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国引き神話は史実だった?(その2)

2023-11-21 16:44:38 | 古代史
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2023-11-20 03:28:56の記事で、八束命が盟主だという話ですが、少し言葉足らずだったので説明を追加しました。(2023.11.21 追加)

(その1)では国引き神話の出発地について考えてみました。通説と違う場所がありますが、考古学などの成果から確認したので可能性は高いと考えています。今回はそのつづきです。到着地について、もう一度下の図を見ながら順番に確認していきましょう(注1)。



(1)出発地:志羅紀(しらぎ)の三埼(みさき) [浦項市虎尾岬]
   到着地:去豆(こづ)の折絶(をりたえ)から 八穂爾(やほに) 支豆支(きづき)の御埼
      [許豆神社ー>日御碕神社

出雲市の十六島湾の東側の奥が去豆(小津町)です。三国史記 新羅第四代王脱解は倭国の東北千里のタバナ国出身の倭人とあり、奴国王スサノヲがモデルだと考えています。脱解王の子孫が新羅(当時は辰韓)の王となっています(詳細は「新羅の脱解王が奴国大王?」参照)。スサノヲの王子イタケルの子孫八束命が盟主とされるのは、奴国大王スサノヲの嫡流だからなのでしょう(注2)(2023.11.21 赤字修正)

小津町には上のリンク先の地図にありますが、異なる祭神の許豆神社が五社もあります。例によって藤原氏が日本建国の真相を隠すために要所要所でカモフラージュしていますので、ここでもやられていると考えています。祭神がウカノミタマ(稲荷神)は女王台与ですし、エビス(事代主)は大国主の長男ですが、これもカモフラージュで大国主の分身なのです。これらの中に祭神をスサノヲとする「北宮」と呼ばれる神社がありますから、これが国引き神話の許豆神社だと考えられます。

そして、八穂爾支豆支の御埼の日御碕神社も日沈宮(下の宮)の主祭神が天照大御神とありますが、神の宮(上の宮)の主祭神が素盞嗚尊(スサノヲ)ですので、やはりこちらが本命でしょう。脱解王スサノヲの子孫がこの地に滞在して、鍛冶製鉄の技術を八束命の部下に伝授したのではないかと考えています。この周辺には有名な遺跡、荒神谷遺跡加茂岩倉遺跡西谷墳墓群があります。

(2)出発地:北門(きたど)の佐伎(さき)の国 [隠岐市海士町]
   到着地:多久(たく)の折絶から 狭田(さだ)の国 [多久神社ー>佐太神社

多久神社は出雲市多久町と松江市鹿島町にありますが、前者は大船大明神とされており、多伎都彦命と天御梶姫命が祭神で、猿田彦命と鈿女命が合祀されています。大国主と台与の分身ですし、この神社の位置は折絶ではありません。

後者は鹿島町つまり、大国主に国譲りさせた藤原氏の氏神タケミカズチ神に因む地名となっています。すでに大国主の生誕地にも鹿島という地名がつけられて、誕生之浦の石碑もタケミカズチの上陸地点だとすぐに分かる言い訳していますので、大国主の生誕地だとバレました(詳細は「【大発見!】大国主命の生誕地か?」参照)。ここも同様に、藤原政権により命名された地名ですし、湾入している鹿島町古浦からさらに奥に入ったところにありますので「多久の折絶」に該当します。主祭神は天甕津比女命(あめのみかつひめのみこと)で、八束命の子赤衾伊努意保須美比古佐倭気命(あかぶすまいぬおおすみひこさわけのみこと)の妃として出雲国風土記秋鹿郡伊農(いぬ)郷と出雲郡伊努(いぬ)郷に登場します。水戸神(港湾の神)だそうで、いろいろと話があるようです。しかし熊崎神社のスサノヲが明治四年に合祀され、配神とされていますので、こちらの松江市鹿島町多久神社が本命だと思います。(2023.11.22 赤字追加)

そして佐太神社の主祭神は猿田彦大神(さるたのひこおおかみ)ですが、天孫降臨のニニギノミコトを先導した教導の神ともいわれており、初代応神天皇を神託によって即位させた大物主大神つまり大国主の史実と同様なのです。サルタヒコはアメノウズメとペアです。アメノウズメは、応神天皇の母神功皇后・女王台与の分身なので、サルタヒコも大国主の分身です。いつもこの二人のペアが様々な別名で祀られています。正体を隠すつもりでも余りにもやり過ぎているので、分かってしまいます。ただし、現存する最古の歴史書が天皇の歴史書だと洗脳されていると無理ですが(詳細は「「神」はサルタヒコを示す暗号文字だった?!」「「申」をなぜ「サル」と読むの?」「古代史のカギを握る神々の正体?」参照)。そして、南殿に素盞嗚尊及び秘説四柱の計五柱が祀られていますので、こちらが本命の神様ですが、また後で説明します。

(3)出発地:北門の良波の国 [対馬市豊玉町仁位]    
   到着地: 宇波の折絶から 闇見(くらみ)の国 [長見神社ー>久良彌神社

wiki「国引き神話」に「宇波をかつての手染(たしみ)郷とされる松江市手角(たすみ)町、闇見を久良弥神社のある松江市新庄町」とあるので、この地区に神社を見ると藤原氏の氏神を祀る春日神社があります。つまり上述のタケミカズチを祀っているのですからに宇波にあった神社が別に移されているはずです。近くに有名な武蔵坊弁慶の生誕地とされる長見神社がありました。国譲りと弁慶とは関係ないと思いますが、祭神がニニギノミコトと木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)です。ニニギは王年代紀第四代天爾聞尊が祖父の第二代王天村雲尊から三種の神器を渡されて、早良平野から糸島平野・福岡平野の平定を命ぜられ国土を拡張した史実から作られた神話だと突き止めています(詳細は「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)。社名も「長」はナーガ(龍蛇神)つまり奴国大王の意味です。「見」は「海」かも知れません。

次回説明する予定の古事記による大国主の系図にありますが、八束命の祖イタケルの妃が木花知流比売(このはなちるやひめ)という、とてもまじめに付けた名前とは思えないです。なので、これも古事記の目的である、正史で隠された真相を藤原氏に分からないようにそれとなく暴露しているのではないかと気づきます。絶世の美女の木花開耶姫命の父は大山津見神(おおやまつみ)ですが、これも大国主の分身と突き止めています(詳細は「大山祇も大山咋も正体は大国主でした」参照)。長見神社でスサノヲの王子イタケルが祀られているのを隠すためにニニギノミコトとしたと考えられます(注3)(2023.11.26 赤字追加)

久良彌神社の祭神は闇於加美神(くらおかみのかみ)・速都牟自別神(はやつむじわけのみこと)とあり、前者は水神、龍神、つまり奴国王・龍王ですが貴船神社の祭神ですから大国主の分身です(詳細は「貴船神社のご祭神の正体は?」参照)。後者は志那津比古(シナツヒコ)とありますので、シナツヒメとペアで登場する神ですから志那津比古は大国主の分身なのです。久良彌神社に明治四十五年に日御碕社の素盞鳴尊が合祀されているので、元はスサノヲを祀っていたので戻したと考えています。同時に、諏訪神社(建御名方命)を合祀したとありますが、これも大国主の分身だと考えています。

(4)出発地:高志(こし)の都都(つつ)の三埼 [珠洲市] 
   到着地:三穂(みほ)の埼 [美保神社

能登半島からやって来るのですから、当然当時は丸木舟ですので、海岸に沿って出雲に来たはずです。最初に突き当たる美保神社で決まりと思ったのですが、祭神は事代主と妃の三穂津姫命で、それ以外に配神、境内社、摂社の情報がありません。この二柱は大国主と台与の分身だと考えていますので、八束命の時代の後ですからこの神社ではないはずです。そこで、国土地理院の地図に鳥居のマークがあるのですが、神社名が載っていないのでGoogleMapで確認して、ようやく探し当てました。美保関町七類明島神社(めいじまじんじゃ)です。説明書きは以下のとおりです。

美保関町七類の惣津地区の入り口にある砂州で繋がった島の上にあります。現在は質留比神社の境内社になっていますが、社殿は存続しています。 詳細は不明です。

 一の鳥居の扁額に「住吉神社」とあり、以前には「住吉神社」と呼ばれていた時期があったと思われます。
 神社の少し下に平場があり、以前に相撲が行われていたのはこの場所かもしれません。

 「小島の中腹に、昭和四十七年頃までは広場があり、・・・奉納大相撲が開かれていたとのことです。」(島根半島四十二浦巡り)
 「質留比神社 境内社 明島神社(海津見命)」(神国島根)
 出雲風土記:
 主祭神:海津見命わだつみのみこと


質留比神社(しちるいじんじゃ)を調べると明治になって国吉明神から名前を変えたとあります。国吉明神がなんと、天児屋根命、つまり藤原・中臣氏の祖神なのです。住𠮷大神は伊弉諾尊から海を任されたスサノヲですから、ここでいいと思います。念のために弥生時代の遺跡をチェックしました。明島神社から南西に直線約3kmに縄文から古墳時代のサルガ鼻洞窟遺跡(さるがはなどうくついせき、崎ヶ鼻洞窟遺跡)があります。ただし島根県遺跡データベースには「散布地その他の墓と」あるだけで、残念ながら、遺物など詳細は分かりません。

(注1)ここで、「八穂爾(やほに)」はwiki「国引き神話」の注[3]に『諸伝文には「八穂米」とあるが内山真竜「出雲風土記解」にしたがい、ここでは「米」は「爾」の略字の「尓」の誤りと考え、「八穂爾」とする』とありますが、「良波」の例もあるので、「八穂米」が正解かも知れませんが、よく分かりません。また「折絶(をりたえ)」というのは注[4]「湾入した海岸の最奥部の意」とあります。

(注2)イタケルの妃(古事記の木花知流比売、ただし、その父オオヤマツミは大国主の分身と見ている)がイザナミ(記紀の押媛と推理)の父阿田賀田須命(アタカタスノミコト、ムナカタ族の祖神、記紀の天足彦国押人命、ただし、第5代孝昭天皇皇子とされるのは誤魔化しと見ている)の王族であるので八束命がスサノヲの嫡流とみなされていたと考えられます。したがって、以下の三国史記の新羅王の系図にある脱解王スサノヲの新羅で生まれた昔氏の王族は庶流ということになります。



(注3)対馬市豊玉町仁位和多都美神社の境内社波良波神社の横の濱殿御子神社で御祭神が彦火火出見尊と豊玉姫とありましたから、濱殿、つまり豊玉彦は豊玉姫の父ですが、彦火火出見尊の父だとするとニニギミコトということになります。(その4)に記事にしていますが、その前に(その3)から順にご参照ください!(^_-)-☆(2023.11.26 青字追加)

(つづく)

最後の美保神社には参りました。すっかり騙されたので、思った以上に時間がかかりましたので、残りの話は(その3)に回すことにします。また、よろしくお願いいたします(#^.^#)

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