あまでうす日記

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新潮日本古典集成新装版「太平記三」を読んで 

2018-12-17 11:20:54 | Weblog


照る日曇る日 第1179回


本書では、巻16から22を収め、建武3年2月(1336年)から康永元年(1342年)頃までに相次いで生起した歴史的武力抗争を扱う。

御醍醐帝側の官軍は、なんとかかんとか足利尊氏兄弟を京から追い払ったが、九州で実力を蓄えた反乱軍は、破竹の勢いで東上する。しかし側近の公家どもは楠正成の「一旦叡山退却」のまっとうな提案を退けたために、無類の忠臣を湊川でむざむざ死なせてしまう。

その後も御醍醐帝とその取り巻きは、明確な軍事方針を実行できず、結局は正義の味方新田義貞に命運を託すが、北国に落ちて捲土重来を図っていた義貞ときたら、血気に逸ってむこうみずに単騎敵軍に突入し、哀れ集中放火を浴びて泥田で無様な最期を遂げる。

勇躍東北から殴り込みをかけて京まで迫っていた北畠顕家も、その義貞に手柄をなさしめるのは嫌だと幼児のようにごねて連携を拒否したために、足利軍を一掃する千載一遇のチャンスを逃したのみならず、これまた流れ矢を浴びて頓死する。まるで馬鹿みたい。

かくて天下の形勢は次第に足利軍に傾くのであるが、反乱軍の陣中では仲間割れも起こっている。

実力ナンバーワンで無類の色好みの高師直は、味方の武将塩治判官の美人妻に懸想して寝とろうと画策し、ついに夫婦ともども死に至らしめるという不祥事を引き起こす。ところで「徒然草」の作者である吉田兼好は、このとき高師直に雇われており、その艶書を書いてそうだ。

さぞや達筆の名文だったに違いないが、肝心の思い人は、折角のラブレターを読みもしないで捨ててしまったために、兼好は首になったというのである。(巻21)

やがて追われて吉野の陋屋に逃げ込んだ御醍醐は、尊氏憎しの血判をつき、悔し涙を流しながら野垂れ死ぬのであるが、そもそもこういう無慙な仕儀に立ち至ったのは、彼が愛人廉子の言いなりになって超優秀な皇子護良親王を死に追いやったからであって、「まあなんといいましょうかあ(by小西徳郎)」、いわば自業自得でしょうな。

「太平記」の著者は誰か分からないが、とりあえず官軍の側に立っているようにみせて、ときおり天皇にも、将軍や公家、貴族の女に対しても、「やれやれしょうがないやっちゃ」とでもいうような、冷徹な視線を、敵味方を問わずに飛ばすのが印象に残る。

  7億円の大当たりが出た鎌倉の籤売場にて連番買いけり 蝶人

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