刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

あ、「躓き石先生」どうもありがとうございます!(;^ω^)

2023-10-14 13:38:43 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

フォローさせていただいている、わたしが勝手に呼ばさせてもらっている「躓き石先生」のブログ「古代史の散歩道 など」に前回のわたしの記事「権力者の歴史書は政治文書だよ!(^_-)-☆」への論評を見つけました。先生の読者に紹介していただき、拙論への専門的な評論を頂きました。とても貴重なものですので、改めて感謝申し上げます。

今回ご指摘いただいた内容について、順次ご回答させていただきます。表現力が乏しいのでくどいと嫌われますが、言葉足らずよりはマシという気持ちで皆様にご理解賜れば幸いです。それでは行ってみましょう!(^^;)


新・私の本棚 番外 ブログ 刮目天一 「権力者の歴史書は政治文書だよ!(^_-)-☆」 1/2
 「権力者が作った歴史書とは、権力の根源が正統であることを示す政治文書だという理解をすれば、西晋の史官陳寿が編纂した三国志、そして三世紀の倭のことが書かれた魏志倭人伝の内容を正確に解釈できます。」
*コメント
 文章の前提は「権力者が作った歴史書とは、権力の根源が正統であることを示す政治文書だ」と提示されますが、陳寿「三国志」魏志には不正確です。中国古代の公式史書は、時の「権力者」が作ったものでないのは衆知です。
 一転、「魏志倭人伝」を「西晋の史官陳寿が編纂した」と判定されますが、前提と用語が整合せず筋が通らないのです。氏は「魏志倭人伝」の局地を説き、冒頭の前提は空を切って見えますが、以下、ご高説を拝聴します。


説明不足だったようです。下に詳しく説明しますが、「三国志」そして「魏志倭人伝」は一流の歴史家陳寿(233?-297?年)が書いたので、学術文書であって、政治文書でないという主張は全く成り立ちません。直接編纂したのは陳寿で間違いないですが、陳寿の編纂目的・動機のことを言っているのです。つまり当時の西晋の権力者である張華(232-300年)が持ち掛けたもの、あるいは陳寿が張華を忖度した結果が「三国志」編纂なのだと分かるのです。

刮目天が邪馬台国問題に取り組む切っ掛けとなった故岡田英弘先生の著書「日本史の誕生」(弓立社 1994、pp.64-72)に「親魏倭王」卑弥呼の誕生に関する政治的な内容が詳しくありました。多くの研究者がこの重要な視点を無視していたから今まで邪馬台国問題が解決しなかったのです。

西晋の基礎を築いた魏の司馬懿の功績を持ち上げることが西晋の史官陳寿の「三国志」編纂の大きな目的でもあり、特に司馬懿の功績を明示する「魏書三十巻烏桓・鮮卑・東夷伝倭人の条」略して「魏志倭人伝」を残すことが、陳寿の才能を見抜き支援してくれた張華の恩に報いることだったという内容が説明されているのです。

張華の「後援で『三国志』を公認するよう請願が出て、勅令を持って正史の資格が『三国志』に与えられ、後世に伝わることになった。 こうしたいきさつがあってできたのが『三国志』であり、その一部分が「魏志倭人伝」なのだから、著者の陳寿の立場としては、たとえ真実でも、晋の帝室の名誉にかかわることを書くわけにはいかず、嘘と分かっていても、政治の建前ならば書かずにすますわけにはいかない。そんなことをすれば、自分ばかりかパトロンの張華にもわざわいがおよぶからである。・・・「西域伝」を立てていないのはこのためである。「西域伝」を書くとすれば、当然、「親魏大月氏王」ヴァースデーヴァに触れなければならないが、それでは司馬懿が暴力で倒した政敵の曹爽の父である曹真の功績をたたえることになる。陳寿に「西域伝」が書けるわけがない。」と詳しくあります(p.70)。

更に付け加えると、「魏志倭人伝」に帯方郡より万二千里の位置に邪馬台国があると明らかにウソの距離が記されています。当時、洛陽から楽浪郡まで五千余里と知られていましたし、洛陽から大月氏の王都カーピシ(現在のアフガニスタンのバグラーム)まで万六千三百七十余里となっていました。司馬懿の功績を曹魏第一等とするためには、それを上回る万七千余里に東夷の大国である「親魏倭王」卑弥呼の都がなければならないからなのです。つまり、皇帝の徳を慕ってより遠くの大国に朝貢させるのが皇帝の評価となり、当時の魏の最大のライバルの呉を東方海上から圧迫する位置にある東夷の大国の倭国が戦略上最も重要な国なのです。「三国志」は倭国の朝貢を実現させた司馬懿の功績を西晋の人々に強く印象付けるための作品なのです。

 「魏志倭人伝には卑弥呼の朝貢を絶賛する詔書がほぼ全文掲載されており、司馬懿が尚書省を把握したので司馬懿が書かせたものですから、陳寿は司馬懿の功績を当時の西晋の朝廷の人々に明示するために書いたのです。(2023.10.12 赤字修正)」

*コメント
 倭人伝が引用するのは、蕃王への通達であり「絶賛」は時代錯誤です。
 「賛」とは、文字の含まれない、教養の示されていない職人芸「絵画」に、意義を認める文章/詩文を添えるのであり、「絵画」は、「賛」を得て始めて「文」芸と認められるのです。中国古代史で注意の必要な「単語」の一つです。


明帝が生前に派遣した帯方郡太守劉昕(りゅうきん)に代えて司馬懿が、新太守として送った部下の劉夏の報告書を基にして陳寿が「魏志倭人伝」を書いたのです。

劉夏は倭国王難升米と約半年間司馬懿を持ち上げるための談合をし、邪馬台国への行程記事などを作成して司馬懿に報告書を提出したのです。少帝曹芳の太傅(天子の師)となった司馬懿は、その間にライバルの曹爽が所管していた尚書省を取り上げ、自ら長官に就任し、卑弥呼に対する詔書を書かせたものですから、陳寿は詔勅をほとんどそのまま「魏志倭人伝」に記載したのです。

版本についてもご指摘がありましたが、正しく書けば、「魏氏倭人伝」が記載された「三国志」の版本ということですので、その版本の元になった写本にある景初二年(238年)六月に難升米が帯方郡に行ったとしても、まだ公孫氏の滅亡は同年八月なので、難升米が面会したのは公孫氏の配下のはずです。もしも明帝が準備した船ですでに楽浪・帯方郡を陥落させていたとしても、劉昕ではなく劉夏と帯方郡で面会できるはずありません。ですから、明帝が楽浪・帯方の二郡に密かに準備していた軍船を送ったのは遼東郡が陥落したことを司馬懿からの報告を受けた直後と考えるのが自然です。もしも明帝が公然と準備していたら公孫氏は二郡の防衛を強化しているはずですから、これは妥当な推理だと思います。ということで、帯方郡太守の劉夏は司馬懿が倭国の懐柔を命じた部下だと断言できます。

そしてこれらの経過は、司馬懿自らが魏の朝廷の実権を握る目的だったということも、司馬懿の孫司馬炎が西晋を建てた結果を考えても容易に推理できます。司馬懿の作らせた詔勅の内容が卑弥呼の貢献を大いに褒めるものであったのは、魏の朝廷に司馬懿自身の功績が曹真を上回るものだと印象付けるためだと分かるのです。西晋の多くの人々は司馬懿の功績を称えたはずです。このような内容の詔書のほぼ全文を載せた例は、他の正史にあるのでしょうか?「魏志倭人伝」の目的から考えて絶賛というのは言い過ぎではないと思います。( ^)o(^ )

こういう「三国志」が露骨な政治文書である理由は魏から帝位を禅譲された西晋で編纂された「同時代史」だったからだと後のシナの教養人は分かったはずです。ですから「三国志」以降の正史が、同時代史にならないようにしたのだと分かります。

 「倭が朝貢したのは明帝の功績ではなく西晋の宣帝と諡された司馬懿の功績だと晋書にもあります。西晋が魏から帝位を禅譲されたので、三国志では魏を正統な王朝とし、西晋の朝廷の人々に対して司馬懿の功績を称揚するために書いたのだと分かります。」

*コメント
 「晋書」は、数世紀の乱世を統一し中華世界を復元した唐代に、その元凶「晋朝」事績を史書としたものです。三国鼎立を統一した中原天子ながら、王族が「大乱」を起こして北方民族に滅ぼされた「司馬晋」の罪科露呈に編纂されたので、「晋書」深意が司馬懿の罪科でなく「功績」は、勘違いでしょう。
 氏ご自身の言葉を借りるなら、「晋書」を「作った」のは、唐帝であり、それを承知した上で解釈する必要があるのです。


新・私の本棚 番外 ブログ 刮目天一 「権力者の歴史書は政治文書だよ!(^_-)-☆」 2/2
*コメント [承前]
 対して、陳寿は、西晋健在の時代に、司馬遷「史記」、班固「漢書」を踏まえ、「倭人伝」では、時点の皇帝明帝曹叡の「功績」を語っています。
 一方、明帝が臨終で遺孤曹芳を託した司馬懿は、忠誠を誓いながら、陰謀で曹魏実権を握り、曹芳を諡の無い廃位に追い込んだと明記されているので、むしろ、非難とみるべきです。なお、司馬懿絵姿は無用/蛇足と愚考します。


おっしゃるとおり「晋書」にはそういう意味があるのでしょう。東夷の、魏への朝貢は明帝の功績であることは明らかですが、「晋書」宣帝紀に東夷の朝貢は司馬懿の功績だと事実が述べられている点は重要です。司馬懿がどういう顔をしているのか示すと分かり易いかなと思った次第ですので、ご理解ください(#^.^#)

「三国志 魏書」少帝紀景初三年二月に司馬懿は道義を身に着け正直で、魏に忠誠をつくした人物だから太傅とするとの詔勅が出されたとありましたよ( ^)o(^ )

 「魏志倭人伝の行程記事や倭の風俗記事は、難升米が朝貢のために約半年滞在して劉夏と司馬懿を持ち上げるために談合して作られたのです。これは、伊都国の国名の意味から判明し、孟子を読む教養人の難升米が漢字で書いて魏に教えたものであることが判明しています(詳細は「刮目天の古代史 伊都国の意味がヒントだった?」参照)。」

*コメント
 微妙な誤解ですが、難升米は、蛮王の代理に過ぎず、「魏」(帯方郡太守)に「教える」などあり得ないことです。天下を統率する「魏」と東夷の「倭人」の立場は隔絶しています。(倭の地位が格段に低いのです。念のため)因みに、難升米が、「天子と雖も、徳を喪えば失墜する」と説いた「孟子」を熟読したかどうか、証拠がないので臆測に過ぎません。急に細かくなって、劉夏を司馬懿と並べて持ち上げているというのも、今一つ理解できません。
 ついでながら、倭人伝冒頭の「郡から倭まで」の行程記事は、大変精緻で、郡太守と倭大夫如きが相談して作れるものではないはずです。いずれにしろ、西晋史官陳寿が、最終的に編纂校訂したから、そのように解するのが、氏の本意のはずですが、なぜか、ここでは不本意な書き方です。続く、風俗記事は、大半が現地見聞報告で、魏使訪倭以前に、書くことはできないのです。


確かに陳寿が編纂したのですから、校訂も自身で行っているはずですので、目的から外れるものは削除しているはずです。例えば陳寿が参照したはずの「魏略」にある「倭人は呉の太伯の後裔」というのは意図的に削除されています。二人の魏使の報告書については帯方郡太守が内容を取捨選択して司馬懿に提出したことも当然です。また詔勅については陳寿が校訂できるはずはないです。司馬懿が作らせたものですので、一言一句、そのまま書いたはずです。

難升米は表向きは蛮王ですが、劉夏の出世を約束してくれる大事な人物なのです。正始元年(240年)には次の太守弓遵(きゅうじゅん)が着任し、魏使梯儁(ていしゅん)を派遣しています。多分、梯儁は伊都国に滞在して話を聞いただけでしょう。劉夏はとても有能な人物なので直ぐに栄転したのでしょう。劉夏は歴史を動かした重要人物ですので記録が残っていてもいいと思いますが、何か残っていないでしょうか?(^_-)-☆

難升米が107年に後漢安帝に朝貢した倭の回土(ウィト)国王師升の子孫の倭国王だったことも、「魏志倭人伝」の行程記事や風俗記事が難升米が書いて教えたことも、回土国を伊都国と書かれていたことから分かるのです。ご存じのとおり、伊都国は「孟子・尽心上篇」でその評価が議論される殷王朝初期の政治家伊尹に因む嘉字の国名なのです。魏の役人が回土国を伊都国と書く理由が見つかりません。また、行程記事・風俗記事は倭国の状況を熟知した難升米が政治的に配慮して書いたものだと分かるのです。詳しくは「伊都国の意味がヒントだった?」をご参照ください。邪馬台国問題はこれによって大きく解決に向いました。卑弥呼が登場する経緯も卑弥呼の正体も考古学や民俗学から判明しました。是非、ご意見をください(^^;)

 「これによって邪馬台国の位置も、卑弥呼の正体も、卑弥呼の墓が日本最大の円墳の宇佐市安心院町「三柱山古墳」であることも発見しました(詳細「卑弥呼の墓は見つかってるよ!」参照)。」 
 「古代史に謎が多いのは、政治的な理由から文献に真実が書かれていないからなのです。」「女王の居城の平面図」は省略
 「同時代史の三国志に懲りたシナは、それ以降、ずっと後の時代に歴史書を編纂する習慣が定着したので改善されましたが、原本が残っておらず、残された写本にも誤字などがあるために様々な解釈が出るという問題があります。
 「日本の場合は、現存する最古の正史「日本書紀」以下の六国史は藤原政権下で編纂されたものですので、天皇の歴史書ではなく藤原氏の権力維持のための政治文書だったということに気付けば謎の古代史はどんどん解明できますよ。」 

*コメント
 「日本」が発言した701年以降の「日本」古代史については、全くの素人で、刮目天氏の「日本書紀」観には口を挟めないので、ここでは素朴な疑問を述べるだけです。
 ・「日本書紀」原本は、現存しているのでしょうか。(当然、存在していないはずです)
 ・「日本書紀」現存写本は、写本の際に、都度厳格に校正され、解釈を迷わせる誤字などないものなのでしょうか。(数値化して比較していただければ幸いです)
 「ずっと後の時代」に編纂された歴史書には、余り通じていないので、恥を忍んで教えを請う次第です。お手数ながら、公平のため、確認いただきたいものです。
 因みに、古代史では、「問題」には、必ず解答があるのです。
 中国「正史」には、それぞれの由来、経緯がありますが、「三国志」魏志は、国家事業で校訂を重ね大変確実なのです。
*余談
 氏を含め、業界人の「倭人伝」論は、中国史書の大局が、帝国公文書を編纂した「厳格な記録文書」であることに気づいていないので、岡田英弘、渡邉義浩両巨魁に始まる、素人の「思い込み」が色濃い「誤解流」史観に帰属した「俗説」に見えるのは大変残念です。

 氏が、「俗説」と一線を劃された古代史論を展開されているのは、重々承知しているのですが、当コメントに集約された「倭人伝」観が、「俗説」に感染されていると見えるのは誠に残念です。中国史料については、調べが行き届いていらっしゃらないのでしょうか。

妄言多謝。頓首頓首。死罪死罪。


「日本書紀」についても、純正漢文も和製漢文も読む素養など全くありませんので、市販されている文献やネットで公開されているもので調べていますから、それ以上の精緻な話は正直分かりません(^^;)

「三国志」の校訂が西晋の国家事業でやられた理由は、学術的な目的でないことは容易に想像できます。歴史書は過去を縛るものですので、権力者の歴史書編纂事業は権力を維持するために、野党を黙らせるためにあるのだというのが事実だと思います。ちょっと俗な表現で恐縮です。でも日本人は権力に従順な人が多いので、倭人という意味のとおり、記紀神話に騙され続けていますね(^_-)-☆。

そういう刮目天も現役時代はお上の言うこと、大手メディアの報道をそのまま信じて、自分の仕事に専念していたのですが、定年後、本当にやりたいことができる時間ができました。子供のころは近くで土器を見つけたので、考古学者になりたいなと思っていました。上述のとおり邪馬台国問題解決の道が見えたので、かれこれ十年以上考え続けています。

ついでに今まで疎遠だったマクロ経済学などもネットで勉強させてもらい、「国の借金」という大嘘、消費税という国民貧困化の元凶が分かりました。税制の意味も分かりました。税は財源ではないのです。政府の黒字は民間の赤字です。それ以来、政府の言うことを素直に信じることができなくなっていますので人体実験のワクチン接種もやってませんし、システム開発をやっていたので致命的なリスクをもたらすマイナンバーカードも作ってません。あまり残り時間が無くなっているので、自分で見つけた事実をブログなどで記事にして、皆さんに理解してもらいたいと思ってやっています。どうか素人のたわごとと切り捨てないで、ご理解のほどよろしくお願いいたします!

古代史研究についても、今後とも、専門的な意見や素朴な疑問を投げていただけると研究が進みますので、どうぞよろしくお願いします。どうも、お付き合い有難うございました(;^ω^)

【関連記事】
邪馬台国問題が解決しなかった訳は?

【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆



通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
応援をしていただき、感謝します。
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。