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死後の旅その5

2016年09月07日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 どうも腑に落ちないのは、死者に対して安らかに眠ってくださいという願いと、仏の道に進むための試練やお努めが、死後も続くということである。仏教では、7日ごとに閻魔大王なる裁判官に近い権力者の前に引き出され、尋問を受けるとかいわれている。将に針の筵で、お白州での捌き、馬鹿げていると思うのであるが、鵜呑みにする死者の関門であるとする考えは、恐れ入る。これはその発生までは定かではないが、恐怖心をあおる一種の恫喝、脅しに他ならない。

 

  そのことを否定しない無責任さは、どう考えてみても、現代の仏教界の怠慢である。なにも地獄と天国に二分する必要もないし、生前の善意が来世を決めることとしても、親鸞聖人がいっているように、「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや、悪人おや」である。この教理は、自分では最もふさわしい仏教の教理と思うのであるが。

 

 そのことを無視してか、死者は三途の川を渡り、現世とおさらばするが、待ち構える裁判官らに行く手を阻まれ、現世での悪事を償うとのことで、閻魔大王のお沙汰待ちとなる。なんともやるせないではないか、家族や親族、知人が現世のお行いを甘い評価だとしても、それを送り言葉としたのは真実半分、あとはお世辞であったかもしれないが、決して的外れではないであろう。

 

 むしろ、初めて死者と会う閻魔大王が、衆生の行動までも詳細にチェックできているとはいいがたい。更には、過去の判断基準は冤罪かもしれないし、誤った勝手な判断では、将来の死者に対しても、信頼関係が崩れ、信頼を失うかもしれない。突然現れる地獄の亡者ども、閻魔大王の手下も許しがたい。なにゆえにそのようなひどい試練を真っ当に生きた亡き人に課すのか、それを教条とすれば、何たる低次元の話であり、許されることではない。

 

 このようなたわいもない話を、大人がまことしやかに語ることが異常であるのである。見たこともない世界をまことしやかにいうのは虚偽であり、将に犯罪である。そのことが分かっているかわからないか、伝道者たる世間では敬愛される高僧の反論を聞きたいところである。

 

 結論からいわせてもらえば、多くの善人が、不幸にして命を落としたとしても、それは自然の摂理、現世の行為を悪と判断する根拠はないし、あくまでも性善説に進むべきである。根本的な考えを修正しない限り、今の仏教集団の明日はないに等しい。



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