刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

史料を参考にして事実から推理する(^_-)-☆

2024-06-17 20:12:48 | 古代史
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#前回の記事「卑弥呼は一体、誰でしょう?」で紹介した刮目天のコメントにとてもいいご意見を頂戴しましたので、早速、返事を書きました。よろしければお付き合いください(#^.^#)

@mrrx2364
面白いけど、矛盾が。
宗像三女神が 顔にもそして全身刺青してたのか?
そして邪馬台国の南には強敵のく奴国があるはずだけど、見つからないぞ!?

​ @mrrx2364 さん ありがとう!
とてもいいご意見です(^_-)-☆
宗像三女神が刺青してたのか?
これは多分していなかったと思われますが、当時のことははっきりとは分からないですよ。でも海女(アマ)だったならば刺青くらいしていたかもしれませんね。でも彼女は部族長のヒメゴで高貴な身分ですから、刺青まではしていなかったと思いますよ(^_-)-☆
当時の縄文海人ムナカタ族は太陽神信仰で物事を決定していたので、高貴な姫に太陽神が憑依して、神の言葉を告げるのですよ。それを族長が聞いて、神の言葉を翻訳して部族の民に告げて物事が動くという政治システムです。これは、奈良県唐古鍵遺跡の線刻土器に巫女と巫(かんなぎ)であるシャーマン王の絵があり、鳥の格好をしています。太陽神信仰と鳥信仰は近縁の関係があるようです。神社の鳥居はここから来ています(詳細は「卑弥呼の鬼道とは?」参照)。琉球古神道に卑弥呼の鬼道の様子がかなり残っているようですので参考になります。時代は違いますが、縄文海人族のものなのですよ。

それから、邪馬台国の南に狗奴国という定説のような話は、考古学の成果から誤りだと判明しています。詳細はすでに「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」にまとめてありますが、これからブログ記事にします。よろしければご参照ください(#^.^#)


邪馬台国のライバルが狗奴国なのです。倭国が北部九州だということは考古学の成果から分かりますので、狗奴国は南九州ということになりそうですが、それでは3世紀に大和王権が成立した纏向遺跡はいったい何者なのでしょうか?全く説明できません(;´Д`)

邪馬台国の南の狗奴国というのは2世紀後半の倭国大乱期に、狗奴国の勢力が菊池川沿岸部に拠点を造り、倭国の領域である筑紫平野・佐賀平野を攻撃していますので正しいです。おそらく福岡平野や倭国の王都三雲遺跡のある糸島平野まで攻め込まれていたかもしれない痕跡が当時の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて見つかっています(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。

熊本県山鹿市方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡からは大量の鉄鏃とその素材となる板状鉄斧が出土していますが、半島南部から運び込まれたものだと分かります。また、阿蘇山麓や大分県大野川流域の鍛冶集落からも同様のものが出土していますので、半島南部から沖ノ島経由で北九州・大分に後方支援のために運び込まれたと分かります。さらに、方保田東原遺跡には山陰や畿内の土器が出土していますので、倭国の東側の各地から兵士が集められて倭国を攻撃したと分かります。魏志倭人伝で王よりも先に紹介された狗奴国の官狗古智卑狗が指揮を執っていたと分かります。こう考えると、倭国大乱の時期は確かに北部九州の南側に狗奴国の前線基地があったのですが、卑弥呼が登場するとそこは倭国のテリトリーになっているのです。邪馬台国と対立していた狗奴国の本拠地は纏向遺跡だと推理できるのです。それでは、なせ卑弥呼が登場したのかを推理しました。



倭国は圧倒的な量の鉄製武器を持つ狗奴国勢に攻められて滅亡寸前だっようです。半島が混乱して楽浪郡から倭国に鉄素材が入ってきませんので、鉄欠乏症のために鏡などの青銅器を溶かして銅鏃を作っていたことが福岡平野の住居跡から出土して分かりました。



そして菊池川流域の集落の環濠からも銅鏃が出土しているのですから、倭国は一方的に攻められていただけでなく、狗奴国側を攻撃する力があったのです。というか、後ろ盾だった公孫氏が半島を平定し204年に楽浪郡の南に帯方郡を設置したのです。消滅寸前の倭国王は早速、支援を求めて帯方郡に出かけ、狗奴国側を攻撃する力をつけたと推理できます。そして、油断していた狗古智卑狗が倭国側の突然の襲撃で討たれたと思われます。これによって形勢が一気に逆転したのです。

狗古智卑狗の右腕の赤坂比古が玄界灘の海運を握っていたのですが、大活躍の王を喪ってとほうに暮れたはずです。そこにすかさず倭国王難升米(倭国王帥升の後継者という意味、詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」参照)は赤坂比古を懐柔したのです(詳細は「消された和邇氏の正体が建国の謎を解くカギ?」参照)。



赤坂比古の娘イチキシマヒメのお告げによって政治を行うことを条件として纏向遺跡を王都とする狗奴国王卑弥弓呼を裏切って倭国側についたのです。そうすると、赤坂比古寄りの部族が倭国側についたので、九州全土、中国地方西部、そして当初は四国西部だったのが東部まで全部で30国が倭国側についてしまったので、その当時は吉備を王都としていた卑弥弓呼大王が、大和盆地に移住し、纏向遺跡に新たな王都を建設し、東国の狗(旧)奴国の勢力を纏向遺跡に呼び集めたのです。

そこから、少し経緯がありますが、最終的に纏向遺跡の勢力が列島全部を支配して日本が建国されるのです。これも3世紀後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況から分かります。日本書紀の崇神天皇紀の四道将軍から応神天皇即位までの約350年間の話が三世紀後半の出来事だったと判明したのです。詳細は「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」にありますのでご参照ください。

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初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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