刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【葦嶽山の秘密】多婆那国は丹波の奴国!の巻( ^)o(^ )

2024-06-22 14:46:47 | 古代史
いつも、ありがとうございます。
よろしければポチっと応援をお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

#追加した奈具神社境内の石塔の写真を見直したところ四面体ではなく、五面体だったようですので、写真を改訂し、注記しました。

#2024-06-14 21:03:33に記事にしましたがスサノヲの足跡を巡る話を早足でしたので、文末に追加しました。よろしければ、またお付き合いください(#^.^#)

#前回「【葦嶽山の秘密】能ある鷹は爪で指す?の巻!」でご報告したとおり、実際に葦嶽山に登り、この日本ピラミッドが奴国大王スサノヲの霊を祀る祭祀場だったことを確認しました。

スサノヲを葦嶽山で最初に祀った人物は「日本ピラミッドの謎?(@_@)?」で述べたとおり、奴国のクーデターを逃れた弟のニギハヤヒと推理しています。この山頂でストーンサークルを造ってスサノヲを弔う祭祀を行い、裏切り者の吉備の勢力を討ったと推理しています。吉備津彦として隠されたニギハヤヒ所縁の場所にはストーンサークルが見られます(詳細は「備後・吉備のストーンサークルと日本ピラミッド葦嶽山」参照)。ニギハヤヒはまだ幼いスサノヲの王子イタケルを伴って、かつての部下の宮廷司祭師升らに恨みを晴らす誓いをしたと思われます。拝殿があるのが鬼叫山(ききょうざん)ですから、雰囲気が分かりますね(*´Д`)

父伊弉諾尊の代に瀬戸内海航路の要衝の吉備を任された勢力が奴国を裏切って師升の倭国に出入りして交易している情報を得たので、ニギハヤヒはムナカタ族の支援を受けて吉備を平定し、奴国を再興しますので、スサノヲの跡を継ぐ奴国大王天照大神尊(先代旧事本紀の天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊)とされます。このニギハヤヒの伝承が「桃太郎の鬼退治」として民話になっています(詳細は「【大発見!】日本の天皇のルーツだ!」参照)。

葦嶽山山頂付近や鬼叫山の巨石群の設置には多大な労力と時間が費やされますので、この時にニギハヤヒ自身が造ったのか、あるいは後に、イタケルの子孫の出雲・丹後王国三代の王である八束水臣津野命(以下、八束命と略記)・日高彦・高野御子が造ったのかよく分かりません。スサノヲ大王終焉の地である奴国の丘の北側の熊野神社を鷹岩の西側突起の「鷹の爪」が指していることを考えると、米神山では大国主高野御子が大々的に月の神谷の石柱群を父の終焉地に向けていることを突き止めていますので、なぜ誰でもがはっきりと分かるように鷹の頭か顔をスサノヲの終焉地に向けなかったのだろうか?という疑問が残ります。

そう考えると、「奴国乃大王」の鳥居と同様に、藤原政権の時代かそれ以降にスサノヲ大王の縁者らが遠慮しながら設置したのかも知れません。その秘密を解く手がかりは鬼叫山の方位岩などの方角かも知れないので、さらなる調査が必要だと考えています。

いずれにしてもスサノヲの終焉の地から葦嶽山への霊ラインを延長すると豊岡市気比の銅鐸出土地に誘導され、スサノヲの代表的な活動拠点が豊岡市気比であったことが分かりました。今回は、スサノヲの足跡を早足で辿ることにしましょう(^_-)-☆

豊岡市気比からは前回見たように銅鐸が4点出土しており、この地でスサノヲによる縄文系の祖霊祭祀が行われたと分かります。そこから約200m川上の地点に五十茶狭沙別命(イササワキノミコト)を祭神とする気比神社があり、社伝によると、和銅2年(709)の創祀だそうです(注)。また、現在の気比川河口から500mのところに戎岩(恵比須岩)があります。鳥取県から丹後半島の西海岸までの東西約120km、南北約30kmのエリアが、山陰海岸ジオパークとなっていて、2000万年まえからの日本列島の形成が分かる天然記念物があります。きれいな石の柱(柱状節理)のある玄武洞、気比の戎岩や砂岩が波で浸食された多数の奇岩や珍しい生態系が残されており、ユネスコに登録されています。その東側の小山の上にも気比神社がありますのでスサノヲが王宮とし滞在したのでしょう。その他、京都府京丹後市にかけてスサノヲに関係する史跡や神社が下の図のとおり、数多くあります。今回の旅行では全部回り切れませんでした。新たな発見があるかも知れませんので、また行きたいと思います( ^)o(^ )



それで、本題ですが、すでに八束命の国引き神話でお話ししたとおり、「新羅の岬」は項浦(ポパン)市虎尾岬だと推理しました(詳細は「国引き神話は史実だった?(その1)(その5)西谷墳墓群の被葬者は?」参照)。対馬から海流に乗って容易に?到達できる岬はここでしょう。その東側にかつての新羅の王都のあった慶州市があります。新羅が成立するのは四世紀ころですが、それ以前の原三国時代から盛んに製鉄が行われていたのが慶州市隍城洞遺跡です。高慶秀「韓国における祭祀遺跡・祭祀関連遺物-沖ノ島祭祀の位置づけのための比較検討資料-」(平成23年「宗像・沖ノ島と関連遺産群」研究報告Ⅰ 抜刷)にも紹介されていますが、製鉄炉、溶解炉、精錬・鍛錬鍛冶炉などの遺構が見られ、四~五世紀において製鉄が本格的な体制で行なわれたようです。13世紀末に成立した「三国遺事」に見られる昔氏の始祖脱解尼師今が治めた辰韓斯盧国です。新羅の第四代王で在位:57年 - 80年とされています。倭国の東北一千里の多婆那国で誕生したという伝承です。スサノヲとほぼ同じ年代ですのでスサノヲがモデルの伝承と考えていいと思います(詳細は「新羅の脱解王が奴国大王?」参照)。

ずっと気になっていた葦嶽山の天狗岩の方向が分かりました。300度よりもわずかに小さかったと思います。今度行ったときにはもっと正確に測ってきたいと思います。


<クリックするとMyMapにジャンプします>


MyMapで見ると分かりますが、最高倍率に拡大してもかなり精度よく遺跡などを通過します。三点をGoogleMapの最高精度で正確に通るように設定するのはかなりしんどいですよ。つまり霊ラインはその人物にゆかりのある地点三点を恣意的に引こうとしてもなかなか難しいのですよ。ですから、偶然ではない、何かがありますので、霊ライン上に新たな発見ができるかもしれないと、毎日嵌っています。時間がいくらあっても足らない感じですよ(;^ω^)
ご興味がわけば一緒に古代史の冒険をしませんか!
勿論、信じるか、信じないかはアナタ次第ですが(#^.^#)

(注)気比大神の正体がスサノヲであることは「すべては古事記の中に」に詳しく在ります。応神天皇が大神と名前を取りかえた「名易え」説話が古事記にありますが、これは応神天皇がスサノヲの子孫の大国主の子であることを暗示しています。古事記が藤原氏に隠された史実を暴露するための暗号書だと分かる例のひとつです。

また敦賀一宮気比神宮の例祭「敦賀まつり」は敦賀に秋の訪れを告げる北陸随一の盛大なまつりですが、「長まつり」と呼ばれています。「長」はナーガ(龍蛇神)です。気比神宮の祭神を仲哀天皇としていますが、日本書紀で創作された天皇です。卑弥呼の死後に倭国王に立った尾張王ヲトヨノミコトをモデルとした天皇ですから応神天皇の本当の父ではないのです。気比神宮のご祭神気比大神はナーガ(奴)国大王スサノヲなのですよ(^_-)-☆

【追加】
甲山熊野神社

古代祭祀場跡があるとGoogleMapにあったので、下側のルートを車で登りました。駐車場に着くと、そこから先は800m歩いて登るようです。しかし、上のルートを車で行けば熊野神社の傍まで行けたようです。今回は30km先の竹野神社まで行って、竹野川の横の道を下って、奈具神社に行く予定でしたので、次回にまわすことにしました(;^ω^)

奈具神社
上のリンク先に神社の御祭神や由緒と本殿の左右の末社の写真があります。

下の写真は今回撮影したものです。若宮神社とされた末社にスサノヲが祀られており、新羅神社と書かれた板がありました。これで新羅明神は奴国大王スサノヲと判明しました。脱解王のモデルであることも間違いないと思います(^_-)-☆

そして、申し訳ないですが、奴国大王スサノヲ(新羅明神)が奈具神社の本当の祭神です。奈具は奴=ナーガ(龍蛇神)の意味なのです。

藤原政権がスサノヲとその子孫の出雲・丹後王国三代の王(八束命・日高彦・高野御子)を隠すために、豊受大神(うかのみたま)を主祭神としています。境内に置かれた石塔の五面に神名を刻んでいますが、正面が天照皇太神と彫られています。女神アマテラスではなく、初代応神天皇の本当の父大国主高野御子なのですよ。

右横面の倉稲魂命(うかのみたま)と埴安姫命(はにやすひめ)は主祭神とされた大国主の妃で応神天皇の母の神功皇后台与(とよ)なのです。日本書紀の崇神天皇紀で武埴安彦命と埴安姫命が反乱を起こします。大国主と台与のことなのです。崇神天皇から応神天皇即位までの約350年間の話が三世紀後半の建国の史実を隠すための作り話だったとわかるのです(^_-)-☆

また、左横面の大巳貴命(大国主)と少彦名命は国造りのパートナーです。神話の少彦名命は台与の父息長宿禰王がモデルです。吉野ケ里遺跡の謎の石棺から分かりました(詳細は「【吉野ヶ里遺跡】少彦名命の石棺だ」参照)(^_-)-☆


(注:申し訳ありません!うっかり撮った写真を見落として四面体としましたが、正面左側に大巳貴命と彫られた写真がありました。少彦名命と埴安姫命が隣り合わせですので五面体だと思います。もしも間違いであればお教えください(;^ω^)

由緒書にありますが、申し訳ないですが、台与をモデルにした天女の羽衣伝説なども建国の真相を隠すための後世の創作ですよ(;^ω^)

末社(右殿)の秋葉神社の祭神カグツチは大国主に殺された尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト)です。ですから、この地はやはり、国譲り神話の舞台なのです。大国主に国譲りさせたのはタケミカズチ神ですが尾張王建稲種命がモデルです。建稲種命あるいは跡を継いだ尾綱根命の軍勢が豊岡市竹野町から丹後半島にかけて占領し、そのまま住み続けたようです。崇神天皇紀の四道将軍のひとり丹波道主命とされています。

しかし、お隣の豊岡市竹野町鷹野神社と同様で尾張王を祀っているのですから分かります(建稲種命タケミカズチの父乎止与命カグツチですが、それぞれ祖父景行天皇と孫仲哀天皇として誤魔化しています。詳細は「国譲り神話は都合の悪い史実を隠すためだった!」参照)。豊岡市竹野町竹野の方言は「にゃー・にゃー」という猫の鳴き声のようで、どうも尾張弁のなごりのようです。あの可愛いキューピーの寝姿の猫崎半島の名前はどうやら、その方言から採ったのではないかと思います。(;^ω^)

丹後半島も天橋立の横の籠(この)神社には海部氏系図が残されています。三世紀末に尾張王に従ってこの地にやって来た海部氏の末裔ですよ。この地でも尾張弁との類似が言われているようですよ(^_-)-☆

丹後、尾張弁「どえりゃー」似てる 京丹後市、共通性調査 京都
産経新聞2014/8/5 03:41
 「うみゃあ」「ええがや」「どえりゃー」-など丹後弁と尾張(名古屋)弁に多くの共通の方言があることから、京丹後市は4日、丹後と東海の両地方の文化的なつながりを探る方言調査を行うと発表した。同市は「交流促進のきっかけになれば」としている。
                   ◇
 舞鶴若狭と京都縦貫の両自動車道の整備などにより、丹後と東海を結ぶ交通アクセスが改善することから、親交を深めようと市が愛知県教委の協力を得て、文化や方言の類似点に関する調査を今月から実施する。

 両地方には、「あすんどる」や「おみゃあ」「ぬくとい」「ほうか」など共通の言い回しが多い。

 京丹後市教委によると、弥生時代の首長墓とされる赤坂今井墳墓(同市峰山町赤坂)から東海地方で製作されたとみられる土器が出土したことや、両地方が古代赤米の産地であることなどから、古くから文化交流があったと指摘されているという。

 龍谷大の糸井通浩名誉教授(国文学)が中心となって調査し、文化交流の起源などを探り、今年度内に報告書をまとめる予定。

 市は「方言など文化的な共通点を確認することで両地方の親しさが増し、交流促進につながれば」と話している。(西家尚彦)
                   ◇
 同日、名古屋市で記者会見した中山泰市長は「お互い関心を持ち、兄弟のような交流がいろんな分野で進む一つのきっかけになれば」と話し、同席した大村秀章愛知県知事も「必要な協力をしていきたい」と応じた。



最後まで読んでいただき、感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっと応援をお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング