刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

国引き神話は史実だった?(その1)

2023-11-18 02:28:09 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

今回の記事は前から気になっていた国引き神話です。出雲の道の駅「大社ご縁広場」に下のような立派なレリーフがありますので、その写真をGoogle Mapからお借りしました。


ここに登場する神様は八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと、以下、八束命という)です。古事記によれば大国主の祖父淤美豆奴神(おみづぬのかみ)ということで、倭国大乱の英雄で魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗(久々遅彦)の父ということになります。兵庫県豊岡市久久比神社祭神で木の霊ですから全国の上棟式の祭神、スサノヲの王子イタケルの子孫です。

その八束命は出雲国風土記意宇郡の最初に登場します。出雲は最初は小さな国だったので八束命が余った土地に綱をかけて引っ張ってくるという話になっています。全部引き終えて「おえ!」って叫んだので、意宇郡という地名になったそうです。しかし、国土そのものを引っ張り寄せることは、当然ですがそれは神様でも無理?いや、日本の神様は人間ですから(;^ω^)

ですから八束命が縄文海人ムナカタ族を束ねる王として、各地に分散していた部族を出雲に集めて、傘下にした史実を神話にしたものだと考えています。伊都国を王都とする倭国王師升に祖先のスサノヲ大王(第18代奴国王)が殺されて倭国を奪われた恨みを晴らすのが大きな目的だと思われます。半島南部の鉄を支配したスサノヲ大王の末裔ですので、そのコネで鉄を狗奴国側に供給しましたが、鉄の交易ネットワークを作って隆盛になったと考えています(「新羅の脱解王が奴国大王?(^_-)-☆」参照)。倭国大乱は、半島の混乱で倭国が楽浪郡との交易が廃れて衰弱していた時期に狗古智卑狗(久々遅彦)が活躍しました(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。久々遅彦は日本海沿岸の部族を統合する王の襲名と考えています。八束命がその基礎を造ったのだと考えられます。

wiki「国引き神話」に以下の4カ所から国を引っ張って、それぞれの到着地は以下のとおり、まとめられています。

(1)出発地:志羅紀(しらぎ)の三埼(みさき)
   到着地:去豆(こづ)の折絶(をりたえ)から 八穂爾(やほに) 支豆支(きづき)の御埼
(2)出発地:北門(きたど)の佐伎(さき)の国
   到着地:多久(たく)の折絶から 狭田(さだ)の国
(3)出発地:北門の農波(ぬなみ)の国     
   到着地: 宇波の折絶から 闇見(くらみ)の国
(4)出発地:高志(こし)の都都(つつ)の三埼
   到着地:三穂(みほ)の埼

到着地については出雲国内ですので、その比定地については調べられているようです。問題は、出発地です。以下のように検討した結果を先に図に示します。到着地については後で説明しますが、比定地となる神社を示しています。



どこの豪族なのかについてはっきりしているのは、まず(2)の北門の佐伎の国は隠岐の海士郡佐作郷(あまぐんさきごう) です。隠岐産の黒曜石が有名です。島根県の資料によれば、島根県を中心に中国地方から兵庫県・滋賀県の遺跡で見つかっています。ウラジオストック・ナホトカの1万8千年前の遺跡や朝鮮半島からも出土していますので、縄文時代よりも前から海人族が日本海を丸木舟で渡って交易していたのでしょう。

次に(3)も北門とあるので隠岐のことだとすると、隠岐は島後(どうご、隠岐の島町)と島前(どうぜん)と呼ばれる西ノ島町などの島々に分かれます。(2)の海士郡は島前の中ノ島(海士町)にあります。ですから(3)は隠岐道後ではないかと考えられますが、隠岐の黒曜石は島後島が原産地として知られているので、海士郡佐作郷の豪族が隠岐の島全域を支配していたようです。それを裏付けるものとして、上の図にしました弥生後期後半の出雲を発祥とする大型四隅突出型墳丘墓が拡散していて、④隠岐島後島隠岐の島町大城遺跡が見られます。ですから、北門は隠岐に限定されるものではなく、「越後付近もしくは石川県と解釈する説もある」とあります。(2023.11.19 赤字訂正)

しかし、(4)の出発地:高志の都都の三埼は能登半島の珠洲市のことです。この時代の遺跡として珠洲市粟津カンジャバタケ遺跡があります。縄文から弥生時代を含む古代から中世にかけての集落跡です。だいじょう寺畑遺跡は縄文時代から古代・中世にかけての墓があります。また古墳時代の円墳がいくつか見られますので、卑弥呼を祖とするムナカタ海人族の和邇氏のものと考えられます。

ですから(3)の出発地の北門は韓半島への入り口という意味と考えると、対馬が浮かび上がってきます。北門の農波ですが、wikiの注[5]に諸伝文には「良波」とあるが千家俊信「訂正出雲風土記」にしたがい、ここでは「農波」とする。とありますので、「良波」も視野に入れて探しました。ありました。豊玉町仁位ハロウ遺跡です。弥生後期後半から終末期にかけて対馬の中心地だったようです。広形銅矛や小型内行花文仿製鏡などが出土しています。対馬の人々は魏志倭人伝にも南北に移動して交易して暮らしているとあります。和多都美神社 境内に波良波神社(はらへのかみのやしろ)があります。祭神は海神豊玉彦ですから、記紀神話の日向三代を思い出します。姉豊玉姫と妹玉依姫の父親ということです。長くなるので別の記事で述べたいと思いますが、八束命のことなのかも知れません(^_-)-☆。

最後になりましたが(1)の出発地はwikiには「新羅国」とあるだけです。「新羅の岬」ということで半島の南東部を探しました。ありました。ちょっと不気味な写真ですが、韓国最東端にある浦項市虎尾岬がそれです。

浦項地域の墳墓は支石墓、周溝墓、土壙墓、石棺墓などがあります(朴栄九・平郡達哉訳「(翻訳)朝鮮半島東海岸地域青銅器時代墳墓の変遷」島根大学法文学部紀要12号、2016,p.54)。これらは縄文海人ムナカタ族のものと同じ形式です。原三国時代の集落のある慶州市の城洞遺跡では本格的な製鉄遺構があります(西谷正「韓国考古学の新世紀」韓国研究センター年報Vol.2,p.4)。半島南部で出土している弥生土器は見られませんが、上図のとおり鹿骨製アワビオコシ文化圏ですから出雲と交流があったと考えられます。(2024.6.9 赤字訂正)


つづく

通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
応援をしていただき、感謝します。
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。