上海魯迅記念館の瞿斌(チュー・ビン)さんが聞いた鳩「三義」の話がある。日中関係者の間では有名なエピソードである。8月15日にこそ思い起こしたいと、以下に紹介させていただく。
同記念館には、マリモ研究で知られる生物学者の西村真琴(1883-1956)が鳩を描いた『三義鳩図』という絵がある。魯迅の所蔵品であり、絵の下には魯迅が揮毫した『題三義塔』と題する詩が書かれている。上海事変のあった1932年、『大阪毎日新聞』慰問団団長として上海に赴いた西村が、日本軍の爆弾で廃墟になった上海閘北区の三義里(さんぎり)で、生き残っていた一羽の鳩を救い出した。西村はその鳩を三義と名付け日本に連れ帰った。日本の鳩との間に二代目を育成し、平和の使者として中国に戻したいと思ったのだ。
当時、西村はしばしば時局講演に呼ばれたが、その度に三義を伴い、中国の鳩と日本の鳩との「親善」を聴衆に説いた。ところが1933年3月16日、その二羽の鳩はイタチに襲われ、死んでしまった。西村は悲しみ、三義のために自宅屋敷に野面石の塚を立て、三義塚と命名した。その後、その鳩の姿を絵に描き、詩とその鳩の由来を添え、上海にいた魯迅に送った。その詩は以下の通りである。
西東 国こそ違(たが)へ 小鳩らは 親善あへり 一つ巣箱に
上海の鳩と日本の鳩が一つの箱で仲良く暮らしていた姿に、日中両国の友好を託したのである。西村は演説の中で、「もとより友人である両国の人々が、この鳩のように国境を越えて親しみあうことを願って、小鳩が生まれたら親善の使者として上海に送りたい」と話していたという。
魯迅は1933年4月29日、西村からの手紙と鳩の絵を受け取った、と日記に記している。そして6月21日、魯迅は『題三義塔』という詩を書いた。
奔霆飞熛歼人子,败井残垣剩饿鸠
(戦火が人の命を奪い、廃墟となった街に飢えた鳩が取り残されていた)
偶值大心离火宅,终遗高塔念瀛洲
(運よく寛大な人に出会って災難から逃れ、最後は日本に記念の塔が建てられた)
精禽梦觉仍衔石,斗士诚坚共抗流
(東シナ海を平定したという伝説の鳩が再来したように、日中の有志は時流に抗して戦った)
度尽劫波兄弟在,相逢一笑泯恩仇
(幾多の災難を乗り越えていけば兄弟がいて、会って笑えば恩讐は消える)
詩の前半では、上海事変によって一羽の鳩は戦火に巻き込まれ、その鳩を通じて戦争の悲惨を訴えた。だが一方、魯迅は日本に留学し多くの日本人と交わった経験から、中日両国はきっと友好的に付き合っていくことができると、深く信じていた。それが最後の、「度尽劫波兄弟在 相逢一笑泯恩仇」(劫波を渡り尽くせば兄弟あり、相逢おうて一笑すれば恩讐滅ぶ)に込められている。
魯迅が亡くなった翌年の1937年、満州事変によって日本の中国に対する侵略戦争が始まった。戦争孤児が増えてきたことを知った西村は、戦災孤児を日本に連れてきて養育する事業に着手し、中国の男女孤児67人を養育した。1986年、三義塚は西村が館長を務めていた豊中市中央公民館の庭に移された。後に豊中市日中友好協会の尽力で、三義塚に並んで新たに魯迅の『題三義塔』を刻んだ石碑が建てられた。
平和の象徴である鳩は、身を挺して平和と友好を実践したと言える。後世に語り継ぐべき話である。安倍首相の戦後70年談話にも、こうした具体的なエピソードがあれば、アピールする力は強まったと思うがどうだろうか。
同記念館には、マリモ研究で知られる生物学者の西村真琴(1883-1956)が鳩を描いた『三義鳩図』という絵がある。魯迅の所蔵品であり、絵の下には魯迅が揮毫した『題三義塔』と題する詩が書かれている。上海事変のあった1932年、『大阪毎日新聞』慰問団団長として上海に赴いた西村が、日本軍の爆弾で廃墟になった上海閘北区の三義里(さんぎり)で、生き残っていた一羽の鳩を救い出した。西村はその鳩を三義と名付け日本に連れ帰った。日本の鳩との間に二代目を育成し、平和の使者として中国に戻したいと思ったのだ。
当時、西村はしばしば時局講演に呼ばれたが、その度に三義を伴い、中国の鳩と日本の鳩との「親善」を聴衆に説いた。ところが1933年3月16日、その二羽の鳩はイタチに襲われ、死んでしまった。西村は悲しみ、三義のために自宅屋敷に野面石の塚を立て、三義塚と命名した。その後、その鳩の姿を絵に描き、詩とその鳩の由来を添え、上海にいた魯迅に送った。その詩は以下の通りである。
西東 国こそ違(たが)へ 小鳩らは 親善あへり 一つ巣箱に
上海の鳩と日本の鳩が一つの箱で仲良く暮らしていた姿に、日中両国の友好を託したのである。西村は演説の中で、「もとより友人である両国の人々が、この鳩のように国境を越えて親しみあうことを願って、小鳩が生まれたら親善の使者として上海に送りたい」と話していたという。
魯迅は1933年4月29日、西村からの手紙と鳩の絵を受け取った、と日記に記している。そして6月21日、魯迅は『題三義塔』という詩を書いた。
奔霆飞熛歼人子,败井残垣剩饿鸠
(戦火が人の命を奪い、廃墟となった街に飢えた鳩が取り残されていた)
偶值大心离火宅,终遗高塔念瀛洲
(運よく寛大な人に出会って災難から逃れ、最後は日本に記念の塔が建てられた)
精禽梦觉仍衔石,斗士诚坚共抗流
(東シナ海を平定したという伝説の鳩が再来したように、日中の有志は時流に抗して戦った)
度尽劫波兄弟在,相逢一笑泯恩仇
(幾多の災難を乗り越えていけば兄弟がいて、会って笑えば恩讐は消える)
詩の前半では、上海事変によって一羽の鳩は戦火に巻き込まれ、その鳩を通じて戦争の悲惨を訴えた。だが一方、魯迅は日本に留学し多くの日本人と交わった経験から、中日両国はきっと友好的に付き合っていくことができると、深く信じていた。それが最後の、「度尽劫波兄弟在 相逢一笑泯恩仇」(劫波を渡り尽くせば兄弟あり、相逢おうて一笑すれば恩讐滅ぶ)に込められている。
魯迅が亡くなった翌年の1937年、満州事変によって日本の中国に対する侵略戦争が始まった。戦争孤児が増えてきたことを知った西村は、戦災孤児を日本に連れてきて養育する事業に着手し、中国の男女孤児67人を養育した。1986年、三義塚は西村が館長を務めていた豊中市中央公民館の庭に移された。後に豊中市日中友好協会の尽力で、三義塚に並んで新たに魯迅の『題三義塔』を刻んだ石碑が建てられた。
平和の象徴である鳩は、身を挺して平和と友好を実践したと言える。後世に語り継ぐべき話である。安倍首相の戦後70年談話にも、こうした具体的なエピソードがあれば、アピールする力は強まったと思うがどうだろうか。
なお西村真琴は 俳優・西村晃の父親、私の妻の祖母と親しかったそうです。
引用された部分以外を知りたくて検索をかけたらここにたどり着きました。
中国は会談の成功を祝いつつ、日本政府ならびに日本人に対してもメッセージを発した、と理解しました。
ありがとうございました。