中秋の名月として、有名で、月を愛でる(観月)習慣があるのは我が国ばかりではなく、近隣の諸国もそうで、同じ文化を持っている。中でも中国は、月餅というまんじゅうを月に見立て食べる習慣がある。1か月ぐらい前から友人に送るため、中秋には月餅を見るのも嫌になるらしい。毎日食すると飽きてくるのであろうか?最近は十五夜といっても、ススキを飾るわけでもなく、月に見立てた白まんじゅうを食することもないが、サラリーマン諸氏は、月見酒と称して、盛り上がっているのであろうか。
月を愛でるのも風流であり、紅葉を見る観紅,観梅 雪見 観月と時期々の植物や、自然現象を愛でることはなんとなく、余裕が感じられ、良いものである。左利きには同伴の飲み物があり、将に酔うほどに没入できる美があるのである。仕事に追われる多くのご同輩、今宵は月でも愛でて、秋の夜空に酔いしれてはいかがであろうか。昨日までは雲に隠れ、薄っすらとしか見えなかった名月も、今夜は昨日よりはましな月となっている。
十五夜、十六夜(いざよい)立待月、居待月、寝待月などと日を追って、月の出が遅くなる。それに合わせて、月に上げる供物等の準備をし、月を見る。月が出るまでには日々酔いも深まるのである。団子をつまみに酒が主役になり、寝待する月など、すでに月が出るころには酩酊してしまい、見えなかったかもしれない。月に語りかけ、月の中にいるウサギに呼びかける、またはバニーガールを想像し、酔っぱらってないとできない行為であり、大人も子供に返るのであろう。
耳を澄ますと、多くの虫が、合奏している。夏の暑さを忘れさせ、秋の夜長にふさわしい音色である。時々騒音のバイクがかき消すが、世の中は、確実に秋に近づいている。豊洲の市場が喧しい(まなびすしい)。民放ではにわか解説者や、昔関係した都議や、前知事も雁首をそろえて、掴まえ所がないにわか裁判官に変身している。誰を悪者にするか、似た者同士が集まり、その一番を決めている。次にもっと悪いという影武者もジワリと忍び出る。三つ巴となり、グルグル、グルグル。果てしないバトルである。なぜか、過去の出来事を穿り出す。決まって結論はないし、改善策を提案するものもいない。
そのような戯れごとを話題とし、放映側も、それを見ている側もみな同じレベル。時間をつぶすにもうってつけの番組である。どちらが勝とうが負けようが、自分には関わり合いがないと決めつける。無限地獄に入るのである。むしろ、月を相手に酔っていた方が自分には合っている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます