧長崎街道最大の難所であった冷水峠があり、今日はそこを越えて遠賀川方面に向かう。


浦の下で、新聞配達の女性が、わざわざ車を止めて、車の少ない道(国道200号線横の旧長崎街道)を教えてくれ、しばらくはゆとりをもって写真を撮りつつ行く。長崎街道は、大村益次郎をはじめ多くの人物が、長崎の出島にあったシーボルトの鳴滝塾や勝海舟の海軍伝習所などへと遊学した際に通行した道だ。


しかし、途中でその道も終わり、冷水峠に向けて再び元の道路に合流してからは、実にすさまじいの一言。峠路のカーブを何回となく曲がるが、狭い、歩道なし、危険、怖い。でも、他に道は無いから行くより他ない。
7時45分、峠の上で飯塚市に入る。


下り道もカーブ多し。何度も大型トラックと遭遇し、コンクリート壁に張り付いてやり過ごすこともあった。


8時30分、峠を下りきり、冷水トンネルを抜けて来る自動車専用道路と合流。


広々とした地点に出て一息つき、ようやく周囲の景色を見る余裕がでてくる。


菜の花の黄色が目に鮮やかだ。


しかし、その後も再び車が増えてくる。北九州方面を目指しただ黙々と歩く。


9時05分、JR筑豊本線の筑前内野駅。はじめの計画では、この無人駅も宿泊候補地に考えてはいた。しかし、待合の椅子は筑前山家駅の方が寝心地がよさそう。短くて足がつかえてしまう。ホームの椅子も最悪椅子。したがって、夕べは寒かったものの、それでもここよりは筑前山家駅でよかったということになろうか。


このあたりは往時、長崎街道の内野宿で、それを解説する案内板が掲示されている。


穂波川に沿って歩き出すとまた、単調な道路をトラックと並行。
10時30分~50分、長尾交差点脇の「レストラン冷水」で、やっと朝食。峠を越えた安堵感と、熱々の味噌汁、ご飯にひと時くつろぐ。
11時05分、桂川町に入る。


11時45分、再び飯塚市に。


12時10分~20分、ドラッグスーパーで買い物。牛乳、カロリーメイト、5本指の軍足。
13時45分、遠賀川に架かる飯塚大橋を渡る。


遠賀川はゆったりと流れている。


右岸を河川敷の自転車道路にそって下っていく。振り返ると飯塚大橋は徐々に遠ざかる。


ここは先ほどまでの国道200号線とはうって変わって嘘のような静かさである。白や黄の野草が咲き乱れている。




冷水峠はもう遥か後方である。
 

14時35分、対岸に多くの鯉のぼりが泳いでいる。


ほとんど人通りも無く、ウォーキング、サイクリングの人がほんの時たますれ違うだけ。
14時50分、JR筑豊本線の下を通り、


16時45分、頭の上の陸橋を行く平成筑豊鉄道井田線の写真を撮る。

 


16時50分、直方市に入るのを知る。


そのままずっと河川敷を下っていき、木の仮橋で対岸の「直方オートキャンプ場」へ。


誰もいない無料の広いサイトの、中央の大きな木の下に設営することにした。


炊事場の水が出ないので、道路に上り自販機でペットボトルの飲料水を2本買う。トイレは使用可。下関のユースホステルに宿泊の予約電話をし、自宅にメールをして、夕食の後就寝。河川敷だから暴走族が出るかな、などと考えつついつしか夢の中。相変わらず寒かった。レスキューシートをかけたが効果なし。広いテントサイトにぽつんと一張りのテントだからやむをえない。夜中サイレンが鳴っていたが何だったのか、うつらうつらしつつも眠ってしまった。

経費  2,060円     累計  55,918円
歩数  62,839歩    累計  686,734歩
距離  36km        累計  440km


(明日から、ちょっと奥多摩の山に行ってくるので、ブログは4日間お休みします。)

徒歩の旅 第14日 筑紫野市 筑前山家駅へ

2009年02月06日 | 2008年日本海側の旅
4月24日(木) 晴 (「ルノワルユースホステル」~筑紫野市 JR筑前山家(ちくぜんやまえ)駅)



5時50分、出発。寒し。
6時20分、JR鹿児島本線を跨ぐ頃、雲が去り朝日が出てくる。


6時50分、「鳥栖 28km」の標識。距離も手ごろなので、今夜の宿泊予定は、一応鳥栖(とす)のTS(トラックステーション)とする。というのも、一昨日、熊本TSというトラック協会が運営している宿泊施設で、トラック関係者は2600円、その他は3600円で泊まれるとあるのを、行動中に見かけていたからである。


7時、矢部川の河川敷にある筑後広域公園の新緑が鮮やかだ。


7時05分、矢部川を渡り、筑後市に入る。 


八女(やめ)茶の畑が道路わきにも見られる。


7時10分、コンビニで、牛乳、チョコ買う。
8時、八女の高校生が自転車で何人も通学してくる。八女といえば、五木寛之や井上光晴の小説の舞台になっているところだ。
8時05分、筑後市役所前を通過。


8時10分~25分、羽犬塚(はいぬづか)小学校の門横にあったベンチにすわり、昨日の夕食用に買ったパンで食事。


プレートに、羽犬塚のいわれが書いてあった。


9時、上原々向山(かんばらばらむかいやま)交差点。ちょっと読みづらい、なんか奇妙な名前だ。


9時25分、久留米市に入る。


9時25分、筑後市を後に。


9時40分、相川通過。鳥栖まで20キロ。振り向くと標識はもう「熊本 72km」とある。
ともかくここの道路は非常に自動車が多い。国道3号線が、山中に入っていってしまうため、国道209号線に北九州方面に向かう大型トラックその他が集中するという感じである。びくびくしながらただただ自動車の隣を並行して歩く。




11時20分、西鉄久留米駅の商店街で小休止の後、東町交差点を経て、
12時、八百屋でイチゴを買うついでに道を聞く。ザックを背負った姿を見てか、どこまで行くのかと尋ねられ、北海道までと答えると、「冒険者、頑張って!」と言われる。
12時10分、中央公園の大きな木の下で小休止。




12時20分、河川敷隣の久留米百年公園で「つつじまつり」が開かれている。 


濃淡さまざまなピンクが目に眩しい。


12時30分~13時20分、そのそばの芝生の上で、ゆっくりと食事と昼寝。
のどかな河川敷を行き、
13時35分、国道3号線に戻り、筑後川を渡る。


青空の下、太陽の光を浴びて筑後川はゆったりと流れている。


13時55分、宝満川を渡り、佐賀県鳥栖市に入る。4県目だ。


その後2~3キロもしくはそれ以上にわたって、大根の花が歩道の右側に咲き乱れる中を進む。




そのさらに右側には宝満川があり、覗くと白鷺、五位鷺がいた。


16時、鳥栖TSに着き宿泊できるか聞くが、満室で断られる。どうやら計画が甘かったようだ。仕方なく、あと15キロ、筑前山家駅まで行くことにする。
鹿児島本線の特急の写真を撮る。


17時、ほんのかすっただけで佐賀県を通過し、


再び福岡県筑紫野市に入る。


17時30分~18時、国道3号線を行くが、道路が坂を上がっていった原田(はるだ)のあたりから歩道が不明瞭になり、道迷い。ロスを繰り返し、ようやく通りかかった婦人に聞いて判明。彼女によると、つい先日も福岡の女子大生が自転車で来て迷い、教えたとのこと。迷いやすい場所ではあるようだ。一安心して、コンビニで駅寝に備えて買い物。牛乳、食パン、おにぎり2個。
18時30分、西鉄天神大牟田線の筑紫駅横を通過。


18時40分、再び宝満川を渡り返すころには日没を迎える。


19時10分、やっとのことでJR筑豊本線の無人駅である筑前山家(ちくぜんやまえ)駅着。


記録と家にメール。終電の9時30分頃を前に、駅寝のルールを無視して眠ってしまった。駅舎は戸のない吹き抜けのため夜中は非常に寒く、途中でレスキューシートをシラフカバーの上にかぶったのだが、それでもまだ寒かった。シラフカバーではなく、やはりシラフを持って来るべきだったかな。
今日はこれまでで一番長い距離を歩いたが、上天気だったので、昨日、雨で写真が撮れなかった分を取り返すべく、思い切りとりまくった日だった。こんな日もある。

経費  1,527円    累計  53,858円
歩数  68,972歩   累計  623,895歩
距離  46km    累計  404km



徒歩の旅 第13日 瀬高町  ルノワルユースへ

2009年02月05日 | 2008年日本海側の旅
4月23日(水)曇のち雨 (「丸山キャンプ場」~瀬高町「ルノワルユースホステル」)



4時少し前に起床。天気予報は雨だが、まだ降ってきてはいない。
5時、暗い中を出発。玉名広域農道まで昨日の道を戻る。坂道の途中、両側に林立する「成功の灯篭」がちょっと不気味。右足首をカバーしつつ、時々後ろ向きに歩いたりして痛みをやわらげつつ下り、
5時40分、やや明るくなった頃、農道に合流。そのまま雲が広がりつつある空の下、いくつも起伏のある単調な道を行く。
6時05分、玉名市に別れを告げ、荒尾市に入る。


(荒尾といえば、開聞岳へ向かうべく、4月9日に、JR鹿児島本線普通列車の接続待ちをした駅である。あの時も雨が降っており、肌寒いホームには他に誰も居なかったっけ。一人ベンチに座って、雨に濡れた鹿児島本線が発着するさまを眺めつつ、ずいぶんと遠くまで来てしまったものだと実感させられた。2週間後の今日の荒尾もまた雨である。)

(これは4月9日の写真)

6時、小雨が降りだし、雨具着用。
雲の流れが速く、しばらく降ったりやんだりを繰り返す中、段丘に棚田が続く里山風景を眺めつつ歩く。




7時、本格的に降りだしたので、ザックにもカバーをかける。この後、時として小止みになりつつも、一日中ずっと雨天のため、防水仕様ではない我がデジカメは終始ザックの中。したがって残念ながら写真はなし。
7時40分、萌黄色とでもいうのだろうか、新緑が雨を浴びて実に美しく、鶯も鳴いている。杜牧の、「千里鶯啼緑映紅」(千里鶯啼いて緑紅に映ず)という「江南春」の一句などを口ずさみつつ行く。緑の木々の匂いが心地よく、また同じく緑色といっても、濃い緑から淡い緑、黄色がかった緑など実にさまざまな色合いがある。写真に撮れなかったのが残念だ。
8時、福岡県大牟田市に入る。3県目である。しばらく行くと不明瞭な分岐。バス停にいたおばあさんに尋ね、さらに進む。
9時17分、コンビニにて、牛乳、ピザパン、菓子パンを買い食事。
9時45分、狭くていかにも農道を簡易舗装しただけという道路ヘ入る。車同士が交差しつつ次から次へと通り、歩行もままならず。あげくにバスまでもが進入してくるではないか。東京ならまちがいなく一方通行になっているところだ。何処かへの抜け道になっているのだろうか、無茶苦茶な状態になっている。その後、道が錯綜してきて、進路を失う。なんとか208号線に出たいと思いつつ、勘をはたらかせながら行くも外れを繰り返す。途中にあった店の人にも聞くが、駄目。今度もまたバスを待っていたおばあさんに尋ねる。おばあさんは丁寧に教えてくれたが、目印まではかなり距離がある。さらに再び彷徨って、
10時40分、やっと国道208号線に出て一安心する。昨夜のキャンプ場泊のため幹線道路から外れたわけだが、戻るのにだいぶ苦労した。
11時、西鉄天神大牟田線の倉永駅を通過。西鉄線や鹿児島本線の写真をケータイのデジカメで撮ろうとするが失敗。
11時25分、みやま市に入る。その後は、左右に青い麦畑を見ながら雨の中を北上。鹿児島本線の特急もケータイで写せず。その後、
12時20分~40分、荒仁神社で雨宿りを兼ねて休み、食事。今日は、雨の中を、雨具を着け15キロのザックを背負って、何度も迷い彷徨いつつ歩いたため、ザックからデジカメを出す意欲も失われてしまった、ということか。
13時40分、ガソリンスタンドで「ルノワルユースホステル」の場所を確認し、予約電話では素泊りだったため、途中で食料調達。食パンと菓子パン3個。
14時、「ルノワルユースホステル」に着くも、鍵が開いておらず、ガタガタやったり、電話すべくケータイで番号を調べたりしていると、中からおばあさんが開けてくれる。しかし「今、係がいないから」云々で、土間にて待たされる。民間のユースとはこういうものかと、熊本県青年会館に併設されていた「ユースピア熊本」との差に驚きながらも、くたびれてすのこに座り込み、居眠りをしてしまう。(実際には、ユース規則をよく読んでいなかったためのこちらの誤解によるもの。ユースのチェックインは16時だったから、時間前にガタガタやった当方が間違い。)
15時、ユースの「係」といわれた奥さんが戻ってきて部屋に通される。二階の畳敷きの一部屋で、古典的なユースのつくりの感じ(指宿の「圭屋ユースホステル」に似ている)。


但し、夕食(素泊まりのつもりでいたが、食事の用意ができるというので急遽方針変更して頼むことにした)は、てんぷら、筍の煮付け、鯖の塩焼き、豆腐、スープ、といずれもうまかった。部屋の隅に雨にぬれたザック、雨具、等々を干させてもらう。宿泊者は一人だけなので、風呂のあと、手足を伸ばしゆっくり畳の上で寝ることができた。

経費  4,665円    累計  52,331円
歩数  44,293歩   累計  554,923歩
距離  30km      累計  358km

* 経費は、その日に財布から出して支払った金額の合計。以前にも書きましたが、ユースホステルは当日支払い、国民宿舎などは翌日支払いでした。
* 歩数は、携帯電話に付属していたもので計りました。但し、コンビニやスーパーなどでの買い物の際も歩数に入ってしまっています。
* 距離は、おおむね『ツーリングマップル』をもとに合計した概数(小数点以下は、四捨五入)を示しています。

徒歩の旅 第12日 玉名市  丸山キャンプ場へ

2009年02月03日 | 2008年日本海側の旅
4月22日(火) うす曇のち晴 (「ユースピア熊本」~玉名市「丸山キャンプ場」)



5時50分、出発。市内を進み、熊本高校横や県立美術館前を通り、子飼交差点で国道3号線に合流。再び、見慣れた「門司○○km」というキロポストに出会う。
北上して、
7時、北熊本の跨線橋から熊本電鉄の写真を撮る。


振り返ると、昨日上った熊本城の天守閣がはるかかなたやや左に見える。


拡大写真。


街路樹の根下では、ツツジが盛りである。


7時30分、山室分岐。長いだらだらとした上り坂を行く。今日は一昨日よりも足首の具合はよいようだ。ただし油断は禁物(案の定、後で両足の小指が痛くなった。買った靴下がやや厚くて合わなかったせいだろうと思われる)。
8時05分、島津・細川氏などの参勤交代時に、休息所として使用されたといわれる「御馬下の角小屋」を通過。




9時10分~20分、コンビニで買い物と食事。牛乳、赤飯おにぎり。それと手持ちのカロリーメイトを食べる。
9時20分、田原坂方面の指示標あり。


9時25分、分岐で3号線と別れる(この時点で門司まで176.4キロ)。


田原坂公園への一方の入口。


国道208号線に入ると、両側にはハウス栽培の畑が多い。




11時10分、もう一方の側の田原坂公園入口通過。資料館などもあるというので立ち寄ってみたかったが先を急いでしまった。


このころより路傍に西南戦争の戦跡の碑が増えてくる。「官軍攻撃第一線」、「官軍病院跡」、「乃木奮戦跡」等々。






石碑には「乃木第十四聯隊長奮戦阯」とある。日露戦争における二百三高地攻撃のあの乃木将軍である。


昨日の熊本城見学の際にも感じたことだが、西南の役について旅が終わったら少し調べてみたい。「維新政府の進める近代化に対する不平士族の反乱」といった遠い昔の受験知識にとらわれず、不十分なものであっても自分自身の中で評価を出してみたい、などと考えながら歩く。
12時15分、玉東町より玉名市に入る。
13時10分、バイパス分岐。ややわかりづらく、コンビニでコーヒー牛乳、おにぎり2個を買い、ついでに店の人に道を確認。
単調なバイパスを行く。正面の小山が本日宿泊予定のキャンプ場がある小岱山(しょうたいざん)か。


バイパスは緑が多く、この写真では光線の具合で青空が白飛びしてしまっているが、空は晴れ渡り、春の里山の風情。




菊池川大橋で菊池川を越える。


広域農道に入るあたりもまたわかりづらい。ザックを置いて周囲を確認し、
蛇ガ谷公園横を通過。八重桜とつつじが今を盛りと咲き誇っているので写真に撮る。青空の下、まさに春爛漫といった感じ。




玉名広域農道を進み、
14時30分~45分、湧水の郷で買い物。トマト、食パン、菓子パン、ピーナツ味噌。湧き水を飲み、店員にキャンプ場を教えてもらう。広域農道を道なりに1時間ほどで、蓮華院の入口。右折してだらだらと坂を上っていく。両側に成功祈願の灯篭が沢山ある。
立派な奥の院(法然上人の師が生まれた寺であるとか)があり、


それを越えてやや下っていくと、
16時15分、小岱山のふるさと自然公園内にある「丸山キャンプ場」に到着。管理事務所は定休日。翌日の雨に備えて、幕営適地をさがして整地。
16時30分、テント設営完了。奥の方にもう一張りテントがあっただけの、木立に囲まれた落ち着いた泊まり場である。幕営無料。
今日は、一日中海を見ることがなかった。これからも内陸部通過のため、海は関門海峡までしばらくお預け。

経費  1,309円    累計  47,666円
歩数  50,134歩   累計  510,630歩
距離  35km      累計  328km


*明日は仲間同士の勉強会があるため、ブログはお休みします。

徒歩の旅 第11日 熊本連泊 

2009年02月02日 | 2008年日本海側の旅
4月21日 (月) 晴 (「ユースピア熊本」に連泊)

休養日につき、熊本城を見学に行くことにし、9時30分にユースホステルを出る。途中で水前寺駅前郵便局のATMで2万円おろし。
家から持ってきた靴下の内、1足の右足に穴があいてしまったので、「シェルパ」という登山用品店で、靴下を2足買う。
ところで、九州の岳人たちはどんな山に登っているのかな?


熊本城に着き、須戸口門から入城。


若葉隠れに見えるのもなかなかの風情。








熊本城は、1607年に加藤清正が築城したことを記念し、2007年から08年にかけて「築城400年祭」の催しをやっている。
城の石垣は、「武者返し」と呼ばれ、始めは緩やかな勾配が上部に行くにしたがい垂直に近くなり、敵を寄せつけないようになっているのだそうだ。特に、江戸幕府にとっての仮想敵と考えられていた薩摩藩に対する備えとして、南側が堅固な構造になっているとのことである。






本丸前の広場から。


実戦重視の城だとはいえ、やはり天守閣は美しい。


本丸に入ると、熊本城の城郭模型がある。


その拡大。


途中の階では築城400年の催しの展示がある。細川家の文物や西南の役に関するの展示など興味深かったが、中でも神風連の斉藤求三郎のオランダ語学習ノートには驚かされた。国粋主義者がかくも丁寧に外国語を学習し習得しようとしているのを知り脱帽。すごい人物というのはどこにでもいるものだ。


天守閣から、明日たどる道の方面を確認しようとしたが、よく分からなかった。天気は晴れ遠くは春霞の中に消えていた。混雑してきて写真を撮らなかったのが残念。
天守閣を降りて、下の広場で武者絵のぼりの写真を撮る。


たくさんはためいていたが、絵柄はやはり清正の虎退治が多い。


天気もよく観光客もさらに増えてくる。


備前堀跡の緑が眩しい。


神風連の大田黒伴雄、加屋霽堅、斉藤求三郎らの激戦跡の石碑を見る。




馬具櫓。


坪井川と櫓。


最後に加藤清正像。


自宅などへお土産を送るため、道端に腰掛けていた老婦人に尋ねると、交通センターの地下の売り場がいいとのこと。「五十四万石」という和菓子を薦めてくれたが、こちらの目当ては「陣太鼓」。さらに地下街で昼ご飯を買い、辛島公園のベンチで食べる。
帰りは、市電通りをめざして「熊本一の繁華街」のアーケードの中を抜け、昨日通った市電に沿った道を水前寺に戻る。駅前局でエクスパックを買い、ザックの重量軽減のため自宅に送り返す品々を梱包、発送。
ユースの夕食は、ビーフステーキやエビフライなどの洋食だった。
今日は天気もよく、美しい城も見学できて、豊かな一日だった。明日からもまた頑張って歩こう。

経費   4,919円    累計  46,357円
歩数  (19,093)歩    累計には加えず。
距離      (?)km    累計には加えず。

徒歩の旅 第10日 熊本市  ユースピア熊本へ

2009年02月01日 | 2008年日本海側の旅
4月20日(日) 晴 (「道の駅竜北」~熊本市 「ユースピア熊本」)




早朝4時30分頃、道の駅の売店の準備だろうか、数人の男たちがドヤドヤガヤガヤ。大声で喋りはじめたので目が覚める。うとうとしつつも、5時に起床。牛乳とカロリーメイトだけの朝食。足痛は相変わらず。
6時30分、「道の駅竜北」を出発。


昨日に続き、広々とした田園地帯を行く。


麦の穂が豊かに実りつつある。


江頭あたりで、右側の川に鯉が泳いでいる。ちょうど地元神奈川県の大船の川を小規模にした感じである。
はじめは蓮華田など見ながら行くが、
熊本市郊外のためか、高速道路に乗る車のため歩道がなくなっていたり、大変遠回りだったりした。それでもバイパスは舗装が新しいので歩きやすい。周囲にもこれといった高層建築もないから空が広い。
8時05分、道路わきに「景行天皇の御遺跡」がある。熊襲平定のための九州遠征時に立ち寄ったということらしい。


8時10分、わかりにくい分岐があり、「左熊本」とあるのだが、3号線は右である。ちょうど来た高校生に聞くが分からず、歩道橋に上がって確認。


9時15分、松橋(まつばせ)に入ると、ところどころに小花壇がある。そばにそのつど星野富広さんの詩が書かれてある。「たち止っていいんだよ ふり返っていいんだよ そこに美しいものを見たのなら すわりこんで ずうっと見ていて いいんだよ 星野富弘作 管理団体 曲野北部老人会」と。ここのところ歩くピッチが早くなっているようで、やや反省。


蓮華田はあざやかなピンク。


しばらく行き、68歳の男性と出会って話しながら歩く。熊本市内に住んでいる自称「現役」サラリーマン。この近くに別荘があり、週末に来て周辺を散歩するのが楽しみとか。歩いて日本列島を旅する人なんて初めて、記念に写真を撮らせて、と言われる。さらに行くと中年の男性ドライバーの車が寄って来て少し話す。何処から来たのか、何処まで行く予定か、ザックの重さはどれくらいか、等々。方向が同じなら乗せて行ってやろうと思った、とのこと。あいにく方向は逆で、かつこちらは歩き旅のため、丁寧にお礼を言い、激励されて別れる。また、長距離トラックが2度ほど警笛を鳴らすので見ると、運転手が手を振ってエールを送ってくれている。こちらも手を振る。
10時15分、松原で3号線が右折すると、市街地に近づいた雰囲気である。


10時40分、途中に、「甘酒万十」ののれんがある店で「饅頭」ではなくて「万十」を5個買う。老夫婦二人きりで商売していたが、きめ細かいこしあんがとてもうまい。お茶のペットボトルを飲みつつ、食べながら歩く。


10時50分、「門司 200km」のキロポストを過ぎ、
11時05分~20分、コンビニで牛乳、おにぎりを買い昼食。
11時30分、緑川橋で一級河川緑川を渡る。


本当に緑色をした川の水だ。


11時35分、豊肥線を越えて世安交差点を右折、熊本市街地をさまざまな色に塗られた市電の写真を撮りつつ行く。熊本市は生活の足として市電が大活躍という印象をうける。
 

 







今日は素泊りなので、食料入手のためユースホステル手前でスーパーに寄り買い物。トマト、きゅうり、バナナ、りんご、おにぎり、コロッケ等々。
15時、「ユースピア熊本」着。連泊の手続きをする。ユースホステルの宿泊費は当日払い。ここは、11日前、自宅から鹿児島県指宿へ向かう途中の4月9日にも泊まったユースホステルである。あの時は雨だったっけ。あっという間の10日余りだ。


部屋は一人きり。風呂でゆっくり汗を流し、昼間の「万十」の残りを味わいながら食べる。


経費  10,230円     累計  41,438円
歩数  46,227歩     累計  460,496歩
距離  30km       累計  293km


徒歩の旅 第9日  氷川町  道の駅竜北へ

2009年01月31日 | 2008年日本海側の旅
4月19日 (土) 晴 (「ペンション・トリエ」~氷川町「道の駅竜北」)



7時05分、昨晩、朝食を6時30分にと頼んでおき、トリエの奥さんからの激励の見送りを受けて、出発。


朝の八代海を眺めつつ、国道3号線まで坂を下っていく。
海岸のヤシの木に朝日が当たり早朝の清々しい気分。


海の色も美しい。


海上に浮かんで見えるのは天草諸島。


7時20分、反対側の新緑の木々も朝日に輝いているようだ。


途中にあった民家の桜、緑がかった花びらはウコンザクラという種類か?


7時40分、国道3号線に合流。晴れわたった空の下海も輝ききれいである。足の痛さも忘れそう。
鯉のぼりの季節。


今日は他にもいくつか見かけたが、土地柄、加藤清正の虎退治の図柄が多い。



 
9時、門司まで250km、熊本まで63km、の地点にある「道の駅たのうら」。


土曜日のためこの時間でも大変に混んでいる。多くの人に混じって、バイクのライダーも7~8人いた。休憩所は畳敷きで睡眠可能、宿泊もできそうだ。「道の駅竜北」の方ははたしてどうかな。
新緑の峠に向かって進み、
10時05分、赤松トンネル680メートルを抜けて、八代市に入る。この付近の「津奈木太郎峠」「佐敷太郎峠」「赤松太郎峠」の峠を「三太郎峠」と云うそうだ。
11時、コンビニで食事。
11時10分、日奈久はちくわの産地である。


11時55分、肥後二見駅でおれんじ鉄道と合流。
12時05分、薩摩街道十四里木跡を通過。


海の向こうに、八代の工場の煙突からの煙も遠く見えてくる。
12時30分~55分、日奈久温泉駅へ。


国道をはずれて温泉街を歩いて見る。2009年は開湯600年とか。 


種田山頭火の碑があり、『温泉はよいほんたうによい ここは山もよし海もよし出来ることなら滞在したいのだが 一生動きたくないのだが』と 刻まれてある。そばに湧いている温泉水を飲む。




13時05分、日奈久神社通過。 
14時20分、肥後高田駅の地点でショートカットして、国道から離れ、
15時、球磨川にかかる新萩原橋へ。球磨川は、富士川・最上川と並ぶ日本三大急流の一つだが、このあたりまで来ると広くゆったりした流れになっている。


河川敷も広々としている。


橋をわたり再び3号線に合流。
「このみちや いくたりいきし われはけふいく 」、ここにも山頭火の句碑。


菅原道真を奉った萩原天満宮のご神木(イチョウ)の横で、球磨川を眺めつつ小休止。


その後は、八代インターが近いせいであろうか車が非常に多い道路を黙々と歩く。
16時20分~35分、コンビニにて食事。
17時10分、八代市を抜けて氷川町へ。広い田園地帯が左側に広がる中を行く。


17時40分、氷川橋を渡り、
18時30分、「道の駅竜北」に到着。こちらも畳敷きで宿泊可能であった。足首痛は相変わらずのため、熊本ユースホステルに連泊を予約電話し、計画調整と休養で、20日・21日を熊本で過ごすことにする。今日はたしかによく歩き、歩数もはかどったが(63,821歩)、足痛による歩幅の縮小によるもの。食料を購入しようと思ったが、道の駅の店は既に閉まっており、自販機でジュース・牛乳だけ買う。カロリーメイトだけの、昨夜とは大違いの貧弱な夕食になるかと思ったが、疲れきってしまったため、ジュースを1本飲んだきりで19時半頃には眠ってしまう。泊まったのは一人きりだった。

(経費   836円     累計   31,208円
 歩数  63,821歩    累計   414,269歩
 距離   39km    累計   263km)

徒歩の旅 第8日  芦北町  ペンション・トリエへ

2009年01月30日 | 2008年日本海側の旅
4月18日 (金) 曇のち晴 (「出水湯泉宿泊センター」~芦北町「ペンション・トリエ」)



6時50分、出発。今日の泊まりは「道の駅たのうら」が目標。やや長丁場だが、これをクリアすれば熊本のユースホステルも射程距離内に入ってくる。
海は東シナ海ではなく、もはや八代海になっている。


6時55分、明日、八代でお別れになる肥薩おれんじ鉄道の写真を撮る。


7時50分、鹿児島県を後に、熊本県水俣市に入る。沈澱日も含め抜けるのに7日余り、前途は遼遠だがまずは一つの区切りである。


さらば、鹿児島県。


8時10分、袋駅入口。空は曇っており風が強く寒い。波が高い中でも漁をしている船が一隻。
今日は鹿児島街道(薩摩街道)に沿って行くので、道端に「江戸―薩摩」などという方向指示標もある。かつての島津候参勤交代の道。篤姫も、そして西郷隆盛・小松帯刀も通った道である。


8時50分、月の浦橋を見つつ行く。




9時、青空が広がりだし、日が差し始めるも、また曇にもどってしまう。しかし、陽が当たると木々の新緑も野菜畑の緑も実にきれいである。


9時40分、広い公園のわきを通り、水俣駅を通過。


その先、水俣川でも岸辺にたくさんの鯉のぼりが泳いでいた。対岸は満開のツツジである。

(クリックすると写真が大きくなります)

10時、「田中正造と足尾銅山鉱毒事件」という講演会の看板のある徳富蘇峰会館を過ぎ、


少し行くと淵上毛銭の墓入口とある。


左手を登ると水俣市を見渡せるところに墓があった。昔読んだ松永伍一の『荘厳なる詩祭』という夭折詩人の伝記に啄木・宮沢賢治などと共に載っており、その名前は知っていた。墓石の傍に、「風と光 愛と花 神神の絶ゆることなく」という詩碑が立っていた。


墓地からは水俣市街が一望されるが、青空の下、なんとなくのどかに見える。


10時35分、九州新幹線の新水俣駅を通過。


10時40分~50分、コンビニで牛乳、ソーセージドックを買い昼食。
11時20分、ドラッグスーパーで、テーピング、蚊取り線香、サロンシップを買う。さっそく足首に湿布を貼って、テーピング。少し楽になったようだ。
12時、津奈木駅を通過。ふたたび里山のような田園地帯を行く。




13時30分、津奈木トンネルを抜け、芦北町に入る。トンネル内通行時に反射リングは有効のようである。
その後、時々来る肥薩おれんじ鉄道の写真を撮りつつ行く。

(クリックすると写真が大きくなります)


(クリックすると写真が大きくなります)

14時15分、新幹線の下をくぐり、湯浦駅へ。
湯浦川沿いの公園は快適な道。白鷺、ごい鷺など眺めつつ行く。佐敷を過ぎ、1570メートルの長い佐敷トンネルへ。出たところが海浦。


トンネル内で、芦北町は田浦町に変わった。
少し行くと、電柱に「ペンション・トリエ」の看板を見つけ、宿泊を申し込む。田浦道の駅までの計画は断念。坂道を30分ほど上って、
17時10分、「ペンション・トリエ」着。途中、八代海や天草の島々などがきれいなので、写真を撮る。 


「トリエ」は1泊2食4,200円とは思えないほど豪華な食事(ご飯と味噌汁の他に、てんぷら、さしみ、えび、から揚げ、お稲荷、きんぴら、ひじき、たけのこ)で、宿の奥さんに、安すぎて儲けがないのではないかと尋ねたら、食事の儲けはないが、作る楽しみが儲けなどと仰る。(明早朝出発のため、当日会計。)
夕日の写真を撮り、

(クリックすると写真が大きくなります)

景色のきれいなことなど奥さんと話をし、風呂・洗濯で寝る。

(経費   6,075円      累計   30,372円
 歩数  56,988歩     累計  350,448歩
 距離  34km        累計     224km)

徒歩の旅 第7日  米ノ津町 出水湯泉センターへ

2009年01月29日 | 2008年日本海側の旅
4月17日 (木) 曇のち晴一時雨 (唐浜海水浴場の監視小屋~米ノ津町「出水湯泉宿泊センター」)



昨晩は、17時に眠ってしまった。19時30分頃に一度目を覚まし、その後、22時頃に波の音と異なる音で目が覚めると、近くの広場(海水浴場の駐車場)で暴走をやっている車が1台いた。やかましいと思いつつも、いつの間にか眠ってしまった。午前3時ごろ目覚めたときにはもういなかったが、今後の公園や駐車場周辺のテント泊は場所の見極めが重要なりと実感。4時半起床。カロリーメイト1本、夕食の残りのゆで卵、コーヒーで朝食。予報では天気は回復に向かっているようだ。昨日の強風は去り、海は穏やかになった。


6時20分、出発。昨日の道を踏切まで戻り、しばらくは肥薩おれんじ鉄道と並行して歩く。


藤の花が満開である。


6時50分、電車が来たので写真を撮る。 


鹿児島街道(薩摩街道)の国道3号線を北上し、


7時15分、佐山トンネル。反射腕バンドを使用して通過したが、実際には短かった。東シナ海に沿って行くと、空も晴れてくる気配である。
変化に富んだ海岸線が続く。




8時30分、西方駅前のコンビニで、おにぎり2個とカロリーメイト、湿布薬は売っていなかったので「熱さまシート」というものを買う。すぐに「熱さまシート」を右足首に貼り、おにぎりで食事。一旦、海に沿った道路から離れて歩く。    
9時少し前、阿久根市に入る。




「熊本140km、水俣50km、阿久根15km」の距離表示を過ぎ、再び海岸沿いに戻る。


9時20分、下りのおれんじ鉄道通過。


9時30分、道路の両側にヤシの木が植えてある「道の駅阿久根」に着くが、周辺地図の写真を撮っただけで素通り。




海岸線の変化を楽しみつつ歩く。




牛ノ浜では、沖の方の島に鳥居が立っていた。




10時40分、西目交差点通過。またしばらく海から離れて内陸部を通り、
11時10分、上りのおれんじ鉄道を写す。親近感を感じて来る。予定では明日でお別れか。さびしいような気持ち。


11時30分、ドラッグスーパーで、買い物。カロリーメイト3箱、スポーツドリンク。このあたりで熊本ナンバーの乗用車3台目を確認。鹿児島県を抜けるのも間近。
阿久根駅前商店街。ここもさびしい感じである。地方都市の過疎化か?




11時55分、阿久根駅を通過。


12時45分、クアドームアクネ通過。温泉に入っていきたかったが時間がない。先を急ぐ。
13時10分、折口駅入口。今日の予定はここまでだったっけ、と考えつつも、先へ。
しばらく行き、「出水温泉宿泊センター」の看板を見つける。もし水俣までたどり着けないようだったらここの温泉にでも泊まろうかと考え、電話番号を控える。


13時20分、水俣まで26kmの標識がある。単純計算であと6時間余り、やはり時間的に水俣泊は困難か?
13時30分、出水市に入る。


13時45分、餅井あたりで、天気予報が外れて霧雨が降ってくるが、ザックにカバーだけかけて、雨具は着ないで行く。
14時30分、門司まで320kmのキロポストあり。


田園地帯の、見通しのよい長~い一本道を横を走り抜ける車と共にひたすら歩く。
16時、米ノ津小学校を過ぎてバイパス入口、この時分にはセンター泊に決定。電話予約をする。民家の庭先にいた婦人に尋ねると2kmくらい先とのこと(実際はもっとあったが)。米ノ津川を渡り、米ノ津駅を通過。
16時45分、素泊まりの予定なので、スーパーで、牛乳、トマト、食パンを買う。レジ袋をぶらさげて歩いていくと、
17時、センター着。「温泉」のはずが「湯泉」になっている。良心的というか苦しまぎれというか。


風呂はビジネスホテルの一室のもの。成程、「温泉」ではない。料金は素泊まり3000円(翌早朝出発予定のため、当日会計)なので、待遇もそんなところかな。ユニットバスは何か病院の手術前の入浴を思わせる。蚊取り線香をたき、広い畳敷きの部屋にただ一人でくつろぐ。牛乳を買ってきたのは正解で、風呂上りに実にうまし。
今日は一応『ツーリングマップル』の地図3枚にわたって歩いた。61,158歩で、一歩が70センチなら42キロ(実際には荷物を背負っていたので70センチはなかったと思う)。それにしても、足の痛みに耐えて、われながらまあよく頑張って歩いたものだ。

(経費   49,66円     累計   24,297円
 歩数  61,158歩    累計  293,460歩
 距離   40km      累計      190km)


徒歩の旅 第6日  唐浜海水浴場沈澱

2009年01月28日 | 2008年日本海側の旅
4月16日 (水) 雨のち曇 (唐浜海水浴場の監視小屋にて沈澱)

昨晩のうちに、雨天と右足首の腫れのために、今日は沈澱(移動せず休息)と決めていた。朝の海はまだおだやかであった。


季節はずれの小屋は静かで、屋根つき、トイレ・水場使用可、食料・燃料も当面心配なしで、心おきなく沈澱する。雨は朝のうちは降っていたが、やがて小雨に。
されど強風が吹きだす。風をさけるためにテントの位置を変更したり、小屋の中のレイアウトを変えたりする。強風とはいえ小雨なので、浜では貝を採る人が2人ほど。沖には漁船が3隻。
昼すこし前に、管理人と称する2人連れが来る。軽い挨拶と、火事にだけは気をつけてくれとのことで帰っていく。
暇なので、今後の計画を再検討や、肥薩おれんじ鉄道の写真を撮るための時刻表調べをして過ごした。


右足首の腫れは、ほんの少し引いた感じはするが、実際に歩いたらはたしてどうだろうか。
これについては、かいもんキャンプ場で会った件の男性が、四国遍路の経験から、道路のわずかな傾斜が長距離歩くと意外とつらくなる、側溝の上は平らだから、側溝があるところはそこを歩くといい、とのアドバイス。また、事前に読んだ本にも、高専OBの先生が、道路の傾斜したところを歩く際にいろいろ工夫したということを書いていた。
枕崎から吹上砂丘荘へ歩いた旅の2日目昼頃から痛み出したので、そういうことかとも思うが、はっきりしたことは分からず。明日、歩き始めてコンビニがあったら湿布の張り薬を買うこと。残りの食料は、カロリーメイト1本と、あめ、乾パンのみゆえ、それもコンビニで補充すること。
デジカメで国民宿舎の領収書やコンビニのレシートを撮っておく。(後で経費を計算・記録する際に便利であった。)


(経費  0円    累計   19,331円
 歩数  0歩    累計  232,302歩
 距離  0km   累計   150km)

徒歩の旅 第5日  薩摩川内市 唐浜海水浴場へ

2009年01月27日 | 2008年日本海側の旅
4月15日(火)晴のち曇一時雨 (「国民宿舎吹上浜荘」~薩摩川内市 唐浜海水浴場監視小屋)




8時、出発。
 

すぐに国道3号線の鹿児島街道(薩摩街道)に合流し、北上する。国道に入るやいなや、これまでのような田舎の原風景の匂いではなく、文明の臭い(排気ガス)が押し寄せてきた。さすがに九州の動脈、車が多い。
八房川をわたる。


8時10分、熊本まで168キロ。


8時40分、高校野球で知っている神村学園の横を通過。「The future will wait for you~」、と壁面に大きく書いてある。


9時、串木野駅通過。
9時30分、門司まであと350キロのキロポストあり。
10時、金山峠近くに旭小学校があって「創立128年 かしこく やさしく たくましく」と掲げてある。すぐ先の芹ヶ野郵便局にて2万円をATMでおろす。峠の小学校と郵便局――昔を思わせる風情である。写真を撮っておかなかったのが残念。
10時30分、宿駅のいわれを書いた掲示板あり。


高速道路の下を通り、
10時40分、薩摩川内市に入る。古場茶屋(こばんちゃや)に真新しい歴史表示看板あり。参勤交代道の説明で、20年3月と、作りたてである。


その後バイパスに入る。バイパスは新緑で、キブシの花が咲いている。


途中に狸の轢死死骸があり、カラスが一羽たかっていた。狸の生活圏を人間が侵害している故か。気の毒である。
12時20分、向田橋をわたり川内市街に入る。


「シャッター通り」であるが、定休日なのか、それとも地方商店街の厳しい現実なのか。


スーパーで買い物。パイン3切れ、トマト、きゅうり3本、ヨーグルト。
12時40分~13時05分、太平橋のたもとで昼食、休憩。川内川の対岸の河川敷に、たくさんの鯉のぼりが泳いでいる。



(クリックすると大きくなります)

川を渡ってすぐに頼山陽の宿泊跡などがあったが、先を急ぐゆえ通過。
13時25分、県立川内高校。こちらは「文武両道」とある。


13時30分、肥薩おれんじ鉄道を越える。
15時、コンビニとコインランドリーがあり、コインランドリーで水を補給。コンビニで、ボンカレー、VCあめ、カロリーメイトを買う。
15時30分、井戸平橋を渡り、肥薩おれんじ鉄道を撮る。


15時40分、草道駅入り口通過。れんげ田の写真を撮ったりしつつ行く。郷愁を誘う景色。

(クリックすると大きくなります)」

適当なテントサイトを求めて海岸方面に行く。


16時50分、吹上浜臨海公園にある唐浜海水浴場の監視小屋(コンクリート造り)に、わが愛用の黄緑色のテントを張らせてもらう。




雨が接近している模様なので、この小屋の存在は有難かった。草道駅泊、薩摩高城駅泊も考えたが、駅で終電まで待っているのが辛そうなので、こちらを選択。浜辺でボランティアの「磯浜清掃人」を自称する中年のおだやかそうな人と話す。おかげで砂浜はきれいであった。
波打ち際が赤い不思議な現象を写真を撮る。ちょっと不気味である。富栄養化だろうか。彼も写真を撮り、初めてのことだと言う。


川内市内で土佐犬が逃げた、との市役所からの放送あり。はじめは経緯が分からず、土佐犬が近くに来るのかなどと考えて焦ったが、逃げたのは市内だからここまでは来ないとの「磯浜清掃人」の言葉に一安心。夜、(監視小屋がトーチカの中の如き故か)メールの調子が悪く、自宅に電話をかけるが、向こうは特に変化はなし。退職金が振り込まれたとのこと。今日は歩行時に靴下を2枚重ねて履き、一枚は足首を折り返してみた。うまくいったようで、小石が中にまったく入らなかった。ジンマシンはほとんどひいたが、今度は右足首が腫れてしまった。

(経費  7,415円ではなく 8,423円 累計  19,331円
 歩数 44,654歩    累計 232,302歩
 距離     29km   累計    150km)