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死後の旅その4

2016年09月06日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 仏教はある面、論理的である。死後の世界がどのようになっているのかは、誰しも不明であり、死んだ後に何らかの理由で生き返ったとしても、明確な証拠がない以上、今まで確証を得た経験者はいない。例えば、熊に冬眠のように、実際に存在していても、熊に人間の死後と同じかどうか聞くすべもない。死後の世界をフィルムや映像に記録した話もない。要は死んで生き返った人がいない以上、死後の世界は存在しないとみてよいのであろう。

 

 信心深い人にとって、いまだ見えない世界を無視することは失礼に当たるし、追及することで何らかの確証を得るなど、意味もないことだと思う。死後の世界があると仮定した各宗教観があるので、見えない世界をとやかく断言することもはばかられる。つまり、見えない世界は、自由であり、制限がないし、それを意味がないことだとする必要もないのである。そのことを前置きして、仏事の作法や、葬儀等の宗教儀式が何を示し、行っているかと考えると、解せないことも多い。

 

 すなわち見えない世界を形作る組織や教条があり、そこにまつわる生業(なりわい)で、鎮魂や、精神世界など証明できずとも人間にとって精神の安定と安寧を目的とした業態があるのである。いうなれば、まやかしと偽善とでも言ってもよい世界なのであり、純真な何も知らないものにとって、もっともらしい理由と儀式を表わし、狂言がまかり通っているのである。それが天皇を始め、歴代の内閣が神道において、政教分離といいながらも、靖国神社の参拝を英霊に対する誰しも正当な心情などと宣う姿は滑稽といわざるを得ない。

 

 仏教ばかりではなく、キリスト教やイスラム教においても類似した、多様な精神世界を持ち、民衆の支えなどと信じがたい行為を当たり前のこととして行うのである。その世界に踏み込む学者もいなければ指摘もしない学者が保身するため、利用しているだけなのである。このような指摘はほとんどの解説書ではお目にかからないが、アンタッチャブルの世界観で、毒にも薬にもならないのかもしれないが、とにかく、世の中を知らない世代には、余り強制的に信じ込ますことも必要ないのであろう。

 

 信心は柊からイワシの頭でさえも対象となるし、ご利益も考え方によってはありうるものである。とりあえずはあまり信心にこだわらない部類の一人であるが、抵抗し、反論をする意味もないので、務めとして粛々と行っているに過ぎない。誰しも信じない天国での亡き人の生活を思うのも心の安寧につながる近道だからである。



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