鳥!連続写真!掲載中!

近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

韓国と日本

2016年11月21日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 隣国でありながらなぜに仲たがいするのか、原因はよくわからないが、お互いに不幸であることは良いことではない。同じ自由貿易経済国であり、経済、社会、民族等それぞれに影響力が強いのであるが、どうもしっくりとはいっていない。戦後生まれの小生にとっては戦後の動乱期に、流言飛語によって民族間に溝が生じていた歴史があったことを知っている。最近の情勢では朝鮮学校への補助金の支給、慰安婦問題等、いまだ解決していない問題も多い。

 

 どの地方へも韓国・朝鮮人のがあり、差別的な言動や、行動があったのも事実で、どこかに溶け込むことができない要因があったのであろう。今の時代では表立った敵対行為等は見ることなないといわれるが、果たしてそうであるのかははっきりしていない。人種差別は、都会においてもあるのだが、どこかで一線を引いて暮らしているのも事実であろう。

 

 最近よく目にする韓国出身のTV解説者が伝える内容は、朴大統領の疑惑事件の発生とともに、我が国とものの考え方が著しく異なることがよく分かった。民族問題を語る立場ではないが、自分が育ってきた間には、韓国をめぐる違和感以上に、魚釣島の韓国の軍事的占拠と我が国の領土帰属問題は明らかに未解決の懸案事項であり、軍が駐留して実効的支配に及ぶに至って、隣国の友好的な関係をほとんどゼロに帰した思いがする。

 

我が国に対する嫌がらせともいえる韓国の行動は、新聞等の報道の域を出ないが、隣国の友好関係の構築とは逆行していて、朴大統領が起こした疑惑も同情する気にはなれない。まったく不幸という他はなく、次世代へもこの関係が続くのもなんともしようがない。戦前の日韓併合は、侵略といえばそうなのであるが、日本が併合しなければ、中国やロシアの属国となっていただけであろう。

 

お互いの思いが異なるわけで、どうも合意できない相談や考え方の違いは埋めようもなく、誠に残念である。以前JICAの仕事で、技術協力に参加したことがあり、相応の支援を行ってきたが、その後の様子は知る由もないが、最近になって、民族の違いを見せつけられるにつけ、無駄な投資を行ってきたようである。韓流ブームも去り、日本からの観光客も姿を消したといわれる。コピー文化やパクリは日常で、密告社会であり、家族主義の悪い面を見せられると、もはや韓国への魅力は失せてしまう。どこへ行ってしまうのか、まるで糸の切れた凧のようである。


行楽シーズンは冷たい

2016年10月12日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 真夏のあの暑さはどこへ行ったのであろうか、朝夕は毛布がいる季節となった。夏の間に重宝した扇風機が起こす風は、涼しさを通り越し、冷え冷えする感じがする。季節の変わり目は温度であろうか、ムッとする暑さを感じなくなった。秋は短いといわれる。いずれ音連れる冬の前触れが秋のようで、比較的温暖な関東でさえ、あっという間に冬が訪れる。

 

 今日は曇天の中、うっそうと茂った緑のカーテンを外すことにした。基本はぶどう棚であるが、二階まではネットをつぎ足し、ユウガオ、朝顔、ゴウヤ、風船カズラ等を日よけとして植えたが、思った通りの日陰にはならなかった。植物はそれぞれ異なる成長の仕方をするし、まだらになって、陽射しを完全に遮るわけではない。これも考え方で、緑のカーテンと思えば、それでよかったのであろう。夏場は大いに楽しんだことを思い出す。庭の一部が明るくなり、縁側は愛犬の居場所であったのであるが、遮るものがなく落ち着かない様子であった。散歩をせがむ愛犬とともに、散歩へ出かけた。

 

 今年の多摩川はいつもの年に比べると増水している。目にする中州が水没し、普段見られる野鳥も岸に集まっていて、撮影の対象としては面白くない。ちらほらカメラマンも増えているが、撮影ターゲットを絞りにくいようである。仕方なく、赤とんぼや、セイタカアワダチソウをカメラに収めている。今年は、コアジサシが営巣できず、場所を変えたようであるし、下流で川幅の掘削工事が進行中で、常に水が濁っていたため、稚アユの遡上が芳しくなかったようである。

 

 川に住む魚類においてもちょっとした人工的なことで、生活環境が変わると、遡上が阻まれてしまい、自然のサイクルを狂わせてしまうようで、敏感と思っている。工事は治水に関係するため、差し止めるわけにはいかないが、いずれは元通りとなることを願っている。中洲や、ちょっとした砂地は、野鳥にとってのえさ場でもあり、雑草も子育てのための住環境となる。人工的な植栽や、舗装が野鳥の住処を奪っているように思える。

 

 野鳥の保護地域との看板もあるが、一方ではキャンプやバーべキュウで訪れる人が多くなる。遊歩道を車両乗り入れ禁止の看板すら守れない輩は、野鳥との共存など全く意も解せず、我が物顔での行動は、目を覆うばかりである。自然を壊しているとの認識はないに等しい。公共施設の維持は、環境を大切にし、壊さず、余裕を持って臨みたい。今年も野鳥や雑草にとって行楽シーズンは冷たいものである。


相撲が国技かその2

2016年09月28日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 相撲が恣意的な取り組み番組を試合の2日前にしかるべき対応として、お歴々がひそかに対戦相手を決めるという。秘かにとは、視聴者にとってみると翌日の取り組み番組が分かればよいのであって、前々日には翌日の取り組みを決めるのである。このことの是非は判断する立場にはないが、相撲が面白いものにする。同じレベル同士の星のつぶし合いを意識的に取り組ませる。同じ部屋同士や、東西対決を取っている以上、同じグループ同士は対戦させない等の配慮は感じられるが、フェアな対戦ではなく、恣意的と感じる取り組み番組は、偶然とはいえない作為を拭い切れないのである。

 

 これという力士を、恣意的に人気力士にし、白星を先行させるなど、どのような操作も可能であるところがどうも胡散臭いのであり、国技として果たして良いのかとの疑念を持たざるを得ない。更には判定が土俵の東西南北に審査委員なる相撲経験者がいるが、判定に曖昧さを持ち、ビデオ映像とは異なる判定が下されることが多い。

 

 審議が行われ、ビデオを参考にするも、最終判断は協議するとの、なんとも時代錯誤が感じられる判定である。このことは、柔道や空手、剣道等の武道にも言えることで、高速度撮影が可能な時代に、その判定を人間の不確かな目に最終判断を任すこと自体時代遅れといわざるを得ない。技術立国が相変わらず、判定方式を変えないのは不思議でならない。

 

 機械にも苦手な部分は確かにある。しかし、人の目よりははるかに精度が高いことは常識である。同体であるなどの判断で取り直しをするが、どれだけ間違った判断で、勝負に負けた力士が多いか、録画で明らかであってもなくても、勝負には審査委員の精度が悪い感覚が優先するのかを冷静に判断すればわかることである。

 

 国技イコール古い体質を持つ、歴史を持つ、悪弊も同時にである。相撲を愛するファンが広がることは好ましい。しかし、取り組みの組み合わせには、リーグ方式が無理であれば、トーナメント方式ぐらいは導入すべきで、恣意的な組み合わせはやめるべきであろう。

すでに、相撲ファンが減ってきていることは、満席となる客席が少なくなってもいるし、古くからの茶屋などの組織や、懸賞金などの掛け金をイベントの一つとしていることは、近代的なフェアなスポーツとは異なる方向に自然発生的に進んでいるのか、それとも何らかの意図をもって行われているのかはわからないが、素直に鑑賞できない疑念が付きまとう。


相撲が国技かその1

2016年09月27日 00時00分01秒 | 緑陰随想

  スポーツのすべてが好きになれないのは自分だけなのか、長年持ち続けているが、はっきりしたことが分からないまま、今の年齢になってしまった。正々堂々としたフェアなプレイを称賛する気持ちはある。しかしながら、一種の博打(ばくち)に利用され、裏で金銭が飛び交う。プロ野球においても、八百長事件は頻繁にあるし、国技と称される大相撲においても八百長事件はつきものである。八百長事件が明るみに出て、世間を騒がした後、関係者は処分され、相撲協会もそれなりの処分があるが、一時すると同様なことがまた起きる。

 

 仲間内のゴルフでも、ニギリと称して、スコアの差を1打いくらかという具合に賭けが行われている。スポーツとはいえないが、競馬や競輪、オートレースなどは、もっとも、公営ギャンブルであり、公に賭けを許していて、その収益は、公共事業等に還元されている。マージンに至っては、金銭を賭けないゲームはないとまで言われていて、犯罪の温床にもなっている。

 

 国民性だけではなく、経済原理からしても、人類に共通しているのが、このギャンブル性であろう。我が国には、公営ギャンブルや宝くじ以外のギャンブルは禁止されている。パチンコもグレーゾーンであろう。カードゲームや、ルーレット、スロットルマシーンを国営として行っている米国や、モナコ等と同様なカジノ場を新たに作ろうとする動きがある。多分、東京五輪を見物に来日すると見込まれる外国人をターゲットとしているのであろう。米国にはすでに、職業訓練の一職種として、カジノで働く労働者に対して、様々なテクニックを教えているのも事実である。雇用拡大に結び付くといえば、もっともな理由にもなり得る。

 

 さて、通常のスポーツ競技は、個人と団体戦であり、リーグ戦とトーナメント方式で、高校野球などでみる競技の仕方である。トーナメント方式は、組み合わせの勝ち抜き試合である。リーグ戦は、参加者が総当たりで行う戦いである。トーナメントは、対にするために最初はくじ引き等で対戦相手を決め、勝ち抜いた勝者が次々に対戦する。どちらも恣意的な要素を含まないため、時間が許す範囲でどちらかの方式を採用しているようである。リーグ戦は、オリンピック競技のように、すべての国で対戦させるため、ブロックを分けて、地域代表を決めてからそこでの勝者の対決となるが、地域や国においても選考基準なるものは若干異なっている。


ガバナンス力の低下その2

2016年09月23日 09時17分21秒 | 緑陰随想

 不祥事が発生しなければ、現在のシステムを見直すこともないであろう。重箱の隅を楊枝でほじくるような話も多いが、スクープやスキャンダルが報道関係の仕事になっている以上、ある程度仕方ないが、地位が上がれば、利権が発生する。それを完全に阻止することができないのではなく、できないようなシステムにしていかなければならない。

 

 悪者探しに始終するTV番組や報道は妬みや嫉妬が大いに関係しているようで、後味が悪い。築地市場移転問題が、今後どのように展開していくのか、食の安全性が、どこまで保たれていくのか、6000億円を費やした豊洲市場は都民が支払った税金である。土壌汚染が発端となった今回の問題は、時間が解決してくれるとは思えない。新知事に期待することは多いが、果たして知事一人が奮闘しても、限界があることは確かなことで、行政を行う都議会や都庁の抜本的な改革が望まれる。

 

 組織の監査機能が弱いことは我が国の特徴かもしれない。不正を防止し、組織の運営に間接的の関与する立場の者が、実は同じ組織のポストであるため、厳しい意見や、粛清を行うことができないため、単なるご意見番であり、これでは一向にらちが明かないであろう。地方自治体は多かれ少なかれ、国の資金や税金が投入されていて、これに関しては、会計検査院の介入するところであるが、ほとんどの部分は、会計検査院と同様な内部監査が行われている。とりもなおさず、性善説によって運営されているのであって、自浄能力は低いといわざるを得ない。

 

 都議会での百条委員会は、それなりの機能を果たしているといえるが、今回浮上した豊洲市場問題には、使われた資金は返ってこない。用途を変えて利用するなどの邪推も聞こえるが、本来老朽化で改築なり、移設なりの方向が出され、時間をかけて現在に至っているし、時間は遡ることは不可能である。当時設計に関与した関係者を引っ張ってきて、罪を認めさせたとしても、何ら建物の安全性が担保できないのである。風評被害が今後とも続くといわれる市場に、市場にはしたくないとの判断に向かう可能性が高いと予測される。

 

 さて、仕切り直しに、都民に納得がいくものができるのであろうか、お手並み拝見であるが、負担を伴う大事業、資金豊富な東京都、金持ち喧嘩せずで、おおらかに行くのか今後とも注視していきたい。


ガバナンス力の低下

2016年09月22日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 情報の共有化が我が国の国際競争力向上や、企業統治のあり方の根幹をなすものであった。組織力、ガバナンスといってもよい。今回、浮上した築地市場移転に見ることができる情報共有化欠如の原因は何であったのだろうか。一つには組織が大きくなりすぎたことが原因していると考えられる。一般的に言われていることは、組織が肥大化することは、組織の基盤をなす、人、モノ、金とその目的が、多くの都民等に理解されていて、存在意義が経済力や、雇用吸収力を良好にしているとの評価によるためであり、良いこととされている。

 

 しかしながら、アメーバーのごとく増長続けると、不要な組織構成要素が発生する。時代の流れ等で、陳腐化するのである。政策についてもマンネリ化し、組織の活力に対してはマイナス要因となる。そこで、組織自らの自浄能力が試される。自浄能力とは、内部・外部を問わず、監査機関や、評価組織であり、結果によっては、人を変え、モノを刷新し、資金を加減することによって、旧体制を切り捨てるか、刷新するかが行われる。このことが常に行われていれば、組織を継続的に発展することが可能となる。

 

 情報はモノに入ると思うが、現在の情報は人工知能に近く、人といっても良いかもしれない。業務の中心は、情報処理にあるとまで言っても過言ではないであろう。細部の業務に至るまで、標準的なシステムが構築され、一見、問題なく、均一な業務を維持しているかのように見えるが、このシステムに頼りすぎる傾向も強く、例外を排除するため、応用が利かないサービス等が横行することになり、横断的や上下の関係も希薄になりやすい。

 

 従来行われていた、ホウレンソウ、(報告、連絡、調整)機能が、働かなくなってしまったのではないであろうか。根回しも同じことで、組織の業務が、ボトムアップ方式で行われていたことが、セクショナリズムに陥り、組織全体の合意とまではいかず、縦割りとなってしまったと考えられる。このことが、重要案件についても、上部が知らない、聞き及んでいない等と組織の体(てい)をなさない傾向を強めていると考えられるが、いかがなものであろうか。

 

 パソコンメールの便利さは、業務を一変したが、隣の同僚や、同じ部署の上司への連絡手段がメールとなっていることも気がかりなことである。確かに変形労働時間制が進行しているし、在宅勤務も試みられ始めている。勤務時間が同一ではなくなり、組織のサービスも24時間体制へ移行しつつあるため、職員同士のすれ違いも発生している。勤務時間が異なることによる弊害も、ガバナンス力を低下させているようである。


事務職と技術職

2016年09月20日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 業種や規模によって事務職と技術職との配分や、役割は異なる。官庁や公共施設においての中枢は一般的に事務職の独壇場であり、大臣を補佐する事務次官をトップとするピラミッド組織を持つ。人事、経理(予算、決算)、総務の部局を持ち、行政上の業務担当が合わせて組織されている。各省庁には共通した人事、経理、総務を持っている。

 

 技術職という範疇は各省庁で微妙に異なる。例えば、心理職、教育職、研究職などを技術職に分類する場合はあるが、技術分野は、理工学部を中心とした科学技術にかかわる専門性を保有している集団である。官公庁ではない民間企業の場合には、産業の専門性による大卒のエンジニアを指している。科学技術の範囲は広く、従来の自然科学を中心に、医学、工学、研究開発、検査機関、宇宙関連、環境、バイオ等最先端科学まで含めれば、無限の領域が含まれる。

 

 事務職と技術職に分割して考えたが、実際は、グレーゾーンに位置する職業も多い。また担当する業務内容によっては、事務分掌による業務の範囲と深さがあり、複雑な人事体系が含まれるため、個々の担当内容は一律ではない。

 

 今回の築地市場移転先の豊洲市場での建物の地下構造が、都が公開している内容と異なっていることによる物議が発生し、移転まで道筋の変更が予測されている。発端は前石原都知事時代に遡る。連日、新聞の報道や、TVによる解説が行われ、出口が見えない状況となっている。当時の責任者との答弁なども二転三転し、言った言わないの水掛け論、事務職と技術職の考えの差などが明らかになりつつある。

 

 縦割り、横割りの組織が内在する問題点も浮上し、問題の拡散が懸念されている。ボタンのかけ違いはどこにもあるが、都議会と都知事の確執の違いや、五輪の会場交通アクセスの問題も絡み、単なる建設された建物安全性だけではない都行政に対する不信感を助長しているように映る。

 

 自分が指摘したい確執に、専門家集団が提案した技術上の提言を、知事発言の忖度などの理由で、曲解したことである。謙虚であるべき事務職集団が権限を持ち、最終決定できるなどの思い上がりが、今回の問題の根底にあることは明らかなことである。組織の存亡は、一部の狼の毛皮を纏ったキツネの無知が引き起こすことは歴史が証明している。


十五夜

2016年09月18日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 中秋の名月として、有名で、月を愛でる(観月)習慣があるのは我が国ばかりではなく、近隣の諸国もそうで、同じ文化を持っている。中でも中国は、月餅というまんじゅうを月に見立て食べる習慣がある。1か月ぐらい前から友人に送るため、中秋には月餅を見るのも嫌になるらしい。毎日食すると飽きてくるのであろうか?最近は十五夜といっても、ススキを飾るわけでもなく、月に見立てた白まんじゅうを食することもないが、サラリーマン諸氏は、月見酒と称して、盛り上がっているのであろうか。

 

 月を愛でるのも風流であり、紅葉を見る観紅,観梅 雪見 観月と時期々の植物や、自然現象を愛でることはなんとなく、余裕が感じられ、良いものである。左利きには同伴の飲み物があり、将に酔うほどに没入できる美があるのである。仕事に追われる多くのご同輩、今宵は月でも愛でて、秋の夜空に酔いしれてはいかがであろうか。昨日までは雲に隠れ、薄っすらとしか見えなかった名月も、今夜は昨日よりはましな月となっている。

 

 十五夜、十六夜(いざよい)立待月、居待月、寝待月などと日を追って、月の出が遅くなる。それに合わせて、月に上げる供物等の準備をし、月を見る。月が出るまでには日々酔いも深まるのである。団子をつまみに酒が主役になり、寝待する月など、すでに月が出るころには酩酊してしまい、見えなかったかもしれない。月に語りかけ、月の中にいるウサギに呼びかける、またはバニーガールを想像し、酔っぱらってないとできない行為であり、大人も子供に返るのであろう。

 

 耳を澄ますと、多くの虫が、合奏している。夏の暑さを忘れさせ、秋の夜長にふさわしい音色である。時々騒音のバイクがかき消すが、世の中は、確実に秋に近づいている。豊洲の市場が喧しい(まなびすしい)。民放ではにわか解説者や、昔関係した都議や、前知事も雁首をそろえて、掴まえ所がないにわか裁判官に変身している。誰を悪者にするか、似た者同士が集まり、その一番を決めている。次にもっと悪いという影武者もジワリと忍び出る。三つ巴となり、グルグル、グルグル。果てしないバトルである。なぜか、過去の出来事を穿り出す。決まって結論はないし、改善策を提案するものもいない。

 

 そのような戯れごとを話題とし、放映側も、それを見ている側もみな同じレベル。時間をつぶすにもうってつけの番組である。どちらが勝とうが負けようが、自分には関わり合いがないと決めつける。無限地獄に入るのである。むしろ、月を相手に酔っていた方が自分には合っている。


嘆かわしい風景

2016年09月16日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 JR南武線で西国立に用事があり、用事を済ませ、昼食を駅前の無門庵にしようということで、立派な和風の門をくぐり、入り口まで庭を見ながら入り口にたどり着いた。特別に価格を安く抑えたランチメニューは15食限りである。12時まで15分あるので、うまくいけばスペシャルランチが食べられると思ったが、入り口についてすでに終わっていたのが分かった。同じ道を引き返し、開店時間を確認したところ11時からということであった。西国立は駅の周りにはほとんど食堂らしきものは見当たらない。仕方なく登戸まで戻ることにした。

 

 無門庵といえば知る人ぞ知る有名和食料理店で、以前大先生と何度か同席し、美食を馳走になったことがあった。すでにその先生は他界されていて、この世では会えないが、来世ではぜひお会いしたい方である。JICAから招聘(しょうへい)された国費留学生や、行政官等のセミナーのコーディネータを長年なさっていて、海外にも先生を慕う多くの方がいる。この方のお住まいは羽衣町だったと記憶している。

 

 川崎行きの各駅停車に乗り込んだ。同時に乗った2名の短大生らしき女性は、ジャージ姿にゴム草履姿で、明らかに体育系女子と見えた。体はどちらも大きく、途中府中本町で下車したのであるが、落ち着きがなく、姿勢も悪く、投げだした足は見事にだらしなく、菓子か何かをぱくつきし、ペットボトルは飲むし、会話はそこそこ、これが現代の若者の姿なのかと思うと嘆かわしくなった。

 

 まともな制服を着用した女学生とは全く異質の世界を見てしまった。一例を見てすべてを察するには無理があることはわかっていても、目障りな光景であったことは間違いない。

傍若無人というのが適切な表現である。体育系を称賛していた自分が見る目がなかったと反省した次第である。様々な生き方はそれでよいが、電車の中では他人の目があり、何をしても関係なく、全く自由と思うのは勝手であるが、そうではないこともある。

 

 同年代の男性にお同様な場面を見ることもあろうが、どうもTPOというか、中学校の先生が、初めての家庭訪問で、ジャージ姿で来宅したことを思いだした。学校教育や、家庭教育の方向性を再度見直すことも必要であろう。自由は多くの人に備わった秩序やルールの下でのことで、一人で生きているのではないことをどこかで気づいてもらいたいものである。


葬儀の残務整理その2

2016年09月14日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 約1週間前に義母死去に伴う不動産の関係等相続にかかわる相談に、地域を管轄する新百合ヶ丘にある法務局へ伺った。前回の時点では、必要な書類は一切持参しなかった。法務局の担当者からは、一連の関係書類についての説明があり、帰宅後、取り寄せ等の準備を行った。以前、女房の手元にある書類は、義父逝去後に義母が遺産相続する旨の分割協議書だけであった。法務局の担当から求められた、土地と建物の登記簿謄本(権利証)は見当たらなかった。

 

 別途、今回の葬儀の機会を利用して義兄との話も進んでいて、義母に引き継がれた家屋や土地の遺産相続は、放棄するとのことであった。義兄は中京地区に自宅があり、家族と同居しているため、住民票、印鑑証明、戸籍謄本等を役場で取り、送付してもらうように頼んだ。義母の方は、戸籍謄本を出生からのものとのことであったので、これも郵送で義母が居住していた役場へ依頼した。

 

 これらの書類の準備に約一週間を要し、ようやく、すべてが揃ったので、それらを持参し、法務局へ伺うことにした。前回の担当者とは異なっていたが、経過を説明後、担当者の方から、土地や家屋の権利証に添付されている詳細についての書類が必要とのことで、なかったため、その作成に取り掛かった。根拠となるのが、不動産税を支払うための、役場から送られてきた納付書(固定資産税納付通知)である。土地は、山林や畑、宅地を含んでいて、40件近くあった。建物についても母屋だけではない付属の建物が5件ほどあり、それらをすべて書類に書き込んだ。

 

 これらは、分割協議書に記載される相続項目とそれにかかる納税表示に関係するものである。多分、司法書士にお願いすれば費用はかかるものの、これらの作業をやってくれるのであろう。今回は自分たちで行うこととしたため、申請のために発生した作業である。一応、大方の作業が終わり、分割協議書に必要な、実印捺印と相続関係図の作成が残った。これらの書類が揃えば、もう一度、法務局へ出向き、担当者に記入漏れや訂正事項等を見てもらい、物件を管轄する実家を管轄する法務局の方へ書留郵便で送付することになる。

 

 三度通うことが通例で、それで済むかわからないが、とにかく最終段階にきていることは、事務の流れからするとそのような気がする。何事もやってみなければわからないのである。私的なことを多く含む内容になったが、その点はご容赦願いたい。


ケーニャとサポーニャ

2016年09月13日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 ペルーの楽器で、葦の笛である。ケーニャは縦笛に似ているが、空気を吹き込み場所は、至極簡単である。たんに、U字型に刻みの入った場所に唇を当て、軽く息を吹き込めば、音になるが、微妙な吹き加減がある。フルートを勉強中の孫娘が、久しぶりに女房に連れられて映画鑑賞となった。もちろん長男の孫も一緒である。

 

 映画の題名は「君の名は」である。驚くなかれ、アニメーションとして復活しているのである。あらすじなど全く知らないが、当時は相当評判になった映画と聞くが、あらすじすら知らないため、どのように現代によみがえったのか、いわれてもよくわからないのが、正直、情けない次第である。

 

 時代は繰り返すといえども、知らないことは、仕方がない。しかしながら、映画館は満員だったようで、同行した女房に聞いてみたところ、半分以上は寝ていたので、よくわからなかったとの返答であった。どっちにせよあまり興味がないので、それ以上の詮索はしなかったが、孫が夢中になるのは何かを掴めずにいる。

 

 食事はいつも娘も加わり、刺身とから揚げのリクエストがあったようで、早速、女房が準備した鶏のもも肉の下準備にかかった。大分は福沢諭吉の生誕の地である中津が、本場ということで、盛んに宣伝している。今回の帰省では葬儀で大部分を消化したが、どこへ行ってもから揚げはついて回り、いささか根を上げていたところであった。リクエストがある以上気合を入れて取り掛かった。大ぶりの鶏肉であり、一口大にし、ニンニク醤油に漬け込む。

 

 約30分後に、余分な水分を流し、鶏卵と片栗粉を加え、全体に攪拌し、馴染ませる。180℃の食用油を温め、二度揚げする。そうするとジューシーで、柔らかく揚げ上がる。アツアツの揚げたてを食べるのが最高にうまい。孫もよく箸を出したようで、日頃経験しない、大皿に盛り上げた鶏のから揚げは、それなりに豪華に見えるのかもしれない。

 

 孫娘も気になっていたという楽器をプレゼントした。フルートを吹いているせいか、数分で音を出せるようになった。JICAの技術プロジェクトで、ペルーへ行っていた友人のお土産である。ケーニャもサポーニャもどちらもペルー産の刻印が彫られている。時代を経て、引き継がれる因縁と行為の大切さを実感している。


集中豪雨

2016年09月11日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 未だに人間の手でコントロールできないことの一つに、お天気のコントロールがある。突風、豪雨、台風、雷、等すべてである。気象については全くのお手上げ状態で、この他、地震、火山噴火、地震に伴う津波、等の自然現象もあり、科学技術を駆使しても自然がもたらす異常を感知はできても、操作するまでには至っていない。一時、砂漠に雨を降らすプロジェクトなるものがあったが費用の面や、効果が一部に限定されるなど、どうも怪しげなプロジェクトであった。今は雨を降らすなど、誰も話題にすらしていない。

 

 砂漠地帯に降る雨は、ごくわずかな量であり、それでもそこに適応して生き続ける動植物がいる。地中深く掘った井戸は、オアシスとは異なる水の供給手段として利用されているし、我が国が海水を淡水にする技術援助は多くの国で利用されている。ペットボトル等で飲料水の供給はもはや、砂漠の国ばかりではなく、水の豊富なわが国でさえ、利用されている。我が家にもサーバーなる装置があり、常に冷水と温水の飲み水を利用している。

 

 飲料水のビジネスは見事成功しているし、普段摂取する飲料水以外のコーヒー、紅茶、日本茶なども、自動販売機で容易に飲むことができる。水の問題はある程度コントロールが可能と思えるが、今回テーマとした、集中豪雨などは、ゲリラ豪雨とも呼ばれ、短時間に一部地域に集中して豪雨をもたらすので、排水が追い付かず、河川の氾濫や、土砂流出の被害が発生する。それでも治水対策や土留めなどの土木技術の向上で、ある程度抑えることができている。

 

 問題なのは、台風や、竜巻、落雷、豪雨、豪雪などは、全く手に負えないのである。予測はできても、そのこと自体をコントロールすることができないし、解消や軽減することが不可能な状況である。天気予報などで、注意を喚起するだけで、防ぐことができないのである。発生の度に同じ注意報は出るが、根本からの対策はとることができない。

 

 その意味では、人類の英知には限界ありとしなければならないのである。そのなかでも、フロンによるオゾンホールが拡大し、太陽からの紫外線量が人体へ悪影響があるとして、フロンの使用をやめたところ、効果があったようである。地道な努力が温暖化を避けることも言われている。自然災害を阻止することは不可能であっても、この分野の問題解決への挑戦は大変重要であり、諦めずに行ってほしい。


多摩川の流れ

2016年09月09日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 台風13号崩れの温帯低気圧が河川の氾濫や、集中豪雨で緩んだ傾斜地の法面や、急峻な山間部で被害を起こしている。安定した天気は期待できないが、それでも、雨天の合間に愛犬の散歩に出かけた。徐々にではあるが、河川は澄んできたように見える。水量はまだ多く、えさを求めて飛来したコサギやアオサギは居場所がないようで、狭い場所でも縄張り争うがみられる。ほとんど人の気配はなく、静かな多摩川である。

 

 川面を見ると水面下ではカワウに追われた小魚が盛んに逃げ回っているようで、川面にはね出る。それを見ていて、中国のことわざを思い出した。「水清ければ、大魚なし」。語源は、厳しい態度で臨めば、人々の支持を失う。できるだけ寛容な態度で臨み、小過を許し、大綱だけを抑えるという意味であるが、衛生的といわれる環境はかえって住みづらいとの意味もあるような気がする。または、浮世は決してきれいな場所ではなく、様々な人種が住む坩堝(るつぼ)との意味でその中に大物も存在するのかもしれない。

 

 「清流の清濁はその源(みなもと)にあり」。これは組織論で使われる格言で、組織のトップがまともならば、自ら部下もまっとうとなり、トップがだめならば、部下にも感染するという意味である。自らの組織について考えてみればよくわかる。トップがいい加減であれば、部下にいかにまっとうとなれと気合をかけても部下が清流にはならないのは自明の理である。

 

 もっとも有名な格言に、「呑舟の魚は支流に泳がず」がある。舟を飲み込む魚を呑舟というが、そのような大きな魚は、川の支流にはいないということである。人生の目標は大きくあれ、人の成長には環境が必要であるという意味を含んでおり、こせこせした環境では、大きな魚は住むことができず、別の組織に移っていく。組織を運営するには人物を見抜く力が必要で、トップはいつもそのことを考え、部下を成長させてほしいものである。

 

 川面を見ながらのたわごとかもしれないが、格言が持つ含蓄は、時代を超えても通じるし、人生の教訓にもなりうる。思い出したので紹介することにした。


死後の旅その5

2016年09月07日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 どうも腑に落ちないのは、死者に対して安らかに眠ってくださいという願いと、仏の道に進むための試練やお努めが、死後も続くということである。仏教では、7日ごとに閻魔大王なる裁判官に近い権力者の前に引き出され、尋問を受けるとかいわれている。将に針の筵で、お白州での捌き、馬鹿げていると思うのであるが、鵜呑みにする死者の関門であるとする考えは、恐れ入る。これはその発生までは定かではないが、恐怖心をあおる一種の恫喝、脅しに他ならない。

 

  そのことを否定しない無責任さは、どう考えてみても、現代の仏教界の怠慢である。なにも地獄と天国に二分する必要もないし、生前の善意が来世を決めることとしても、親鸞聖人がいっているように、「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや、悪人おや」である。この教理は、自分では最もふさわしい仏教の教理と思うのであるが。

 

 そのことを無視してか、死者は三途の川を渡り、現世とおさらばするが、待ち構える裁判官らに行く手を阻まれ、現世での悪事を償うとのことで、閻魔大王のお沙汰待ちとなる。なんともやるせないではないか、家族や親族、知人が現世のお行いを甘い評価だとしても、それを送り言葉としたのは真実半分、あとはお世辞であったかもしれないが、決して的外れではないであろう。

 

 むしろ、初めて死者と会う閻魔大王が、衆生の行動までも詳細にチェックできているとはいいがたい。更には、過去の判断基準は冤罪かもしれないし、誤った勝手な判断では、将来の死者に対しても、信頼関係が崩れ、信頼を失うかもしれない。突然現れる地獄の亡者ども、閻魔大王の手下も許しがたい。なにゆえにそのようなひどい試練を真っ当に生きた亡き人に課すのか、それを教条とすれば、何たる低次元の話であり、許されることではない。

 

 このようなたわいもない話を、大人がまことしやかに語ることが異常であるのである。見たこともない世界をまことしやかにいうのは虚偽であり、将に犯罪である。そのことが分かっているかわからないか、伝道者たる世間では敬愛される高僧の反論を聞きたいところである。

 

 結論からいわせてもらえば、多くの善人が、不幸にして命を落としたとしても、それは自然の摂理、現世の行為を悪と判断する根拠はないし、あくまでも性善説に進むべきである。根本的な考えを修正しない限り、今の仏教集団の明日はないに等しい。


死後の旅その4

2016年09月06日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 仏教はある面、論理的である。死後の世界がどのようになっているのかは、誰しも不明であり、死んだ後に何らかの理由で生き返ったとしても、明確な証拠がない以上、今まで確証を得た経験者はいない。例えば、熊に冬眠のように、実際に存在していても、熊に人間の死後と同じかどうか聞くすべもない。死後の世界をフィルムや映像に記録した話もない。要は死んで生き返った人がいない以上、死後の世界は存在しないとみてよいのであろう。

 

 信心深い人にとって、いまだ見えない世界を無視することは失礼に当たるし、追及することで何らかの確証を得るなど、意味もないことだと思う。死後の世界があると仮定した各宗教観があるので、見えない世界をとやかく断言することもはばかられる。つまり、見えない世界は、自由であり、制限がないし、それを意味がないことだとする必要もないのである。そのことを前置きして、仏事の作法や、葬儀等の宗教儀式が何を示し、行っているかと考えると、解せないことも多い。

 

 すなわち見えない世界を形作る組織や教条があり、そこにまつわる生業(なりわい)で、鎮魂や、精神世界など証明できずとも人間にとって精神の安定と安寧を目的とした業態があるのである。いうなれば、まやかしと偽善とでも言ってもよい世界なのであり、純真な何も知らないものにとって、もっともらしい理由と儀式を表わし、狂言がまかり通っているのである。それが天皇を始め、歴代の内閣が神道において、政教分離といいながらも、靖国神社の参拝を英霊に対する誰しも正当な心情などと宣う姿は滑稽といわざるを得ない。

 

 仏教ばかりではなく、キリスト教やイスラム教においても類似した、多様な精神世界を持ち、民衆の支えなどと信じがたい行為を当たり前のこととして行うのである。その世界に踏み込む学者もいなければ指摘もしない学者が保身するため、利用しているだけなのである。このような指摘はほとんどの解説書ではお目にかからないが、アンタッチャブルの世界観で、毒にも薬にもならないのかもしれないが、とにかく、世の中を知らない世代には、余り強制的に信じ込ますことも必要ないのであろう。

 

 信心は柊からイワシの頭でさえも対象となるし、ご利益も考え方によってはありうるものである。とりあえずはあまり信心にこだわらない部類の一人であるが、抵抗し、反論をする意味もないので、務めとして粛々と行っているに過ぎない。誰しも信じない天国での亡き人の生活を思うのも心の安寧につながる近道だからである。