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国引き神話は史実だった?(その3)神無月/神在月の由来か?(^_-)-☆

2023-11-23 02:11:41 | 古代史
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八束命が祖父スサノヲに所縁のムナカタ族を集めた神社が分かりましたので紫字で追加しました。昨日赤字で追加した文の下です。よろしければ見てください(;^ω^)


旧暦10月は神無月(かんなづき)といいますが、全国の神様が出雲に集まり、神議(かむはか)りを行うとのことです。ご存じのとおり、出雲だけは神在月(かみありづき)と言います。出雲大社をはじめとして各社で神在祭などの多くのお祭り・行事があるようです。出雲大社では今年(令和五年)11月22日の「神迎祭」から神々をお見送りする11月29日の「神等去出祭(からさでさい)」まで行われます。出雲大社では「神迎祭」の翌日の「神在祭」の後に「龍蛇神講大祭」が斎行されます。出雲地方はこの頃になると強い風が吹き、海は「しけ」となり、風に乗って産卵のためにセグロウミヘビが漂着し、神の使いとして海岸ごとに漂着したウミヘビが各神社に奉納されます。出雲地方では神々の先導役との伝承があり龍蛇様と呼ばれているそうです(*)

初代天御中主に始まる奴国王が龍蛇神ナーガであるので、ウミヘビの姿に変えて奴国大王が出雲の地に来るということは、王年代紀第18代王スサノヲのヤマタノオロチ伝説を思い浮かべると思います。でも、このヤマタノオロチの話は記紀にありますが、出雲国風土記では語られていないのです。スサノヲはすでに107年頃、奴国宮廷楽師師升らの反乱によって殺されています。ですから、スサノヲは出雲でオロチ退治はできません。

では何でそのような伝承があるのかですが、日本建国の史実を隠すための藤原不比等の創作と考えています(注1)。狗奴国が日本を統一してヤマト政権が成立しますが、ヤマトは大国主と台与に加えて、狗奴国軍の倭国到来が原因で殺された卑弥呼の、三柱の祟りを最も恐れました。後の藤原政権でも同様で、特にこの三柱に様々な別名の神名を与えて各地の神社で祀っています。

特に、大国主の国譲りは実際は出雲の地だけではない列島主要部すべてなのですが、大国主の祖父八束命や古事記で天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)とされた父久々遅彦(魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗)に所縁のムナカタ海人族の根拠地だったので大国主久々遅彦の史実を隠すために出雲神話が創作されたのです。日本書紀では建国の英雄ヤマトタケルを創作し、本当の主役であった大国主久々遅彦を隠しましたが、古事記を創作した九世紀の学者多人長は大国主の末裔なので、藤原氏に気付かれないようにいろいろと誤魔化しを入れて、大国主神話を挿入したのだと推理しています。

古事記では大国主の系譜を以下の図のように説明しています。図中、実在人物と分かる神を四角の枠で囲っています。そして、すでに推理した事件が起こった年とその年齢から目安として生まれ年を計算して図に書き入れました。父が30歳の時に跡継ぎが生まれたと仮定してます。あくまでも目安です。



そして、この計算で行くと、八束命の父は五十猛神(イタケル)となりますから、間に置かれた神様はダミーのようです。そして、(その2)で述べたようにイタケルの妃木花知流比売(コノハナチルヒメ)の父大山津見神は大国主の分身です。ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメのペアからニニギノミコトは、古事記の目的から考えて、イタケルがモデルと気づかせるためだと推理しています。コノハナチルヒメを祀る神社も見当たりませんから、妃の名前は架空のものだと思います。しかしイタケルの妃はムナカタ族の祖神アタカタスの一族と考えられますので、カモフラージュのためでしょう。

同様に日河比売の父淤加美神(オカミノカミ)も大国主の分身と考えています。そして、八束命の祖父とされた布波能母遅久奴須奴神(ふはのもぢくぬすぬのかみ)と日河比売を祀る神社も見当たりません。氷川神社の祭神はスサノヲ・イナダヒメと大国主です。また、八束命の両親とされる深淵之水夜礼花神(ふかふちのみずやれはなのかみ)と妃の天之都度閇知泥神(あめのつどへちねのかみ)ですが、父は豊岡市白藤神社の祭神とありますので、大国主とその父にゆかりの土地ですが、八束命を祀る神社は出雲とその周辺ですので、腑に落ちません。創建は683年(白鳳12年)とありますので、実在人物ではないようです。母もよく分かりません。もしも実在人物だったならごめんなさい(;^ω^)

それから、台与と卑弥呼がありますが、二人ともムナカタ海人族ですので図の系譜は誤魔化しだと分かります。ということで、実在の登場人物のイメージができたところで、やはり八束命はイタケルの子と考えるとすっきりします。八束命を祀る出雲市の神社は下の図の長浜神社富神社(とびじんじゃ)です。この地を根拠地としていたのだと思います。Shrine-heritager"長浜神社"および”富神社”によれば、両神社は733年に成立した出雲国風土記に記載された出雲社(いずものやしろ)の論社であり、また927年成立の延喜式神名帳にある出雲神社(いずものかみのやしろ)の論社とあります。これらの神社のどちらかに奴国王スサノヲの後継者八束命が各地のムナカタ海人族の族長らを呼び寄せて、恐らく祖父スサノヲを討った裏切り者の師升らに復讐するための戦略を相談をしたと考えられます(具体的な戦略の詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。(2023.11.29 赤字修正)

出雲国風土記で出雲社は出雲郡の条で出てきます。長浜神社は神門郡にあるので明らかに違います。出雲郡富(とび)村の富神社社伝によると八束水臣津野命が神名火山(かんなびやま)(仏経山)の三条に立ち国引きを思いつかれてその大事を成し遂げられた後 神門水海に近い この豊かな土地に鎮座し出雲社としたとあります」。ですからみんなを集めた神社は現在の出雲大社ではなく、富神社でしょう(「【刮目天の古代史】出雲大社は新しい名称だった!」参照)(2023.11.30 紫字追加)

それでは各地の豪族が、実際問題として出雲にやってこれたのかどうかを検討してみました。気象庁のホームページから日本海の海流の様子がわかるので、図を引用し少し加工しました。



図中に基本的な海流としてサハリンからシベリア南東部沿岸を南向きに流れるリマン海流(寒流)を青線で、東シナ海から対馬と壱岐の間を流れる対馬海流(暖流)を赤線で描きました。対馬と半島南部の間にも流れていますが、この流れとリマン海流が半島の沖でぶつかり大きな渦流が発生します。この図は2023年11月上旬の平均海流ですが、細かく見れば年や季節によって異なります。

しかし、この図で浦項市虎尾岬の沿岸は北方への流れがありますが、東に進路をとって漕ぐと山陰方向への流れがありますので、最初に頑張れば比較的楽に出雲に到着できそうです。対馬市豊玉町からは東側の流れが遅いので容易に対馬海流に乗って出雲にも行けると思います。隠岐の場合は、たまたま今年の11月上旬は出雲との間に強い流れはないようですので楽勝でしょう。しかし、対馬海流が出雲との間に流れている場合は流れを横切る腕力が必要になるはずです。能登半島からは(その2)で述べたとおり、岸に沿って美保関に行けると思います。

しかし、丸木舟を手漕ぎで行くには一日十キロから三十キロと海洋専門家の長野正孝氏が「古代史の謎は「海路」で解ける」(PHP新書2015)で述べています。珠洲市から出雲まで五百キロはありますから、四・五十日はかかりそうです。一・二キロくらいでも車で行くわれわれ現代人に比べると古代の人は偉いですね( ^)o(^ )



ということで、神在月の起源は八束命の国引きだと思いますが、後の時代に縁結びの話になりますので、大国主と妃の台与を祀ることから変わっていったと考えています。神社のしめ縄もヘビの交尾、つまり夫婦の龍蛇神(大国主と台与)を表しているのでしょう。佐太神社の神在祭はお忌祭りだそうですから二柱の鎮魂のようです。


「二匹のヘビが乗っています(*)

【関連記事】
【刮目天の古代史】出雲大社は新しい名称だった!

(*)出雲大社に龍神と蛇神が祀られていた?!「龍と蛇の秘密・謎と由来・意味・歴史」』で検索してください(#^.^#)

(注1)247年、卑弥呼の死後に倭国討伐軍の大将として狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)に派遣された尾張王乎止與命(オトヨノミコト、記紀のカグツチ)が倭国に到着したので、倭国王は半島に逃亡したと推理しています。乎止與命は無傷で倭国を手に入れたので魏使張政に唆(そそのか)されて、狗奴国を裏切り倭国王に立ちました。そこで副将だった大国主久々遅彦が了承せず、千人ほど死ぬ内乱が起こりました。それに勝利した大国主が13歳の台与を卑弥呼の後継者として女王に立てて、結局狗奴国を裏切り、魏を後ろ盾にして対立しました。この史実を日本書紀で隠す目的だったと推理しました。その後、尾張王建稲種命(タケイナダネノミコト、熱田神宮祭神、記紀の景行天皇の九州遠征、創作された建国の英雄ヤマトタケルのモデル)が父の仇で大国主・台与らを討ち、その後列島を統一します(注2)。

ところが、その直後280年に、すでに魏から帝位を禅譲された西晋が、恐らく狗奴国の後ろ盾だった呉を滅ぼし三国志の時代は完全に終わりました。卑弥弓呼大王崇神天皇は倭国女王を討ったために、仕返しで西晋に滅ぼされることを怖れて、二人の間の子オオタタネコ(記紀の応神天皇)を探し出して、両親の鎮魂のために祭祀王(初代天皇)にし、狗奴国の王都纏向遺跡をヤマト(邪馬台国)と呼ぶことにしたと推理しました。

(注2)藤原不比等はこの史実から大国主の国譲り神話を創作しています。前回(その2)で見たように、藤原不比等は藤原氏の氏神として大国主に国譲りさせたタケミカズチ神を春日大社などで祀っていますが、日本統一で活躍し、駿河で戦死した尾張王建稲種命の霊を祀っているのです(詳細は「【検証26】建稲種命の終焉の地は?」参照)。





あ、そうだ・そうだ!冬の日本海は風が強くて、波高4m以上6mの「しけ」や6mから9mの「大しけ」さらに9m以上の「猛烈なしけ」も起こります。これも気象庁の波浪情報で分かりますが、3月くらいから11月くらいまではかなり4m以下の日が多いようです。過去二十年くらいのデータが手に入りますので、統計を取ろうとしましたが、結構大変なので断念しました。どなたかご興味のある方は統計を取っていただくと助かります。よろしくお願いいたします(#^.^#)

夜中の2時を過ぎましたのでここで取り合えず、アップしておきます。スイマセン、いつものとおり、後で修正したり、追加する予定ですので時々またのぞいてみてくださいネ(;^ω^)

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