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卑弥呼の墓の伝承の謎だよ(^_-)-☆

2024-06-28 07:24:44 | 古代史
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#2020-06-12 13:09:37に記事にしましたが、少しだけ見直して再掲します。よろしければまた、お付き合いください(;^ω^)


宇佐には卑弥呼に関する伝承がいくつかあります。
最初の卑弥呼の墓の伝承は宇佐市安心院町の妻垣神社本宮一柱騰宮です。「日本書記」「古事記」では日向の神武天皇が東征することになり、最初に宇佐に立ち寄り、ウサツヒコとウサツヒメがもてなした場所が一柱騰宮(いっちゅうとうぐう)、「古事記」では足一騰宮(あしひとつあがりのみや)ということになっています。



妻垣神社のご祭神が比咩大神です。宇佐神宮の二の御殿に祀られる前の元宮です。大元山(御許山)から宇佐神宮に遷されたとの説もありますが、宇佐神宮の由緒が書かれた八幡託宣集では都摩垣(安心院町妻垣)がもとの御座所となっており、一柱騰宮が比咩大神の墓所となっています。御許山の大元神社は比咩大神の居所という伝承になっているようです。

その比咩大神は神武天皇の母玉依姫(「古事記」では玉依毘売命)ということになっています。

神武天皇の母の姉が豊玉姫であり、お産の様子を見ないように夫の火折尊(彦火火出見尊、山幸彦)と約束しましたが、夫はそれを破り、正体がワニであったのを覗いてしまったので、生まれたばかりの鸕鶿草葺不合尊を置いて去ってしまいました。そして、妹の玉依姫に幼児の面倒を見させ、成人して二人の間に生まれた第四子が神武天皇だという神話です。

その神話の元ネタですが、天武天皇の皇后鸕野讚良(うののさらら、持統天皇)の子の草壁皇子(662年生まれ)と、持統天皇の異母妹の阿陪皇女(元明天皇、661年生まれ)との間に軽皇子(文武天皇)が生まれたので(683年)、神話も叔母との近親婚の話にしたということです。しかし、神話では妹に乳飲み子を成人になるまで面倒見させて、結婚したというトンデモない話を作り、天皇家を思いっきり貶めていますから質が悪いですね。(; ・`д・´)

結局、比咩大神が神武天皇の母玉依姫だという伝承は「日本書紀」に合わせたもので、デタラメです。それでは宇佐神宮のご祭神の比咩大神は一体だれなのか?

神武東征神話で神武天皇が最初に訪れた宇佐の一柱騰宮とは何なのか?それがわかると謎が解けますよ(^_-)-☆

神道では高貴な方が亡くなり神となることを神騰(かむあ)がりといいます。比咩大神ひと柱が昇天した場所が一柱騰宮です。「卑弥呼の墓発見」の著者矢野武夫氏が卑弥呼のことだと突き止めました(注1)。この中で卑弥呼の居所は御許山やその南面の正覚寺の聖なる石柱がある場所だという説も紹介していますが、三女(さんみょう)神社の在る宮ノ原台地には石棺群が多数発見されており、「宇佐の奥の院・安心院谷の宮の原の奥城」として卑弥呼の居所に一番ふさわしいと述べています(p.115)。



だが奥城(おくつき)は墓所の意味ですから、「魏志倭人伝」のとおり、最初に卑弥呼が葬られた径百余歩の円墳「三柱山古墳」から、後に妻垣神社奥宮一柱騰宮に遷されたと推理できます。「古事記」の「足一騰宮」というのは、人間は足が二本ありますので、もう一つの足、つまり元の墓が宮ノ原台地に在るということを示唆するものでしょう(^_-)-☆

ではいつ遷されたのだろうか?

卑弥呼の死後に、魏使張政の進言により十三歳のムナカタの姫巫女台与(トヨ)を女王に立てて、魏を後ろ盾にして倭国を治めた人物が狗古智卑狗だと推理しました。

先代までの狗古智卑狗は半島南部の鉄を不弥(ウミ)国のムナカタ海人族の力を借りて旧奴国王族に供給しました。大国主狗古智卑狗が北部九州を支配することになったので弁辰の人々が安心して北部九州に来れるようになったようです(注2)。狗古智卑狗は「魏志倭人伝」で狗奴国の官として王よりも先に紹介された実力者です。この第二次倭国大乱が「日本書紀」の仲哀天皇の熊襲征伐の話になった史実だと関祐二さんが突き止めましたが、刮目天が考古学的に確かめました(【検証13】~【検証17】参照)。



仲哀紀では、香椎宮で神功皇后が武内宿禰の琴に合わせて神憑りし、住吉大神の神託を仲哀天皇に告げましたが、それを信じないために突然崩御したという不思議な話になっています。住吉大神つまり武内宿禰に殺されたことを暗示しています。

仲哀天皇は倭国討伐軍の首将ですが、ヤマト王権発祥地の纏向遺跡で発見された外来系の土器の約半数を占めるのが東海の土器なので、本当は尾張王だと推理できます。尾張氏はヤマトの大王の祖ニギハヤヒ直系の物部氏と同族で、天皇(大王おおきみ)と呼べるくらいの血筋の確かな有力者だったようです。「日本書紀」の記事では父の日本武尊(ヤマトタケル)が死んでから38年後に生まれた計算になりますから、ずさんな作り話ですね。もしも仲哀天皇がヤマトの大王であったのならば、卑弥呼の後に倭国王に立つことに誰も反対する理由がありませんから「魏志倭人伝」にある千人も死ぬような殺し合いにはなりません(^_-)-☆。(注3)

話をもとに戻して、ウサツヒメは神功皇后と同じく、女王台与がモデルですが、「日本書紀」ではそれを誤魔化すために藤原氏の遠祖天種子命が姫を娶ったとしています。しかし、真相をそれとなく暴露したい「古事記」では藤原氏にとって大事なその記事を無視していますから分かります。

そして神功皇后に常に寄り添っていた武内宿禰が尾張王(仲哀天皇)を倒して倭国を手に入れた出雲から丹波を支配していた狗古智卑狗のことで、卑弥呼の九州・四国・中国西部の倭国に加えて山陰・北陸など列島のかなりの部分を支配したので、後世に大国主と呼ばれた人物なのです。その大国主狗古智卑狗が尾張王を倒した後に真っ先にしたことは、女王台与を伴って先代女王卑弥呼を宮ノ原台地の急造りの円墳から、遺体や副葬品を妻垣に遷し、厚く弔ったことでしょう。その史実が伝承として残っていたので「記紀」では神武東征の一柱騰宮での大饗宴の話にすり替えたのだと思います。ウサツヒコが大国主狗古智卑狗のことです。


卑弥呼の墓の話に戻すと、宮ノ原三柱山の円墳から妻垣神社奥宮一柱騰宮に大国主と台与が遷しましたが、妻垣神社の名前はスサノヲとクシナダヒメの八重垣神社の歌から採られたものと言われています。しかしスサノヲはすでに二世紀初頭の奴国のクーデターで殺されているので、出雲神話の八重垣神社の話もヤマタノオロチの話も創作でしょう。安心院町の佐田神社の北側の米神山の西麓に造られた立派なストーンサークル佐田京石は、大国主が倭国を支配できたことに対する祖霊への感謝の神事のために造営したと思われます。大国主が実際にこの地を訪れて神事を行ったと考えています。

さらに270年頃大国主と台与の倭国を滅ぼしたヤマト朝廷は、その後神亀2年(725年)小椋山(亀山、現在の本殿地)に八幡大神一之御殿を遷座し、天平3年(731年)の託宣により、天平5年(733年)二之御殿に比売大神が鎮座したと宇佐神宮の年表にあります。明治 40 年(1907年)と昭和 16 年(1941年)の宇佐神宮改修時に石棺が二度目撃されているので、以下のとおり卑弥呼の墓だという伝承が残っています。

最初に発見された石棺は神功皇后が祀られる三の御殿横とあり、次の目撃は比咩大神を祀る二の御殿の下とのことですから、そうであれば二人を改葬したと考えてよいとは思います。ただ、神功皇后台与の最初の古墳は日本一立派な副葬品が発見された糸島市の平原王墓ですから、宇佐神宮の神功皇后の石棺の中は空の可能性があります。霊力が強すぎるので、遺骨や副葬品に手を付けられなかったのかも知れません(^_-)-☆

応神天皇が祭祀王として即位した後に箸墓に母神功皇后台与を改葬したと考えています。父の大国主も高良山で戦死して、西麓の祇園山古墳に葬られましたが、石棺の中身は見当たりません。母を箸墓で改葬した後、父大国主も桜井市外山(トビ)の茶臼山古墳で改葬したと推理しました。ただし遺骸があったのか不明です。その西側にメスリ山古墳があり、そこの石棺も遺体が安置された形跡がなく、武器が大量に副葬されているようです。それほど大和朝廷は大国主と台与の呪いを怖れていたのだと思います。また、宇佐神宮一の御殿の祭神は八幡大神応神天皇ということなので、墓所はそこにはなく、大阪府羽曳野市誉田の古墳ということになっています。

【参考記事】
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)





(注1)矢野武夫氏は明治40年安心院町妻垣で生まれ、神職養成中等学校私立騰宮学館に学び、町長を5期、大分県議会議員を2期務めた人物で、幼いころから神武天皇の母玉依姫が比咩大神卑弥呼のことだと考えるようになったそうです。

(注2)渡来人について通説ではコリアンと考えていますが、この時期の渡来人はほとんど江南系と縄文系の倭人です。言葉も当時の倭人語が話されてたようです。
渡来人は異民族とは限らない?
新羅については、仏教の伝来を調べていて分かりましたが、新羅ではもともと龍神(ナーガ)を祀っていたとありましたから、間違いなく倭人(江南の呉人)でした(崔琮錫「弥勒信仰の新羅的受容と変容」東アジア仏教学術論集2017-01、p.201)。倭人は弁韓・辰韓にも居ましたので、渡来系の新羅人は、列島に戻って来た倭人ということです。筑前・豊前から豊後にかけて奴国大王スサノヲ(新羅明神、第四代脱解王のモデル)の子孫たちや縄文系ムナカタ海人族赤坂比古(卑弥呼の父)と関わりのある倭人の子孫が住み着いたようです。宇佐地方で辛嶋氏(スサノヲ・イタケルの末裔なので武内宿禰の子孫波多<秦>氏と同族)が祀っていた原八幡神は宗像女神イチキシマヒメ卑弥呼ですよ(#^.^#)

(注3)伊都国男王が女王卑弥呼の後に倭国王に立ったとの説も、もともと軍事も政治の実権も掌握する倭国王だったと推理していますので、あり得ない話です。伊都国男王は強力なヤマトの討伐軍が到着することを知り、帯方郡太守を頼ってさっさと半島に逃亡したのでしょう。ところが張政が難升米を裏切って大国主側につき、倭国を懐柔したので、伊都国男王難升米は帯方郡に無事到着したとしても、用済みとなって密かに始末されたと思われます。張政は倭国を懐柔した功績によって後に帯方郡太守張撫夷に出世したことが帯方郡址の墓から発見された塼で分かります。もしも帯方郡址で「親魏倭王」の金印が見つかればズバリ推理どおりということになりますよ(詳細は「【検証23】魏使張政って?!」参照)(^_-)-☆


ややこしい話を最後まで読んでいただき、感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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