刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

科学的でない金印真贋論争!( `ー´)ノ

2024-05-22 20:05:28 | 古代史
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#国宝金印がニセモノだという贋作説が絶えません。しかし、その主張は学術的にあまり意味のないもののようです。科学的な歴史解明の手法を知らないと振り回されるだけです。動画にコメントしましたので、よろしければお付き合いください(#^.^#)


【遂に決着】金印「漢委奴国王」はニセモノだった...?歴史の真実が今暴かれる!【ゆっくり解説】
ゆっくり知的雑学【ゆっくり解説チャンネル】@YouTube


歴史的遺物の真贋論争をしようと思えば大抵のものは、いくらでもできますが決着はしません。

金印だけ取り出しても真相は分かりません。

ではどうするか?それは金印がもしも偽物だったら、その後どういう現象になっているのかを検証すると偽物説が怪しいと分かります。
偽物を本物に見せるには亀井さん一人ではできません。共犯者がいるはずです。もしも発覚したらすべてを失います。リスクが高すぎます。それに、当時は邪馬台国論争が始まっていますので、何で卑弥呼の金印にしなかったのかを考えても、贋作説は説得力がありません。

もしも本物なら、范曄後漢書の記述と一致するので、金印を賜った時代的背景の説明と矛盾のないものとなります。金印という物証により、より説得力が出てきます。こういう、仮説検証の科学的手法を理解すると謎は解明できますよ(^_-)-☆
奴国の詳細は「【検証9】奴国時代の話(その2)」をご参照ください。

【関連記事】
日本最古の国家「奴国」の謎

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆





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米神山で大国主に会ってきた!(@_@)!

2024-05-20 18:23:23 | 古代史
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#2024.5.22 いつものとおり下手な文章なので、気づいたところを少しだけ直しました。米神山の詳しい情報のリンク先も注記しましたので、登ってみたい方はぜひご参照ください(#^.^#)

先週の土曜日に再挑戦してきました。天候に恵まれて、登山には絶好の条件でした。朝に到着し、コンビニで食事して、9時過ぎに佐田京石登山口を出発しました。475mの米神山は、厳しい急登のルートに置かれたロープが月の神谷まで5カ所くらいありました。

<米神山案内図はGoogleMap「佐田京石」より>




低山ですので前回は少し甘く見て7月の終わりに登りましたが、携行した水の量も少なかったので熱中症ぎみになりバテました。登山ルートから一番近い石柱をひとつだけ、もうろうとしながらもなんとか方向測定しました。写真は少し傾いた石柱の上に置いたコンパスを撮影してますが、あらかじめ方角を合わせて、ダイヤルを磁北に向けた後に、置きましたので、目盛りは正しいです(図に注記を追加)。ルート上から見える別の2本の石柱も見た目では同じ方角に人工的に設置されていましたので、一応それで満足して下山しました。その報告は「宇佐は記紀が隠した秘密が満載だ」にあります。



前回の教訓から今回の決行日を梅雨前の今の季節に決め、水を多めに持って、更にネックファンも持参していきましたので、熱中症にはなりませんでした。以前から左ひざが痛かったのですが、このところ痛みを感じなくなっていました。でも、念のためにサポータをして行きましたので、帰ってからも左ひざは全く問題ありませんでした。

しかし、月の神谷に到達するまでに今まで痛みを感じたことがなかった右ひざに痛みが出てきました。ちょっと不安を覚え、月の神谷の他の石柱の方位計測は今回は省略し、時間があれば準備していたトイ・ドローンを飛ばして、石柱群の全体の配置を確認したかったのですが、残念ながらこれも断念して、山頂を目指しました。


<一番左側の石柱を前回計測>

山頂まで、ロープ場が月の神谷からさらに5カ所くらいありましたが、ようやく到着しました。しかしすでに、予定よりも1時間近くかかっていました。

とりあえず、由布岳・鶴見岳など、いい景色を眺め、達成感に浸っていました(^_-)-☆



ふと手前の環状列石のひとつに目をやると、なんと体長50cmほどの黒ヘビを見つけたので、直ぐにスマホを取り出して撮影しようとした瞬間にどこかに消えてしまいました。そして、その石の横に目をやると、しっかりした樫の木の棒が転がっていました。黒ヘビが杖に変身したのかと思いました(@_@)



長さは1.5m程度で富雄丸山古墳の蛇行剣よりも曲がりくねった感じです。予定が大幅に遅れていましたので、早速、杖を拾って、山頂の撮影もそこそこにして熊登山口に向かって下山しました。

今回の主目的は下山ルートの途中にあるはずの日の神谷の石柱の方角測定でした。下山ルートの周囲をしっかり見ながらロープと杖を握りながら急斜面を降りて行きました。ようやく看板がある場所にたどり着きましたが、見渡しても案内図にあった石柱を見つけられませんでした。少しがっかりしていました(;´Д`)



少し降りると、巨石を見つけました。左側からみると小舟をひっくり返したような形で、隙間に灌木が生えていますので、右下からは形が分かり難いですが、軸線が揃っています。



早速コンパスを取り出して方位を計りました。傾斜がきついのでしっかりとは計れませんでしたが、予想した通り北東方向に向いていたので納得しました。多分、兵庫県豊岡市竹野町の誕生之浦の石碑のある場所でしょう。大国主高野御子の生誕地です(詳細は「【大発見!】大国主命の生誕地か?」参照)。

(左クリックでMyMapに移動しますのでご確認ください)


ようやくゆるい坂道になって登山口まで、杖のおかげでなんとか下山できました。登って降りるだけで4時間以上かかりました。それで、先ほどの黒ヘビが気になりました。日本でよく見られるマムシ・ヤマカガシ・ニシキヘビ・アオダイショウとは違う種類です。

月の神谷の石柱群は大国主の父日高彦の終焉地と推理した熊本県山鹿市茶臼塚古墳に向けて設置されていたのを発見していました(詳細は「【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その1)(その2)」「【謹賀新年】狗古智卑狗の霊ライン?」参照)。頭の中では直ぐに、出雲地方の旧暦10月10日ころに出現するセグロウミヘビが思い浮かびました。太平洋やインド洋の暖海域に生息するヘビで、出雲地方の神社では最寄りの海岸に打ち上げられたものを捕まえて奉納して、神迎(かみむかえ)の神事をすることになっています。

セグロウミヘビは大国主の化身です。背中はまっ黒で、腹部は鮮やかな黄色か淡褐色のようです。セグロウミヘビは蛇の中で唯一外洋性の完全水棲種ですので、セグロウミヘビが米神山で見つかるはずありません。ネットで調べたところ、メキシカンブラックキングスネークではないかと思います。名前のとおり産地はメキシコです。夜行性で、大人しい性格のようです。かまれても痛くないのでペットとして人気があるようです。

米神山の黒ヘビは、山頂の岩陰で発見したので、光沢は見られませんでしたが、腹部も黒っぽかったし、体長も60~90cmとあるので一致します。もしもこの種類でしたら、愛好家のもとから脱走したのが米神山に住み着いたのかも知れません(^_-)-☆。

黒ヘビの写真を撮れなくて残念でしたが、今思い起こすととても不思議な気分です。しかし、後期高齢者まであと少しの刮目天が無事に、厳しい米神山に登れたのも、毎朝自宅の神棚で手を合わせている天照皇大神(その正体は初代応神天皇の父大国主大神)のご加護だと思います。大神にご縁のある地元の皆様が整備してくださったおかげです。毎回、ロープに「ありがとう」と言って手放しました(^^♪。体力に自信のある方はぜひ日本一の霊山に登って、日の神谷の詳しい情報をお願いいたします(注)。まずは、ご報告まで!

(注)米神山の詳しい情報は「ヤマップ 米神山」で検索してください。


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消された出雲・丹後王国の謎!(その2)日高彦の話

2024-05-18 06:50:58 | 古代史
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鉄のネットワークが各地に拡大する中で各地の部族長(首長)の部族内での権力が大きくなって行き、大型四隅突出型墳丘墓が造成され、首長継承の儀礼が行われるようになります。その後さらに大規模な古墳が作られるようになり、弥生時代後期前半まで残っていた縄文系の穀霊・祖霊祭祀から首長霊祭祀に変わり、古墳時代の先駆けになったと考えられます(詳細は「銅鐸祭祀は何故、消えた?」参照)。



八束命やその御子日高彦が西谷墳丘墓群を作り、祖父イタケルやその姉妹が3号墳と2号墳でそれぞれ八束命が祀ったと推理しています。そして日高彦は最大の9号墳で八束命を改葬して、王位継承の儀礼を行ったと考えています(詳細は「国引き神話は史実だった?(その5)西谷墳墓群の被葬者は?」参照)。日高彦は幼少期から父八束命に連れられて列島内の辰砂(水銀朱)などを発掘するために、記紀で日高見国と呼ばれる北上川流域まで出かけて発掘の拠点を作っていたので、東北弁は出雲弁の影響を受けていると考えています(詳細は「東北弁のルーツは出雲弁だった?」参照)。

日高彦は八束命の戦略に従って菊池川流域に前線基地として山鹿市方保田東原遺跡(かとうだひがしばるいせき)などを築いて、山陰や畿内の兵士を呼び集め、半島の混乱で衰退気味の倭国を襲ったと、弥生後期後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況から推理しています(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。佐賀平野や筑後平野に留まらず福岡平野や糸島平野まで侵略し、帥升の子孫の倭国王難升米を苦しめ、倭国は滅亡寸前まで追い込まれた模様です。倭国は楽浪郡との交易が途絶えて、鉄素材不足で鉄鏃など鉄製武器が作れなくなった模様で、福岡平野の集落で青銅祭器を溶かして銅鏃を作っています。

すでに「【大発見!】大国主命の生誕地か?」で説明しましたが、地名が豊岡市竹野町です。地元で「濱の天神さん」と呼ばれる鷹野神社の主祭神が建御雷神(タケミカズチ、大国主に国譲りさせた神)、その相殿に天穂日命(天神様菅原道真の祖神、日高彦)と天満大自在天神(菅原道真)が祀られています。鷹野神社の社伝によればその元宮はその北西の猫埼半島の付け根の小山に在る五社大明神です。天照皇大神宮つまり久々遅彦(高野御子、久々遅彦は王の襲名)を主祭神として、右側に八幡宮・愛宕神社、左側に春日神社・住吉神社となっていますが、そこに先代久々遅彦(魏志倭人伝の狗古智卑狗)つまり国譲り神話で天穂日命として隠された日高彦の王宮とした場所でしょう。日高彦の御子である高野御子(日高の御子を隠す隠語)はこの地で生まれたののだと推理しました(注1)。

藤原氏は高野山と丹生都比売神社の縁起に、高野御子が日高彦の御子であることを隠すために丹生都比売の子として登場させました。さらに日高彦と高野御子ゆかりの地を竹野と変えさせたとわかります(豊岡市竹野町は「たけの」ですが、丹後半島の地元は「たかの」呼んでいます)。弘法大師空海は修行場とした金剛峯寺の山号を高野山としたのです。つまり藤原氏によって徹底的に隠されたスサノヲを祖とする出雲・丹波三代(八束水臣津野命・日高彦・高野御子)の鎮魂によって、その祟りからこの世を護るための超能力を獲得するために空海は真言密教を開いたということなのです(注2)。

先述の銅鏃と思われるものが方保田東原や菊池市台(うてな)遺跡の環濠から出土していますので、倭国が日高彦の部隊を急襲したと推理しています。204年に公孫氏が半島を平定し、楽浪郡の南に帯方郡を設置したので、倭国は息を吹き返し、油断していた日高彦が難升米らに討たれたと推理しています。

日高彦の右腕の赤坂比古(和邇氏の祖、魏志倭人伝の伊聲耆)は遺体を日高彦の王宮(京丹後市竹野神社)のある丹後半島赤坂今井墳丘墓まで運び弔ったと考えています(詳細は「赤坂今井墳丘墓の被葬者は?」参照)。赤坂比古は倭国大乱で大活躍していた王を喪って、後継者の高野御子(後の大国主)はまだ幼いので途方に暮れていたはずです。そこに難升米は赤坂比古を懐柔する工作を行ったと推理しました。赤坂比古は八束命の娘を妻にして生まれた長女イチキシマヒメを姫巫女(卑弥呼)とするシャーマン王ですので、卑弥呼の太陽神のお告げによって政治を行うことを条件で狗奴国を裏切ったと推理しています。

倭国はこの時期を境にして、それまで盛行していた甕棺墓が急激に衰退しています。倭国が滅亡寸前まで追い込まれていたので、甕棺祭祀も行えない状態にまで追い込まれていたのだと思います。ということで、赤坂比古が倭国王難升米のパートナーとして活躍したので、倭国は帯方郡との交易に加えて半島南部の鉄資源までも手に入れることになりました。

一方、狗奴国には鉄資源が供給されなくなったために狗奴国王先代卑弥弓呼(ニギハヤヒ大王の子孫、記紀の開化天皇)が吉備から、西側からの攻撃を防ぐ生駒・葛城山系のある大和盆地の東側に纏向遺跡を造成し王都としました。210年頃築造とされる最初の纏向型前方後円墳の石塚古墳でニギハヤヒ大王を改葬するために、各地の旧奴国ゆかり王族・首長らを呼び寄せたと推理しています。纏向遺跡は水田などを持たない祭祀に特化した都市で、田原本町唐古・鍵遺跡の出雲・丹波王(生前の日高彦)配下の縄文系住人が使役され、集まった各地の人々に食料を供給したと考えられます。



日高彦の王子高野御子が成人し、赤坂今井墳丘墓で母刺国若比売の葬儀を行って正式に出雲・丹後王として狗奴国王を補佐できるようになったと考えています。豪華な頭飾りが副葬されていますので、大国主の母のものでしょう(詳細は「赤坂今井墳丘墓の被葬者は?」参照)。


弥生王墓の重要性について(書籍紹介もかねて)

大丹波チャンネル@YouTube


纏向遺跡の大型建物内では連日、倭国懲伏の祈祷を行い、倭国遠征の計画を練っていたと思われます。先代卑弥弓呼が崩御し、後を継いだ王(記紀の崇神天皇)が九州遠征を決断しました。仲哀天皇の熊襲征伐の話になっています。仲哀天皇は大神の神託を疑ったので、崩御する話になっていますが、倭国王に立った尾張王乎止与命(おとよのみこと)が大国主高野御子(記紀の武内宿禰)に討たれた史実を誤魔化しています。この後の高野御子が13歳の台与(近江・越を根拠地とするムナカタ族息長宿禰王の姫巫女、記紀神話の神功皇后)を卑弥呼の宗女として倭国女王に立て、狗奴国を裏切ります。高野御子の倭国が列島の大半に拡大されたので記紀神話などで大国主と呼ばれるようになったのです。日本が建国される話(詳細は「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)から(その4)」・「【検証19】日本建国のための戦いだ!」参照)と藤原氏により史実隠ぺいのために特に創作された出雲・丹後地方の伝承について長くなるので、またの機会にします。





(注1)これは四世紀に和邇氏が日高彦の終焉地に造成した山鹿市津袋古墳群の中の茶臼塚古墳から、その鬼門(北東方向)にある大国主が卑弥呼の死後の内戦に勝利して最初に国造りした宇佐市安心院町佐田地区の霊山米神山(475m)の山頂に引いた霊ラインをさらに延長した先に正確に五社大明神があるのです。さらに五社大明神のある小山の麓に置かれた誕生之浦の石碑が見つかったからです。国譲り神話のタケミカズチ神が上陸した場所という地元の伝承ですが、この石碑から高野御子(大国主)が生まれた場所だと分かります。茶臼塚古墳は丹後地方で見られる方形台状墓ですが、広大な鹿本平野を見下ろす高台にあり、倭国大乱で大活躍し、戦死した先代狗古智卑狗日高彦に相応しい立派な古墳です。その墳頂に大日如来の石祠が置かれており、大国主命の本地仏弥勒菩薩が胎蔵曼荼羅中央部の中台八葉院の中央の大日如来の鬼門(北東方向)に位置します。一方、米神山中腹の月の神谷に置かれた複数の石柱の方向が一斉に裏鬼門(南西方向)にある茶臼塚古墳に一斉に向けられていたのです。間違いなく、双方の関係を示していますので、四・五百キロも離れた地点を正確に結ぶ霊ラインをどのようにして作ったのか、とても不思議です(詳細は「【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その1)(その2)」・「猿田彦大神の石碑のなぞ?」・「【大発見!】大国主命の生誕地か?」参照)。

(注2)空海から密教を習った伝教大師最澄も空海と同じ目的で比叡山延暦寺で天台宗を開いたのです。すでに日枝山は古代より大山咋神(おおやまくいのかみ、大物主神)が鎮座する神山として崇められていましたので、天智天皇が大津京の鎮護のために即位七年(668年)に日枝山麓の大津市坂本に大国主神(大山咋神)を祀る日吉大社を創建していました。最澄は日枝山を比叡山と改名し、大国主の本地仏を大黒天として国家鎮護の修行の場としました。

【関連記事】
高野御子の歌(その1)(その2)犬猿の仲の由来かも

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆




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消された出雲・丹後王国の謎!(その1)八束命の話

2024-05-16 17:55:14 | 古代史
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丹後半島ですが、奴国宮廷楽師帥升らの反乱で殺された最後の王スサノヲが、対外交易のためにすでに弥生前期から縄文海人ムナカタ族が営んでいた環濠集落の途中ヶ丘遺跡などで玉作工房などを整備しました。大王自ら半島南部に出かけて玉作工具の製作などのために鉄素材を運んできていました(詳細は「新羅の脱解王が奴国大王?」参照)。スサノヲの本来の奴国王宮(須玖岡本遺跡)での伝統的な祭祀は帥升らに任せきりで、母方の縄文海人ムナカタ族と共に行動し、縄文系祭祀に親しんだようです。たまに奴国に帰還すると、帥升らに縄文系祭祀を取り入れるように命じたと考えられます。それを不満とする帥升らが反乱を起こして約四百年以上続いた奴国が滅んだと推理しました(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。



ムナカタ族の手助けで帥升らのクーデターを逃れた幼い王子五十猛命(イタケル)と二人の王女大屋姫命・抓津姫命は出雲に落ち着き、この地で成長しました。出雲王イタケルは、紀伊国 一宮伊太祁曽神社で祀られています。また二人の王女も和歌山市大屋都姫神社都麻都比売神社で紀伊国に木種をもたらした神として祀られています。「日本書紀」では「素戔嗚尊が鬚髯から杉、胸毛から檜、尻毛から槇と榧、眉毛から楠など体毛を抜いて作った各種の樹木を全国に植えた」とありますから、生前のスサノヲが三人を連れて、頻繁に紀伊に出かけて半島南部の鉄素材を入手するための大型の刳り船の材料となる太い木材を求めたのではないかと想像しています。

しかしスサノヲの子孫が二世紀から三世紀にかけて日本建国で活躍した、藤原氏にとって不都合な史実を消すために、イタケルの子八束水臣津野命(出雲国風土記の国引き神話の神、以下八束命)から三代のムナカタ族を束ねた王の事績を藤原氏が特に入念に隠ぺいしたと考えています。つまり、イタケルらの紀伊国での活動の伝承は、完全には否定できないですが、ほとんど創作したものかもしれません。

といいますのも、式内社(名神大)紀伊国一宮で、旧社格は官幣大社である和歌山市日前宮(日前神宮・國懸神宮の総称)の祭神は日像鏡(ひがたのかがみ)を神体とする日前大神 (ひのくまのおおかみ)と日矛鏡(ひぼこのかがみ)を神体とする國懸大神 (くにかかすのおおかみ)とされ、聞き慣れない神々です。しかし、日前宮が名草宮とも呼ばれます。奴国王(ナーガ、龍蛇神)の宮殿という意味です。さらに、wiki「日前神宮・國懸神宮」に「当初は名草郡毛見郷浜宮に祀られ、垂仁天皇16年に現在地に遷座したと伝えられている」とありましたのでこれらの神の正体が分かりました。八束命の別名が濱殿、長浜様(ナーガの濱殿)と呼ばれており、記紀神話で海神豊玉彦(綿津見神)であり日向三代の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)であることを突き止めています。

つまり、上で述べたイタケルらの事績とすることによって紀伊で活動したイタケルの後継者八束命の存在を誤魔化したのではないかと考えられます。イタケルは天孫降臨神話で言う天照大神の御子天忍穂耳命(あめのおしほみみ)に対応し、御子を通り越して天孫瓊瓊杵尊に葦原中国(葦の繫茂するナーガの国)を支配させるために天降りさせた話にしたと考えられます。この神話は、宋史 王年代紀第二代王天村雲尊が孫で第四代王天聞彌尊(アメノニニギノミコト)にレガリヤとして三種の神器を与えて周辺の地域を平定させ、奴国隆盛の基礎を築かせた史実の伝承からの連想で作られたと推理しています(詳細は「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)。

瓊(ケイ、ニ)という字は瓊玉(たま)の意味で、それを二重に重ねていますから、玉作りと関係が深いことを表しています。また杵(きね)という字は「つち(槌)、物をうつ道具」という意味がありますから、玉に孔をあける鉄製針を配下のムナカタ族を連れて半島南部からもたらした人物で出雲王ということになりそうです。八束命が国引きを行った出雲国意宇郡は出雲王八束命が王都とした場所でいいと思います。國懸神社の相殿神として玉祖命(たまのやのみこと)が祀られていますので、八束命を示唆しています。

また、日前神社の相殿神の石凝姥命(いしこりどめ)は作鏡連(かがみつくりのむらじ)の祖神とされています。スサノヲの弟ニギハヤヒ大王も奴国から逃亡し、イタケルの支援で吉備を平定し、奴国を再興しました。石凝姥命はニギハヤヒ大王の御子天香山命とも考えられています。鋳物の神として信仰されて奈良県磯城郡田原本町葛木坐火雷神社でも祀られていますから、八束命が育てた青銅器などの金属加工技術者を天香山命に与えたと推理できます。出雲市西谷墳丘墓の大型四隅突出型3号墳には吉備の円筒型土器が出土していますので、吉備と出雲の強い繋がりが見られます。

八束命は対馬市豊玉町仁位(ニイ)和多都美神社(わたつみじんじゃ)の本殿付近で発見された箱式石棺に葬られたと考えています(詳細「国引き神話は史実だった?(その4)徹底的に隠された神だった?」参照)。八束命は祖父スサノヲを討った帥升らに復讐するために半島南部の鉄素材を大分県大野川流域や阿蘇山麓に搬入し、大量の鉄製武器を製造する鍛冶集落を数多く作ったと推理しています。この動きを察知した帥升王の後継者らが対馬で待ち伏せして討ったのではないかと想像しています。



(その2)に続く

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大国主の霊ラインで目からウロコ?(@_@)

2024-05-14 06:35:40 | 古代史
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#2021-02-15 09:11:46に掲載しましたが、その後猿田彦大神の霊ラインを発見し、大国主の霊ラインを見直しMy Mapを共有しました。よろしければ、図をクリックして、お付き合いください(#^.^#)

このところ寝ても覚めても趣味の古代史ですので、楽しいことこの上ないです。おまけに皆さんに応援していただいて生きている幸せ感を満喫しています。この数日は古代史のネタ探しもあって、これで遊んでいます。古代史関係の地図上にレイライン(Ley Line)を時々見かけるので、人間の目には見えない何かのパワーが直線的に出ていて、その直線上に遺跡や古い神社が並ぶことも偶然じゃないのかも知れないと何となく思っています。多くの古い神社は元は磐座(いわくら)を神籬(ひもろぎ)=祭祀場とした場所にあるので、レイラインは霊ラインかも知れないということです(^_-)-☆

これは証明されてはいないので、いくつもの事例を探して確かめるしかないと思います。

とりあえず、大国主久々遅彦ゆかりの地をGoogle Mapのマイマップ上に置いてみると、驚くことにだいたい有名な地点(出雲大社・伊勢神宮内宮・金刀比羅神社・久々比神社)が、ほぼ1辺が約200kmのひし形になっていることを見つけてしまいました。

ひし形の形は邪馬台国宇佐説を学会に出した富来隆先生のご本に正三角形を二つ組み合わせて蛇のウロコを表すとあったのを思い出しました。

それをもとにこれらの直線上に何かあるかもしれないと地図を拡大して調べて行きました(*^。^*)

伊勢神宮と三輪山中津磐座の延長上に大吉備津彦(天照大神尊ニギハヤヒ)の遺跡(楯築神社・吉備津神社・吉備津彦神社)があり、金刀比羅神社と出雲大社を結ぶ霊ライン上にあったのでビックリしました(^_-)-☆



だいたいこれら直線から1kmを目安として神社や古墳など古代遺跡をプロットしています。まだまだ完成していませんが、何か浮かび上がってこないか期待も少しあって、はまってしまっています。まあ、暇つぶしと言えばその通りです(´ω`*)

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武内宿禰はユダヤ人なのか?


(注)平安京の造営に尽力した渡来系と言われる秦氏がユダヤ人だという説を田中英道先生が新しいご本で主張されています。しかし、ユダヤ人というのは民族というよりもユダヤ教を信仰する集団が定義のようですから、秦氏がユダヤ人ならばその末裔の現代人もユダヤ教を信奉しているのでしょうか?周囲で余り聞きませんので良く分かりませんが、ユダヤ人説の根拠の一つに平安京の紋章が六芒星となっており、古代から魔よけの意味を持っているという説明を見つけました。ユダヤのシンボルのダビデの星は五芒星(星の一筆書き)ですからも正三角形を二つ組み合わせた六芒星とは異なりますですね。(すいません勘違いでしたので訂正しました)秦氏の正体についてはこれから纏めようと考えていますので、その時に詳しく書きますのでよろしくお願いします。

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