あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

福永光司著「荘子」を読んで

2018-03-29 16:11:19 | Weblog


照る日曇る日 第1050回



中国の古典に親しんだことなんかてんでなかったので、名のみ知る「老荘思想」の有名な「老子」ではなく、誰も騒がない「荘子」から読んでみよう。
それもいつか名のみ聞きかじったことのある福永光司氏の注釈で、と思っていたら、幸い念願かなって、今月今夜のこの佳き日にこの手にとることができました。

「荘子」は「内篇」7、「外篇」15、「雑篇」11の合計33篇から成っているそうだが、福永氏によれば「外篇」「雑篇」はいわば二次的著作で、もっとも古くて荘子自身の面目を濃厚に伝えている「内篇」を熟読すればそれでよい、と断言されているので、これ幸いと本書に決めたわけです。

最初の「逍遥遊編」の冒頭に、皆さまが良くご存じの超有名なフレーズがあります。

「北の冥に魚あり。其の名を鯤と為う。其の幾千里なるを知らず。化して其の名を鵬と為う。鵬の背、其の幾千里なるを知らず。怒ちて飛べば、其の翼は天垂つ雲の若し。是の鳥は、海の運くとき、将に南の冥に徒らんとす。南の冥とは、天のなせる池なり」

ともかく荘子選手と北きたら宇宙的に気宇壮大で、大言壮語を敢てし、孔子や老子なんかを現世に拘泥する阿呆呼ばわりして平気なのですが、その思索は思いもよらぬ深みに達しているのではないかという気がします。気がするだけですが。

「徳充符篇」では有用の人より無用の人のほうが尊いとされているし、「大宗師篇」では身体が全後左右滅茶苦茶にこわれた障害者がどっさり出てきて、世の中の聖人君子をあざ笑うところもいわば逆転の発想で痛快無比ずら。

最初を紹介したので最後の「応帝王篇」からも逸話をひとつ。

中央の帝、混沌に御馳走された南海の帝と北海の帝が、お礼のしるしに目鼻立ちのかけらもない混沌に鑿を使って7日ががりで眼、鼻、口など7つの穴を開けたところ、あわれ混沌は死んでしまったという。

人間のさかしらが、生々溌剌たる自然の営みを窒息させ、死滅させると荘子は言うのであるが、子どもの教育現場のみならず大人の労働環境に至るまで、現代社会全般がよってたかってこの混沌退治に血道を上げているような気がしてくるようなおはなしですね。

  またしてもわがパスワード忘れ去りわれパソコンに潜入せんとす 蝶人



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