11月20日は胡耀邦生誕100周年である。政治闘争によって失脚した晩年の歴史については、公式の刊行物がいまだに発行されていないが、『胡耀邦伝 第一巻(1915-1976)』だけでも、彼がいかに多くの人々からなお慕われているかがわかる。簡約すれば、国の将来を案じ、若者の理想を愛し、異なる意見を重んじ、人の良心を信じる人物だった。大局を見定め、細事に拘泥せず、自分で責任を取った。読書を愛し、知識人と幅広く交流したが、実際の経験も重んじた。容赦なく政敵を打倒する腹黒さは持ち合わせなかったが、打倒された人々を救う決意は岩のように固かった。こうした性格が結局、失脚につながっていく。歴代指導者の中で最も小柄だったが、人物の偉大さは背の高さに比例しない。
胡耀邦は湖南省瀏陽の客家に生まれた。中原から追われ流れて住み着いたよそ者の客家は団結が固く、一般に勤勉であると言われる。胡一族は学問を重視し、公田を設けて子女の学費にあてた。胡耀邦は一族の支援を受け、勉学で頭角を現す。読書好きで、文化や科学を重視する姿勢はこうした生い立ちに土台を持つ。ちなみにアウトサイダーである客家が実は、中国歴史上の革命に大きな役割を担っていたとする指摘は、矢吹晋・藤野彰『客家の中国革命』(東方書店)に詳しく書かれている。
生まれ育ちが人のその後の人生に大きな影響を及ぼすのは言うまでもないが、どのような死に方をしたでその一生を推し量ることもできる。
胡耀邦が総書記の座から引きずり降ろされ、平の政治局員としてなすこともなく無為に晩年の2年を過ごした後、埋葬されたのは江西省九江市の共青城だった。青少年を指導する共産主義青年団のリーダーだった1955年、新国家建設の理想に燃える若者たちの動きに呼応し、上海の青年団98人が江西省九江市の鄱陽湖畔を開墾した。胡耀邦は開墾当時と、同地が大きな発展を遂げた総書記時代の計2回、当地を訪問し、自ら「共青城」と名付けた思い入れのある場所である。革命、戦争、政治闘争に明け暮れた生涯で、無垢な若者たちに囲まれ、おそらく最も自分がこだわりなく、自由に過ごせた時代だったに違いない。家族は、彼の人生の華をその時代に見たのだ。
胡耀邦は若者たちの「独立」を重んじた。もちろん欧米流の、国家や社会、組織からも自由である独立とは違う。共産党が絶対的指導をし、国家の利益を最優先する体制のもとで、彼は「独立した活動と独立性の主張、先陣を切る作用と先鋒主義を決してごっちゃにしてはならない」と訴えた。とかく画一的な解釈を受け、容易に反党のレッテルを張られがちな「独立」を唱えることは至難だったが、彼はあえてそれを口に出した。
毛沢東がまだ自由な文芸活動を奨励する百家争鳴を唱えていた時、胡耀邦は「我々の国家は政治的には独立したが、経済的、科学的にはまだ独立していない。だから高い水準を持った知識階級を育てる必要があるのだ」と述べた。政治闘争に巻き込まれ、多くの先進的な知識人が打倒された歴史は生々しく残っていた。ではそのためにどうするか。彼の言葉は正鵠を射ていた。
「今の学生は精神が緊張し、堅苦しく、本心を話したがらず、大胆に議論し、大胆に疑問を投げかけ、大胆に友人と交流するということをしない。これは由々しきことだ。科学を独立させ、科学を”解放”するためには、精神を解放しなければダメだ。学校は立法機関でも、政策決定の場所でもない。だから議論が誤っても気にすることも、恐れることもない」
彼は知識を持った者の責任として「道理を語る」ことを挙げた。青年に対する宣伝教育については、「中身もなく社会主義がいいというだけではダメだ」と大胆に言い切り、「重要なのは真実を話し、ウソを言わないこと。我々の国家は経済や文化ではまだ遅れているので、遅れた点も指摘しなければならない。我々はいかに偉大か、を言うだけでは一面的だ」と諭した。日刊紙『中国青年報』や雑誌『中国青年』を通じて若者の積極性や創造性を鼓舞し、「独立思考」が流行語にもなった。
その後、毛沢東が一転して反右派闘争で知識人を弾圧した歴史は、胡耀邦の言葉を裏切るが、彼は、だれのせいにすることもなく、「多くの誤りは、私がみな本当に賛成したものだ。ある重大な誤りは私が考え、私が話し、私が行ったことによってさらにひどくなり、修正が遅れた」と誤りを真摯に認めた。
困難な国の困難な時代にあって、思考の独立を唱えたことこそ、胡耀邦の偉大さではないかと思う。それは、制度的には幅広い自由が保障されながら、見えない空気によって本当のことを語らず、偽りの言葉が大手を振ってまかり通っている日本においても、十分、学ぶに値すると考える。
中国人は「落葉帰根」と言って、人は亡くなれば故郷に帰るものだと信じる伝統的な観念がある。胡耀邦は生前、死んでも多くの指導者が祭られる八宝山には行きたくないと言い残していた。家族が相談した結果、胡耀邦が15歳まで暮らした湖南省瀏陽の生家に戻さず、若者たちが荒れ地に理想の町を築こうとした場所を永遠の住み家としたのには、深い思いがあるに違いない。生誕100周年の折、いかに人生の幕引きを図ったということにも思いをはせる意義がある。
胡耀邦は湖南省瀏陽の客家に生まれた。中原から追われ流れて住み着いたよそ者の客家は団結が固く、一般に勤勉であると言われる。胡一族は学問を重視し、公田を設けて子女の学費にあてた。胡耀邦は一族の支援を受け、勉学で頭角を現す。読書好きで、文化や科学を重視する姿勢はこうした生い立ちに土台を持つ。ちなみにアウトサイダーである客家が実は、中国歴史上の革命に大きな役割を担っていたとする指摘は、矢吹晋・藤野彰『客家の中国革命』(東方書店)に詳しく書かれている。
生まれ育ちが人のその後の人生に大きな影響を及ぼすのは言うまでもないが、どのような死に方をしたでその一生を推し量ることもできる。
胡耀邦が総書記の座から引きずり降ろされ、平の政治局員としてなすこともなく無為に晩年の2年を過ごした後、埋葬されたのは江西省九江市の共青城だった。青少年を指導する共産主義青年団のリーダーだった1955年、新国家建設の理想に燃える若者たちの動きに呼応し、上海の青年団98人が江西省九江市の鄱陽湖畔を開墾した。胡耀邦は開墾当時と、同地が大きな発展を遂げた総書記時代の計2回、当地を訪問し、自ら「共青城」と名付けた思い入れのある場所である。革命、戦争、政治闘争に明け暮れた生涯で、無垢な若者たちに囲まれ、おそらく最も自分がこだわりなく、自由に過ごせた時代だったに違いない。家族は、彼の人生の華をその時代に見たのだ。
胡耀邦は若者たちの「独立」を重んじた。もちろん欧米流の、国家や社会、組織からも自由である独立とは違う。共産党が絶対的指導をし、国家の利益を最優先する体制のもとで、彼は「独立した活動と独立性の主張、先陣を切る作用と先鋒主義を決してごっちゃにしてはならない」と訴えた。とかく画一的な解釈を受け、容易に反党のレッテルを張られがちな「独立」を唱えることは至難だったが、彼はあえてそれを口に出した。
毛沢東がまだ自由な文芸活動を奨励する百家争鳴を唱えていた時、胡耀邦は「我々の国家は政治的には独立したが、経済的、科学的にはまだ独立していない。だから高い水準を持った知識階級を育てる必要があるのだ」と述べた。政治闘争に巻き込まれ、多くの先進的な知識人が打倒された歴史は生々しく残っていた。ではそのためにどうするか。彼の言葉は正鵠を射ていた。
「今の学生は精神が緊張し、堅苦しく、本心を話したがらず、大胆に議論し、大胆に疑問を投げかけ、大胆に友人と交流するということをしない。これは由々しきことだ。科学を独立させ、科学を”解放”するためには、精神を解放しなければダメだ。学校は立法機関でも、政策決定の場所でもない。だから議論が誤っても気にすることも、恐れることもない」
彼は知識を持った者の責任として「道理を語る」ことを挙げた。青年に対する宣伝教育については、「中身もなく社会主義がいいというだけではダメだ」と大胆に言い切り、「重要なのは真実を話し、ウソを言わないこと。我々の国家は経済や文化ではまだ遅れているので、遅れた点も指摘しなければならない。我々はいかに偉大か、を言うだけでは一面的だ」と諭した。日刊紙『中国青年報』や雑誌『中国青年』を通じて若者の積極性や創造性を鼓舞し、「独立思考」が流行語にもなった。
その後、毛沢東が一転して反右派闘争で知識人を弾圧した歴史は、胡耀邦の言葉を裏切るが、彼は、だれのせいにすることもなく、「多くの誤りは、私がみな本当に賛成したものだ。ある重大な誤りは私が考え、私が話し、私が行ったことによってさらにひどくなり、修正が遅れた」と誤りを真摯に認めた。
困難な国の困難な時代にあって、思考の独立を唱えたことこそ、胡耀邦の偉大さではないかと思う。それは、制度的には幅広い自由が保障されながら、見えない空気によって本当のことを語らず、偽りの言葉が大手を振ってまかり通っている日本においても、十分、学ぶに値すると考える。
中国人は「落葉帰根」と言って、人は亡くなれば故郷に帰るものだと信じる伝統的な観念がある。胡耀邦は生前、死んでも多くの指導者が祭られる八宝山には行きたくないと言い残していた。家族が相談した結果、胡耀邦が15歳まで暮らした湖南省瀏陽の生家に戻さず、若者たちが荒れ地に理想の町を築こうとした場所を永遠の住み家としたのには、深い思いがあるに違いない。生誕100周年の折、いかに人生の幕引きを図ったということにも思いをはせる意義がある。
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