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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【検証9】奴国時代の話(その2)

2023-11-12 10:29:05 | 古代史
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2020-07-04 15:17:09にアップしましたが、(その1)の改定に伴い少しだけ見直しましたので、よろしければおつきあいください(#^.^#)

前置きが長くなったが、いよいよ奴国の話だ。話は少し遡る紀元前473年、呉王夫差が越王勾践に敗れて自害し、西周に繋がる呉が滅亡した。呉王族の一部が半島の南部に逃げ、倭人に助けられて生活していた模様だ。紀元前4世紀中頃には厳しい寒冷化となったのだろう(原遥平「徹底検証 日本古代史と考古学の謎」彩流社2001,p.76 の「民族移動と気候の関係」の図によれば、気候700年周期曲線に従って紀元前5世紀初頭から寒冷化し始め前3世紀中頃に最も寒くなり、再び後1世紀にかけて回復する。)。 恐らくその影響で早良平野に南下し、弥生前期末から中期初頭の吉武遺跡群の形成期に造られたと言われている北のむらに住んだ模様だ(注1)。



宋史 王年代紀」に記載される最初の王が天御中主(あめのみなかぬし)であり、「古事記」では高天原の最初の神とされる人物なのだ(【付録】参照)。王墓は吉武遺跡群の高木地区の特定集団墓が該当し、中期末の展開期が終わる前1世紀以降に遺跡が衰退している。吉武遺跡が発展したために手狭になったので王宮などの拠点を東側の奴国に移したと考えられる。遷都する前までの歴代の王たちは高木地区に葬られていると思われる。

奴国と推定される領域はかなり大きく、王宮や王墓などと祭祀施設は須玖・岡本遺跡に置き、列島各地の産品を集める交易センターを比恵・那珂遺跡に置いて都市を形成した模様だ。

「比恵・那珂の範囲は、南北 2.5km、東西の広いところで 1.0km前後の広がりを有している。さらに南に接する五十川遺跡北部や、段丘東側の山王遺跡も段丘地形および遺構分布は連続しており、これらも実質的に同一の遺跡群と捉えてもよい。」最盛期は吉野ヶ里遺跡の広さの約4倍はある巨大遺跡だった。(2023.2.23 赤字訂正)
「比恵・那珂遺跡は旧石器時代から縄文・弥生中期まで人々が生活していたが、弥生中期後半以降に遺構が計画的に作られるようになり、大溝(集落内の区画の明示となる条溝)が比恵・那珂双方の段丘中央を区画するように掘削され、溝に沿った形で掘立柱建物(倉庫・平地建物)が配置されたり、高床倉庫群が両側に配置される区域があるように(大溝沿いには竪穴住居が少ない)、溝は集落のレイアウト(区画)の基軸になっていた。」魏志倭人伝にある奴国の長官クラスの居館跡は、周囲を溝で囲っている。
「大溝の掘削時期は須玖Ⅱ式古相とみられ、中層以上に中期末~後期前半の土器群の大量廃棄があり埋没するが、溝が存在した部分は区画溝としては古墳時代前期前半までラインとして残り、後代までの遺構配置に影響している。また終始一貫、溝の両側に遺構が展開し、この大溝は「環濠」とは異なる。」
「比恵・那珂では中期中頃から鋳造関係遺物が多く出土し、青銅器以外にガラス製品(玉類)も生産している。中期後半から後期初頭にかけては、複数の鋳型が出土したり、中子や取瓶(坩堝)が出土し、生産が行われた。」(上のカギ括弧内の青字久住猛雄 「比恵・那珂遺跡群」埋蔵文化財研究集会2009資料集から引用)



後期前半(2世紀初頭)に宮廷楽師の師升らのクーデターが起きたので、奴国の隣の不弥国(うみこく、新宮から宗像の領域に比定)から東側の国が倭国と敵対することになり交易センターとして機能を果たせなくなって一時廃れたようだ。だが、卑弥呼の時代(3世紀前半)になってかなり整備したようなので、都市機能が復活し、上の図のとおり、邪馬台国支配下の地方の人々が交易で集まる日本最大規模の大都会になった模様だ。鉄素材の供給を止められた狗奴国は纏向遺跡に旧奴国王族を集めて倭国攻略策を練り、祈祷を行って、卑弥呼が死亡する247年ごろにようやく倭国討伐軍を差し向けることになった。これが第二次倭国大乱だ。

時代を戻して、那珂遺跡群のさらに南の春日丘陵上を中心に南北2キロメートルほどにわたって、弥生時代中期~後期の大集落「須玖遺跡群」が形成されている。そのうち、丘陵北端部一帯では、多くの甕棺(かめかん)墓など、王墓、王族墓や祭祀遺構・住居跡が見つかっており、更に比恵・那珂遺跡を上回る規模の青銅器などの工房が集中している地区が見られ、奴国の中枢部と考えられている。奴国王直営の工場を持っていたということだ。ここで製造された銅矛などが四国などに分布している。祭祀様式が奴国のものを踏襲しているので、奴国王の配下のアズミ族が開発したものと考えられる。つまり、奴国の支配圏ということになろう。(注2)

最も傑出した王墓は巨石下甕棺墓で、その中から、
銅剣 2・銅矛 4・銅戈 1
銅鏡(前漢鏡) 32面以上(方格四星草葉文鏡 1、重圏四星葉文鏡 2、蟠螭(ばんち)鏡 1、星雲文鏡 5面以上、重圏文銘帯鏡 5面以上、内行花文銘帯鏡 13面以上、不明 5面)
ガラス璧(瑠璃璧) 2個片以上・ガラス勾玉・ガラス管玉

が見つかっている。吉武・高木遺跡などと同様にヤマト王権の三種の神器(剣・鏡・勾玉)が見つかっているのは、「日本は古の倭の奴国」であることを示す重要な物証のひとつだ。


甕棺の中の奴国大王 奴国の丘歴史資料館 (奴国の丘歴史公園)より




また、ガラス璧片が複数個見つかっている。玉璧は周時代の王標(王を示すもの)で、周の爵制の子爵に相当する。奴国大王が呉王に繋がる血筋で「太伯の後」との伝承どおりであることを示している。朝倉市夜須町峯遺跡からも璧片が見つかっており、奴国大王が中国に倣って峯遺跡の王(地方首長)に与えたもので、鏡と共に奴国大王が地方の王・首長との間に爵封制を採っていたことを示すものなのだ。(王金林「邪馬台国と古代中国」学生社1992.p.99)。

糸島市の三雲南小路遺跡からもガラス璧片が8個も出土しており、同様に伊都国王に奴国大王が与えた王標だと考えられる。また、吉野ヶ里遺跡からは中国製銅鏡片3点が見つかっており、奴国大王の支配領域に入ると考えられる。つまり最盛期の奴国大王は福岡平野・筑紫平野・佐賀平野さらに伊都国王の糸島地区を束ねていた模様だ。璧を下賜された峯遺跡の王や対外交易の中心地の伊都国王には奴国王族を配したと考えられる。


「玉璧は文政元年(1818)、串間市で掘り出した石棺から鉄製品や玉類とともに出土したという。直径33.3センチ、軟玉でできた薄い円盤で、中央部には丸く孔があけられ、周囲には獣文、渦巻文、獣文の三重の文様帯を刻む。中国の玉器に詳しい岡村秀典京都大学教授は”王侯クラスに賜与するために漢王朝の工房で紀元前2世紀につくられた優品の一つだったと考えられる”とみる。」「串間市、王の山古墳出土の玉璧とその由来」より(注4)

奴国王に光武帝が金印を与えたのは、伊都国まで船でやって来る華僑が求める列島の珍しい産品を、倭人が産地から持ってきて間違いなく取引させることのできる権威と権力がある大王だと認められたからであり、光武帝が華僑の商売を保証する倭国における領事の役割を奴国王に期待したからに他ならない(岡田英弘「日本史の誕生」弓立舎)。

その他須玖・岡本遺跡の南西側にある安徳台遺跡や朝倉市の約17ヘクタールの範囲に多重の環濠を設けた平塚川添遺跡や峯遺跡は奴国の拠点集落に食糧を供給する衛星集落だったと考えられる。福岡平野と筑紫平野の地名が大和の地名と位置関係まで一致することが見つかっている。これもまたヤマトの人々が古の奴国の時代を偲び命名したものだと分かるのだ。高天原は奴国だったのだ!

(2020.3.1 朝倉卑弥呼伝説より図差し替)


以上見たとおり、通説では奴国王は他の国の王と同等くらいと見られていたが、刮目天の仮説を検証すれば明らかに倭国内の他の地方首長・王らを束ねる権威と実力のある大王だったことが分かる。

弥生前期末か中期初頭、前4世紀に初代倭国王天御中主が早良平野の地を踏んでから、吉武遺跡群を拠点に対外交易で徐々に富と権力を蓄えて、57年に後漢から金印を貰うまでに発展し、最盛期を迎えた。そして第17代王伊弉諾尊が列島各地の産品を円滑に入手するために、日本海沿岸部などの流通を抑えていた縄文海人ムナカタ族の姫伊弉冉尊(イザナミ)と結婚し、本格的な異種文化の融合が始まったようだ。しかし、二人から生まれた、多分縄文系の風貌の第18代王素戔嗚尊(スサノヲ)が奴国の伝統祭祀を担う宮中楽師師升らと宗教対立を起こし、クーデターで殺されたと推理した。約400年続いた奴国大王が支配する倭国が消滅したのだ。

その後に奴国王族が纏向の地で再興したヤマト王権の成立までのすべての混乱の原因は、列島内の文明の衝突だったのだと思う(縄文文明と長江文明)。それまでは列島の中に諸民族が独自の文化を保持しつつ、縄文系の人々は長江文明の影響を受けながら発展させて生活していたが、この大混乱を経てようやく日本列島に江南の倭人系と縄文系が完全に混ざったヤマト民族日本人が誕生することになったのだと考えられる。その物語の始まりがイザナギ・イザナミの国生み神話なんだ( ^)o(^ )

(注1)ちなみに呉王は呉の人々と同じ民族ではなく、西周の先王古公亶父を祖とする姫氏だ。Y染色体ハプロタイプがO1aの人々で、中国最古の夏王朝を建てた夏人だ。長江下流域でに28,500年前に発生した人々で、約4千年前の大洪水の被害を受けて、黄河下流域の山東龍山文化の人々と交流があったので、黄河中流域に移動し二里頭文化の担い手となった。(中田力「科学者が読み解く日本建国史」PHP新書943、2014,pp.61-65)

夏王朝を滅ぼして殷(商)を建国した山東龍山文化の人々(O1b2)から分かれたのが江南の呉人でO-47zのハプロタイプを持つ人々で、現代日本人男性の約1/4を占める。

ちなみに、前述のとおり現代コリアン男性の約1/3は、殷(商)王朝が西周に滅ぼされる頃、王族の箕子が民を連れて平壌付近に建国した箕子朝鮮の人々の末裔なので殷(商)人と同じハプロタイプO1b2だ。
日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!

(注2)中細形・中広形銅矛や細形銅剣が出雲や吉備にも分布している。これについてもアズミ族が関与していると思われる。

(注3)文氏、漢氏が朝鮮半島を経由して日本に渡来し「邪馬壱国」を建国したという説だが、「邪馬壱国」そのものが存在しないことは倭人語で母音が連続するのが避けられたことから分かる(安本美典「倭人語の解読」(勉誠出版)平成15年,p.15)。

倭の奴国王が「呉の太伯の後」であるとして、前漢末期の哀帝か平帝から下賜されたのかもしれない(奴国・伊都国が活躍していた紀元前の世紀末ころ「中国正史には現れない外交関係が実在した、と推定される」とある(寺沢薫「王権誕生」日本の歴史第02巻、講談社、2000、p.159) 。 もしもそうであれば倭国大乱の過程でたまたま王の山古墳の被葬者に渡ったものだったかも知れない(*^▽^*)


【参考記事】奴国は周の青銅器文明を引き継ぎ、独自に深化させた。そして現代にもその痕跡をとどめていることからも、日本は古の倭の奴国で間違いない。「周王朝から邪馬壹国へ、そして現代へ」正木裕(古田史学の会)






【付録】王年代紀(宋史)
藤堂明保ら「倭国伝」(講談社学術文庫2010,pp.278-279)

 其の年代紀に記す所に云う。
 初めの主は天御中主(あめのみなかぬし)と号す。
 次は天村雲尊(あめのむらくものみこと)と曰い、其の後は皆な尊を以って号と爲す。
 次は天八重雲尊(あめのやえくものみこと)。
 次は天彌聞尊(あめのににぎのみこと)。
 次は天忍勝尊(あめのおしかつのみこと)。
 次は贍波尊(みなみのみこと)。
 次は萬魂尊(よろずむすひのみこと)。
 次は利利魂尊(ととむすひのみこと)。
 次は國狭槌尊(くにさづちのみこと)。
 次は角龔魂尊(つのそむすひのみこと)。
 次は汲津丹尊(くみつにのみこと)。
 次は面垂見尊(おもだるみのみこと)。
 次は國常立尊(くにとこたちのみこと)。
 次は天鑑尊(あめのかがみのみこと)。
 次は天萬尊(あめのよろずのみこと)。
 次は沫名杵尊(あわなぎのみこと)。
 次は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)。
 次は素戔烏尊(すさのおのみこと)。
 次は天照大神尊(あまてらすおおみかみのみこと)。
 次は正哉吾勝速日天押穂耳尊(まさかあかつはやひあめのおしほみみのみこと)。
 次は天彦尊(あまつひこのみこと)。
 次は炎尊(ほむらのみこと)。
 次は彦瀲尊(ひこなぎさのみこと)。 凡そ二十三世、並びに筑紫の日向宮に都す。
 彦瀲の第四子を神武天皇と号す。 筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す。 即位の元年甲寅は周の僖王の時に當る也。 次は綏靖天皇。・・・・・(2020.5.30 王の読みを『日本書紀が伝える「筑豊百余国の王たち」【連載 新説・日本書紀②】2018年02月07日』により追加)



983年(永観元年、第64代円融天皇)に東大寺の僧奝然(ちょうねん)が宋に渡り、太宗に「王年代紀」を献上した。これによって、神話の高天原が奴国の時代だと了解し、その後のシナの史書に「日本は古の倭の奴国」と記載されたのだ。
「日本国」へ、八百年も掛かったのか?(;´Д`)

19代の天照大神尊はスサノヲの弟ニギハヤヒ。クーデターから逃れて出雲に落ち延び、ムナカタ海人族の支援を受けて吉備に進出し、ヤマト王権の基礎を築いた人物。「日本書紀」では建国の真相を隠すために、桃太郎の元ネタの吉備津彦の鬼退治の話にしている。さらに持統天皇を皇祖神アマテラス女神としてすり替えたと推理した。従って、王年代紀の19代以降23代までの天孫降臨・日向三代などの神話も創作なのだ(*´ω`*)(2019.9.26 追加)
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆



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【検証9】奴国時代の話(その1)

2023-11-12 08:47:20 | 古代史
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2020-07-03 17:35:47に記事にしましたが、図のリンクが切れていたので修理し、関連記事のリストも付けました。よろしければお付き合いください(#^.^#)

今回は2019-09-25 08:09:59 にタイトル「奴国の時代は凄かった」として掲載した記事に対して、内容を増やしたので改めて2回に分けて掲載します。金印の奴国に対する従来の見方とは異なるこの認識は、その後の歴史を解明する上でとても重要です。物事の最初を見誤ると後々まで間違いを引きずり、謎が解けないということになります。通説と異なるので、疑問点などがありましたら遠慮なくお寄せ下さい。

西暦57年に後漢に朝貢し光武帝より「漢委奴国王」の金印を賜ったが、江戸時代に志賀島の石の下から偶然金印が発見されたことより、范曄(はんよう、398年 - 445年)の「後漢書」に書かれたこの内容が史実だったと認められた。刮目天は「新唐書」「宋史」の「日本は古(いにしえ)の倭の奴国(なこく)」という記述を最初の仮説としたが、今回はその奴国の時代にスポット・ライトを当てて検証したい。

漢王朝などが周辺諸国に与えた金印などの紐(つまみ)のデザインはそれぞれの民族の特徴を表すもので、ラクダや羊など色々とあることが知られている。倭人の奴国王に与えた金印は蛇紐だった。当時の奴国の人々は蛇をナーガ(nag)と呼び、神として祀っていたことから、倭の奴(ナ)国と書かれた(本当は那国と書いてくれたら問題なかったのだが、卑字をあてられたのは面白くないので、誰も日本は奴国だったとは考えにくかったのだろう。印面の委奴国を「いとこく」と間違って読む説まで登場し、いまだに混乱しているようだ)。蛇を神とするのは長江下流域で水田稲作・漁労を行っていた呉や越の人々なのだが、越人は「大国主はトビヘビだった(^◇^)」で述べたように蛇を「トビ・トベ」と呼んでいた模様だから、奴国の人々は江南の呉に由来する倭人と呼ばれる海人アズミ族と考えられる(古代日本は海人国家だった(^_-)-☆)

倭人について最初に書かれた中国文献『論衡』によれば、周の成王(紀元前1042~前1021年)の時代に「越裳(えつしょう)は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず」とあり、呉人のことだと思われる(越裳は越人のこと)。

倭人は当初は江南を根拠地として半島南部や列島だけでなく、遠く西の方ではマダガスカル島あたりまで活動していた痕跡が見つかっている(「東鯷人(とうていじん)って?(^^)/ (注)」参照)。半島南半分から九州玄界灘沿岸地域では倭人語が話されていたので、この時代は半島南部は倭人と越人と列島の縄文海人が住む領域だったようだ(後に、半島や列島の縄文人と混血して、縄文系も含めて江南系と同様に倭人と呼ばれた模様だ)。

この江南出身の呉の人々である倭人によって韓半島南部で水田稲作が行われたようだ。紀元前10世紀には九州の玄界灘沿岸へも入植し、唐津や板付で水田跡が見つかっている。縄文人もそれ以前から稲作は行っていたが、主として陸稲(熱帯ジャポニカ種)を畑で栽培していた(注1)。半島の縄文人に江南出身の倭人が水田稲作技術を教えたと考えられる。倭人や半島の縄文人が温帯ジャポニカ種を北部九州に持ち込んで水田で栽培したのが弥生時代のはじまりだと考えられる。

よく韓半島の人々が半島経由で日本に数多くの文化をもたらしたように言われるが、この時代の半島人が韓人だというのは全く誤りだ。主として倭人や半島に進出していた縄文海人が列島に文化を持ち込んだのが本当だ。前4世紀から後2世紀には北は京畿道から南は慶南・全羅道までの30カ所以上の遺跡で九州北部の弥生土器が見つかっている(藤尾慎一郎「弥生時代の歴史」講談社現代新書、2015、p.121)。韓半島へは、以下で述べるとおり戦国時代に大陸からの戦争難民が後から居住するようになった。



戦国七雄のひとつである(紀元前403 - 前230年)が最初に秦によって滅ぼされ、難民が馬韓の地(現在のソウル付近)に居住したことから韓人と呼ばれるようになったと考えられる。秦が紀元前221年に史上初めて全土を統一するも、秦人らは始皇帝の圧政から逃れるために韓半島南東部への入植が続いた模様だ。その地を辰(秦)韓と呼んだが、秦人は辰韓の王にはならず、常に馬韓から王を迎えたと「晋書」にある。

すでに半島北部(平壌付近)に殷(商)から分かれた箕子朝鮮(紀元前12世紀? - 前194年)があったが、現在の北京付近を都にしていた燕(紀元前11世紀 ー 前222年)が秦に滅ぼされたので、燕から亡命した衛満が燕・斉・趙からの亡命者を誘いいれ、亡命者コロニーの指導者となり、箕子朝鮮を滅ぼし、衛氏朝鮮(紀元前194 - 前108年)を建てた。そのため箕子朝鮮の準王が南へ逃げて馬韓の地を占領し、韓王と名乗ったと「後漢書」にある。(2020.7.9 追加・訂正)

朝鮮民族の男系のルーツをY染色体DNAで調べると、主として紀元前三世紀から前二世紀に大陸から来たと考えられるシナ人が全体の4割になっている。上で述べた箕子朝鮮の殷(商)人が約1/3で、その他越人などを入れると8割以上がシナ大陸出身で、満州などツングース系の北方民族は1割以下となっていることからも確かのようだ。

従ってそれ以前の半島南部は江南系と縄文系の倭人の世界だった。

だから、繰り返すがそこで話された言語も日本語祖語の倭人語だった。六世紀初頭に辰韓の地に建国された新羅によって(注2)、七世紀中頃までに倭人は半島からほとんど追い出されたが、現代コリアンは、当時の倭人文化の影響をかなり受けているのだ。

また、念のため言っておくと、日本に帰化した百済人のほとんどは倭人だろう。新羅からの帰化人というのも、ほとんど新羅・伽耶付近に住んでいた倭人だと考えている。彼らは新羅(辰韓)人に混ざって生活していたので秦人が話していた陝西地方の方言を話すことができたようだ。七世紀初頭に九州東部や中国西部に移住したこれらの人々(帰化人)を隋使が見て秦王国と呼んだようだ。渡来人は異民族とは限らない?( ^)o(^ ))。



【関連記事】日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!
Wiki「日本人」の「日本人および周辺(日本からおよそ5000km以内)の諸民族のY染色体ハプログループの割合」より作成。ゲノム・ワイドな分析は遺伝子の混合を分析するものだが、民族のルーツを調べる上では、古代文献との関係が理解しやすいこのY染色体DNA分析が非常に有用。上の記事で下図の各ハプログループの解説をしていますので参照ください。


(左クリックで拡大します!)

(注1)Wiki「稲作」によると、日本では陸稲栽培の可能性を示すものとして岡山の朝寝鼻貝塚から約6000年前のプラント・オパールが見つかっており、また南溝手遺跡からは約3500年前の籾の痕がついた土器がみつかっている。半島でのイネは他の穀類と同様に列島から来た縄文人が畑で耕作していたのだろう。
遼東半島で約3000年前の炭化米が見つかっているが、朝鮮半島では稲作の痕跡は見つかっていない。水田稲作に関しては約2500年前の水田跡が松菊里遺跡などで見つかっている。研究者の甲元は、最古の稲作の痕跡とされる前七世紀の欣岩里遺跡のイネは陸稲の可能性が高いと指摘している。
( 甲元眞之、「東アジアの先史農耕」『青驪』 No.5 2008-2-29 p.30-33, hdl:2298/22921)
箕子朝鮮の殷(商)人系の人々は農耕・牧畜を行う民族だったから、韓半島南部に水田稲作技術を持ち込んだのは江南系の倭人(呉人)だ。

(注2)Wiki「新羅」によれば、『三国史記』の新羅本紀は「辰韓の斯蘆国」の時代から含めて一貫した新羅の歴史としているが、史実性があるのは4世紀の第17代奈勿王以後であり、それ以前の個々の記事は伝説的なものであって史実性は低いとされる。
また、「当初は「斯蘆」(しろ、サロ)と称していたが、503年に「新羅」を正式な国号とした[1]」とある。

ここまでお付き合い、ありがとうございます。
次回(その2)に続きますので、よろしくお願いします。

【関連記事】
半島の古代史だ!(漢四郡まで)
日本列島に集まった人々とは?(^_-)-☆


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