昨年末、一審で懲役20年の判決が言い渡された中国人留学生の殺害事件「江歌案(江歌事件)」は、加害者、被害者とも大学院生で、かつ被害者の母親が訪日し、死刑を求める署名を行ったことで注目を集めた。その注目度は中国が日本をはるかにしのいだ。中国では新聞やテレビの情報発信力は急速に衰え、もっぱらネットで情報や議論が拡散していく。交通整理が十分に行われないまま、ヒートアップしていく。そんなネット世論の状況を、クラスの女子学生が研究課題として取り上げ、発表した。
事件は2016年11月3日に起きた。東京都中野区のアパートで、大学院生の江歌が、同居していた同郷山東省出身の友人、劉鑫の交際相手だった大学院生の陳世峰に刃物で刺殺された。友人の男女関係のトラブルに巻き込まれた形だった。裁判では計画性と明確な殺意が大きな焦点となった。だがネットでは、巻き添えを食ったことへの同情と、シングルマザーである江歌の母親が各種のメディアを通じ、劉鑫の責任や陳世峰への極刑を求める発言を繰り返したことで、事件の真相よりも、道徳論で塗りつぶされた。
授業の自由研究は、「各媒体報道的傾向性対読者的影響--以江歌案為例(メディア報道の傾向性が読者に与える影響--江歌事件を例として)」と題して、法律と道徳、理性と感情の対立軸によって世論の動向とメディアの影響を分析したものだった。
事件をめぐる議論は発生から1年後の2017年11月11日、江歌の母親と劉鑫が対面した映像が流れたことで再び沸騰した。それまで劉鑫が母親を避け、チャット上で母親が彼女を罵り、彼女もそれに反論するという対立、衝突状態だった。映像には「和解できるか?許せるか?」のタイトルがつけられ、読者の目を引いた。忘れかけていた事件の記憶がよみがえり、ニュースメディアは競うように新奇な話題に飛びついた。対面では、劉鑫が、江歌の持っていたアクセサリーや写真を母親に返し、ひたすら謝罪した。だが、母親は受け入れず、それどころか逆に感情を高ぶらせ、最後は「私から離れてくれ」と繰り返した。和解も許しも実現しないまま、物別れに終わった。
ネット世論は母親の側に傾き、劉鑫への道徳的な批判を蒸し返した。女子学生の自由研究は、500万人のフォロワーを持つウェー・チャットの人気アカウントが、劉鑫の言葉を曲解し、意図的に彼女の傲慢なイメージを作り出し、感情的な世論を刺激した点を、実例を挙げて指摘した。そのアカウントが導火線となって、不満のはけ口を求めるように激しい個人攻撃の書き込みがあふれた。事件への関心は、法律で裁かれるべき本来の殺人事件から離れ、別に設けられた道徳裁きの土俵に移された。加害者に向けられるべき非難は、友人を犠牲にした女性の身の上に容赦なく注がれた。
自由研究は同時に、北京紙『新京報』系のアカウントが、事実を重んじ、道徳と法律を区別するよう求める理性的な立場を表明し、一部の賛同を得たことも指摘した。「感情が理性を圧倒することによって、ネット上でデマや偏った見解が横行し、ネット暴力を生む大きな原因になっている」と、同アカウントは呼び掛けた。被害者の母親だけが絶対的な正義の一方に立ち、何らの反論も許さない道徳的状況が生まれていることに警鐘を鳴らしたものだ。ネットではこのほか、「陳世峰のことは法律に、劉鑫のことは時間にゆだねるべきだ」とする論評もあった。
学生は発表のまとめとして、報道においては、事実と観点を明確に分けること、煽情的な表現は慎むこと、受け手も冷静な視点でニュースを見る修養が必要なことを述べた。それは模範解答なのだが、では具体的にどうすればよいのか。簡単に答えの出る問題ではない。感情に流される群衆と、理性的な人々が別々に存在しているわけではない。一人の人間の中に、この二つの顔が潜んでいる。教育からメディア、司法に至るまで、社会全体が取り組まなければならない。新聞学院の学生としてなにができるか。あきらめずに関心を持ち続け、多角的な視点をもって事象を追いかけるしかない。
判決は、残忍で執拗な犯行の手口から、「強固な殺意があった」と認め、「被害者や元交際相手に責任を転嫁するような不合理な弁解をし、真摯な反省の情は認められない」と求刑通りの懲役20年を言い渡した。クラスで私が「量刑としては重い方だ」というと、みなが「えーっ」と驚いた。中国では間違いなく死刑だ。この点も、母親に同情が集まる要因の一つになっている。死刑を求める署名が数百万人分も集まったのもそのためだ。
そこで私は考える。
加害者、被害者、関係者すべてが中国人で、場所が日本であっただけの事件を、日本の法律によって、日本人の法観念によって裁くことに限界があるのではないか。その限界は、両国における法制度、法意識の違いから生まれている。制度の修正が困難だとすれば、せめてお互いが違いを認識し、尊重するしかない。それはまた自らを省みることにほかならない。もし、同じ事件が中国で起きていたら、加害者の陳世峰は圧倒的な世論の力を受け、短期間のうちに死刑に処され、劉鑫は完膚なきまで打ちのめされていただろう。国の法制度の違いが、世論に冷静な反省を求める機会を生んだのだとしたら、日本で厳格な手続きを進めたことは限界でなく、大きな意義を持ったことになる。
事件は2016年11月3日に起きた。東京都中野区のアパートで、大学院生の江歌が、同居していた同郷山東省出身の友人、劉鑫の交際相手だった大学院生の陳世峰に刃物で刺殺された。友人の男女関係のトラブルに巻き込まれた形だった。裁判では計画性と明確な殺意が大きな焦点となった。だがネットでは、巻き添えを食ったことへの同情と、シングルマザーである江歌の母親が各種のメディアを通じ、劉鑫の責任や陳世峰への極刑を求める発言を繰り返したことで、事件の真相よりも、道徳論で塗りつぶされた。
授業の自由研究は、「各媒体報道的傾向性対読者的影響--以江歌案為例(メディア報道の傾向性が読者に与える影響--江歌事件を例として)」と題して、法律と道徳、理性と感情の対立軸によって世論の動向とメディアの影響を分析したものだった。
事件をめぐる議論は発生から1年後の2017年11月11日、江歌の母親と劉鑫が対面した映像が流れたことで再び沸騰した。それまで劉鑫が母親を避け、チャット上で母親が彼女を罵り、彼女もそれに反論するという対立、衝突状態だった。映像には「和解できるか?許せるか?」のタイトルがつけられ、読者の目を引いた。忘れかけていた事件の記憶がよみがえり、ニュースメディアは競うように新奇な話題に飛びついた。対面では、劉鑫が、江歌の持っていたアクセサリーや写真を母親に返し、ひたすら謝罪した。だが、母親は受け入れず、それどころか逆に感情を高ぶらせ、最後は「私から離れてくれ」と繰り返した。和解も許しも実現しないまま、物別れに終わった。
ネット世論は母親の側に傾き、劉鑫への道徳的な批判を蒸し返した。女子学生の自由研究は、500万人のフォロワーを持つウェー・チャットの人気アカウントが、劉鑫の言葉を曲解し、意図的に彼女の傲慢なイメージを作り出し、感情的な世論を刺激した点を、実例を挙げて指摘した。そのアカウントが導火線となって、不満のはけ口を求めるように激しい個人攻撃の書き込みがあふれた。事件への関心は、法律で裁かれるべき本来の殺人事件から離れ、別に設けられた道徳裁きの土俵に移された。加害者に向けられるべき非難は、友人を犠牲にした女性の身の上に容赦なく注がれた。
自由研究は同時に、北京紙『新京報』系のアカウントが、事実を重んじ、道徳と法律を区別するよう求める理性的な立場を表明し、一部の賛同を得たことも指摘した。「感情が理性を圧倒することによって、ネット上でデマや偏った見解が横行し、ネット暴力を生む大きな原因になっている」と、同アカウントは呼び掛けた。被害者の母親だけが絶対的な正義の一方に立ち、何らの反論も許さない道徳的状況が生まれていることに警鐘を鳴らしたものだ。ネットではこのほか、「陳世峰のことは法律に、劉鑫のことは時間にゆだねるべきだ」とする論評もあった。
学生は発表のまとめとして、報道においては、事実と観点を明確に分けること、煽情的な表現は慎むこと、受け手も冷静な視点でニュースを見る修養が必要なことを述べた。それは模範解答なのだが、では具体的にどうすればよいのか。簡単に答えの出る問題ではない。感情に流される群衆と、理性的な人々が別々に存在しているわけではない。一人の人間の中に、この二つの顔が潜んでいる。教育からメディア、司法に至るまで、社会全体が取り組まなければならない。新聞学院の学生としてなにができるか。あきらめずに関心を持ち続け、多角的な視点をもって事象を追いかけるしかない。
判決は、残忍で執拗な犯行の手口から、「強固な殺意があった」と認め、「被害者や元交際相手に責任を転嫁するような不合理な弁解をし、真摯な反省の情は認められない」と求刑通りの懲役20年を言い渡した。クラスで私が「量刑としては重い方だ」というと、みなが「えーっ」と驚いた。中国では間違いなく死刑だ。この点も、母親に同情が集まる要因の一つになっている。死刑を求める署名が数百万人分も集まったのもそのためだ。
そこで私は考える。
加害者、被害者、関係者すべてが中国人で、場所が日本であっただけの事件を、日本の法律によって、日本人の法観念によって裁くことに限界があるのではないか。その限界は、両国における法制度、法意識の違いから生まれている。制度の修正が困難だとすれば、せめてお互いが違いを認識し、尊重するしかない。それはまた自らを省みることにほかならない。もし、同じ事件が中国で起きていたら、加害者の陳世峰は圧倒的な世論の力を受け、短期間のうちに死刑に処され、劉鑫は完膚なきまで打ちのめされていただろう。国の法制度の違いが、世論に冷静な反省を求める機会を生んだのだとしたら、日本で厳格な手続きを進めたことは限界でなく、大きな意義を持ったことになる。
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