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行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

メディアを語った芥川龍之介の『侏儒の言葉』①

2016-07-16 22:48:16 | 日記
中学時代に読んで何ら記憶をとどめなかった芥川龍之介『侏儒の言葉』を読み返し、メディ論の箴言が多数ちりばめられているのを見つけて驚いた。同書は芥川が1923年1月の『文藝春秋』創刊号から1925年11月号まで、30回にわたって寄稿したものをまとめた。

初回のタイトルは「星」。冒頭で、「太陽の下に新しきことなし」という旧約聖書「伝道の書(コヘレトの言葉)」が引用され、「太陽も一点も燐火に過ぎない」と宇宙の広大さを語る。仏教の無常観にも通ずる運命への諦観が感じられる。「新しきことない」とはニュースがない世界である。新聞も翌日になれば廃品となる。宇宙から眺めれば地球上の小さな島で起きる争いにニュース・バリューはない。だが厭世主義で終わるのではない。芥川は続ける。

「天上に散在する無数の星にも多少の同情を禁じ得ない。いや、明滅する星の光は我我と同じ感情を表わしているようにも思われるのである」

地球上の人間と同じように、銀河の星たちも必死に光を発している。そこに「同情」を見出すのは、無常を眺める冷めた目であると同時に、人間の営みに対する愛着である。芥川は正岡子規の句、

真砂(まさご)なす数なき星のその中に吾われに向ひて光る星あり

を引用し、「何ものよりも先に高々と真理をうたい上げた」評する。それは、宇宙との冥合に歓喜するからではなく、孤独で卑小な人間の姿に真実を認めるからにほかならない。「星も我々のように流転を閲(けみ)するということは--とにかく退屈でないことはあるまい」。結びの言葉は、ニュースを相対化しながら、社会の一員として共有する視点をまず読者に示したのである。同連載が大衆化した新聞ではなく、クオリティを重んじた当時の総合雑誌創刊号に掲載されたことに意味がある。

続く「鼻」を読めばさらに明らかだ。ここでは、フランスの哲学者ブレーズ・パスカルの警句「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら歴史が変わっていた」が語られる(同寄稿では「鼻が曲がっていた」と誤記されている)。アントニウスはクレオパトラの魅力に取りつかれて戦に負け、自滅する。芥川はこれを、恋するものが実相から目をそらす人間の「自己欺瞞」だとする。

もしクレオパトラの鼻が低ければ、人は努めてそれを見まいとし、見ずにはいられない場合もその短所を補うべき何か他の長所、例えば眼や唇、「美しい心」、さらにはかつて名士に愛されたという風評さえ長所の一つとなる、と芥川は言う。あからじめできあった先入観によって、それに反する事実を受け入れなくなる大衆、世論の愚かさを暗示しているのだ。歯科医の看板が例に挙げられる。

「たとえば歯科医の看板にしても、それが我々の眼にはいるのは看板の存在そのものよりも、看板のあることを欲する心、--ひひいては我々の歯痛ではないか? もちろん我々の歯痛などは世界の歴史には没交渉であろう。しかしこう云う自己欺瞞は民心を知りたがる政治家にも、敵状を知りたがる軍人にも、あるいはまた財況を知りたがる実業家にも同じようにきっと起るのである」

芥川は、こうした自己欺瞞を修正する理性の存在を認めるが、「あらゆる熱情は理性の存在を忘れやすい」と悲観的にならざるを得ない。

私は「自己欺瞞」の心理構造についてさらに、自分の欲求に突き動かされ、支配されて目が曇る現象は、敵対人物の欠点を見つけたときにも左右する、という真理を付け足すことにする。嫌いとなったら、相手にどんな理や優れた点があっても受け入れず、完膚なきまで叩き潰さなければ気が済まない。寛容の入り込む余地は全くない。現代にはとかくこうした事象の方が目立つ。

芥川は軍人が威張りくさる世相に嫌気が差し、「軍人は小児に近いものである。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?」と嘲笑したが、見えない圧力のいやらしいさには、たとえその存在を認識してはいても、メディアが有限だった時代の制約から、強い実感は伴わなかったに違いない。

(続く)

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