刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

天皇のルーツは人類の始祖神なのだ!(^_-)-☆

2024-06-29 00:00:05 | 古代史
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#現在、都知事選候補として人気の内海聡氏の天皇に関するYouTube動画について、ネットで人気の茂木誠氏がご自身の思いを発信している動画(もぎせかチャンネル)を見つけました。是非、この動画をご覧いただきたいと思います。茂木氏の天皇や日本に対する熱い思いは日本人として共有すべきものですので、刮目天が発見した天皇のルーツについてコメントしました。また、関連する記事について紹介いたします。よろしければ、お付き合いください(;^ω^)



天皇のルーツは中国神話三皇五帝の筆頭天皇伏羲ですよ。人類の始祖神です。
日本で証拠を発見しました。
倉敷市楯築王墓の神社のご神体「亀石」が人面蛇体だったのです。
ヤマト王権の基礎を吉備で築いたニギハヤヒ大王が被葬者で天皇陛下の先祖になります(詳細は「【大発見!】日本の天皇のルーツだ!」参照)。




中国は「なかつくに」と呼ぶのが正解です。

「中」は「奴(ナーガ、龍蛇神)」を意味し、江南の海人族(倭人)の王が天御中主です。
福岡市吉武高木遺跡で紀元前4世紀初頭の日本で最初の王墓が発見されています。
宋史 王年代紀の天御中主・天村雲尊・天八重雲尊とそれぞれの妃や王族の墓です。
二代目の墓から三種の神器(剣・鏡・玉)が見つかっています(詳細は「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)。



4代目天爾聞尊(あめのににぎのみこと)から春日市須玖岡本遺跡に王宮が遷っています。
天孫降臨神話はこの史実から日本書紀で創作されたのです。高天原は北部九州の倭国のことなのです。
新唐書・宋史に「日本は古の倭の奴国」とありますが、これが正しいことが考古学や民俗学の成果から分かりました。

記紀が天皇の歴史書だと思い込まされていたので古代史を解明できなかったのです。
日本書紀は完成当時の権力者藤原不比等による勝者の歴史書なのです。
先に完成したとされる古事記は9世紀に突然表に出てきたものです。
日本書紀が隠した史実を藤原氏に悟られないようにして暴露する目的の暗号書だったのです。
暗号を解くと、卑弥呼が記紀に登場しない怖い理由富雄丸山古墳吉野ヶ里遺跡の謎の石棺の被葬者も判明しました。
よろしければ、刮目天の古代史をご参照ください。どうも、失礼しました(;^ω^)

【関連記事】
渡来人は異民族とは限らない?
新羅については、仏教の伝来を調べていて分かりましたが、新羅ではもともと龍神(ナーガ)を祀っていたとありましたから、間違いなく倭人(江南の呉人)でした(崔琮錫「弥勒信仰の新羅的受容と変容」東アジア仏教学術論集2017-01、p.201)。倭人は弁韓・辰韓にも居ましたので、渡来系の新羅人は、列島に戻って来た倭人ということです。筑前・豊前から豊後にかけて奴国大王スサノヲ(新羅明神、第四代脱解王のモデル)の子孫たちや縄文系ムナカタ海人族赤坂比古(卑弥呼の父)と関わりのある倭人の子孫が住み着いたようです。宇佐地方で辛嶋氏(スサノヲ・イタケルの末裔なので武内宿禰の子孫波多<秦>氏と同族)が祀っていた原八幡神は宗像女神イチキシマヒメ卑弥呼ですよ(#^.^#)

半島の古代史だ!(漢四郡まで)


当時の半島の古代史はほとんど倭人の話なのですよ。かいつまんで言うと以下のような話です(詳しくは上の記事をクリック)。

紀元前473年呉が越に滅ぼされて、呉王族の一部が紀元前10世紀以前からすでに倭人が入植していた半島南部に倭人に助けられて住んでいました。寒冷化したので南下し、福岡市吉武高木遺跡に住んだのが呉王族で皇祖神の天御中主ですよ。呉の時代以前から王と民とは良好な関係のようでした(詳細は「日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!」参照)。倭という言葉は支配者に従順という意味があります(^_-)-☆

戦国七雄のひとつ「韓」が「秦」に滅ぼされて一部の韓人(シナ人系O2)は半島に逃げてきたようです。その後始皇帝によって遼西付近で万里の長城建設で使役されていた楚人(シナ人系O2)や倭人(呉人系)が始皇帝崩御によって半島に逃避して住むようになりました。

三国志の東夷伝に濊(カイ)人として紹介されていたのは主に倭人系のようです。その中の楚の堂谿で鉄生産をしていた倭(呉)人(呉王族堂谿公が支配)は辰韓や弁韓に移住し、奴国大王スサノヲの配下として鉄生産を行ったと推理しています。

その他の倭人や楚人は元々韓人が居住していた馬韓に流れ、倭人はその中の伯済国に固まって居住していました。

上述のとおり濊人から分かれて扶余族(呉系楚人)に分裂し、さらに高句麗、そして高句麗から百済に分かれますが、百済は倭人が固まって遼西地方を支配していたのです。一時は高句麗を凌ぐ勢いでした。しかし、力をつけた高句麗に敗れて百済東城王が馬韓に落ち延び、民に暴虐を働くので伯済国の武寧王が東城王を倒して百済を乗っ取ったと推理しています(詳細は「【衝撃】百済王のなぞ?いつ・誰が背乗りした?」参照)。

その子孫の百済王子余豊璋が藤原鎌足だという関裕二説が有望だと思います(詳細は「藤原鎌足は日本人じゃない?ブッブー!」参照)。ですから、桓武天皇の母が百済武寧王の子孫高野新笠であるので上皇陛下が半島にゆかりを感じておられるようですが、百済人は今の日本人とほとんど同じ倭人系だと思います。

663年白村江の敗北で7・8世紀までに半島に居たほとんどの倭人は日本に逃げてきました(現代男性の倭人系は4%程度、詳細は「天皇家が高麗にゆかりがあるのか?」参照)。


王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)






最後まで読んでいただき、感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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