言葉狩り問題でしばしば引用されるのが、「片手落ち」という表現だ。多くの人は「片手」が落ちているから障害者への配慮をすべきだという。もしそうであれば考慮に値する意見だが、本来は「片=中途半端」と「手落ち=不手際」が結びついたものだ。「手落ち」自体がダメとなると、これは体に関するあらゆる言葉を見直さなくてはならず、まともな日常会話が成立しなくなる可能性がある。
受け取る側の気持ちは最大限に尊重すべきだが、一定の線引きをしないと、言葉が担ってきた文化そのものを消し去ってしまう。失われたものは、もう戻らない。複製さえも不可能だ。
だが事なかれ主義のメディアは、面倒を避けるため、「わざわざ災いを招くようなことはやめよう」という発想になる。私はいやというほどこうした例を見てきた。おそらくメディだけの問題ではなく、社会全体の問題だと思うが、メディアの責任はことのほか重い。小さなリスクの回避が、言論の自由、文化の担い手という大きな責任の放棄につながっていることに気づいていないか、気づいていてももはやそれを気に掛ける意欲と責任さえ失っている。
だから私は、メディア人が、特にしかるべき立場の人間が、声高に言論の自由や活字文化の保護などと叫ぶ言葉を軽々には信じない。たいていは利益のため、自己保身のため言っているに過ぎない。ふだんの行動をみればよくわかる。問題はその言葉通り、価値あるものを守るため、ふだんから戦っているかどうかということだ。
記者仲間と話していても、「それはセクハラですよ」「パワハラになりますよ」と鬼の首でも取ったように言う人がいる。そんなことを繰り返していたら、人の間で交わされる言葉はどんどん空疎で中身のない、心の通わないものになる。上司が部下をしかってはならない、女性の部下を食事に誘ってはいけない、こうしたルールが禁句集となり、一律に明文化されたマニュアル規定として出来上がっていく。できるだけ関わり合いになることを避けること、相手の感情に触れないことが、賢い交際術だということになる。
セクハラ、パワハラという言葉だけが独り歩きし、マニュアルだけが分厚い冊子になってふくらみ、生身の人間関係に対する洞察、想像力が摩耗していく。セクハラ、パワハラといっても、実際はこれまでにもあった人間関係の摩擦、矛盾に過ぎないことがしばしばある。解決方法はマニュアルを作ることでなく、一つ一つの事象に当事者が向き合い、答えを探していくこと以外にない。
上司は部下をしかり、励ますのが仕事だ。感情がなければしかることもない。しかることで感情が深まる。中国語には「打是亲骂是爱」(たたくのは感情があるからだ、怒るのは愛があるからだ)という言葉がある。こちらの方が人間味がある。しかることで愛情が伝わる。ただしかるのにも節度が必要だ。それもお互いが実践の中から学んでいくしかない。しかり方のわからない上司は、陰湿になり、時に暴走する危険がある。
人間のコミュニケーション能力はぶつかり合い、摩擦を生じながら向上していくものだ。これではますますコミュニケーション能力が弱まるばかりだ。その結果どういうことが起きるか。自室に閉じこもり、匿名によるインターネットの仮想世界で、たまった感情を一気に吐き出すことになる。そこでもう一人の人格が生まれる。果たしてどっちが健全か。リスクを回避し、私的な責任は逃れたつもりではいても、時代に対する責任は果たしていない。
境界のないインターネット空間が人間のバランス感覚を鈍らせ、国の外に一歩出たら、まったく違ったルールがあることも忘れさせてしまう。そこには主張しあい、ぶつかり合い、いたわりあい、慰めあうコミュニケーションの世界がある。時間の意識も失われるから、歴史を重んじ、そこから学ぶという思考も育たない。過去があるから今があり、未来を展望できる。外部の環境に自分が生かされ、世界があるから自分がいる。そうした当たり前の感覚が喪失し、今の自分だけの世界に閉じこもろうとする。これでは未来も生まれない。(続)
受け取る側の気持ちは最大限に尊重すべきだが、一定の線引きをしないと、言葉が担ってきた文化そのものを消し去ってしまう。失われたものは、もう戻らない。複製さえも不可能だ。
だが事なかれ主義のメディアは、面倒を避けるため、「わざわざ災いを招くようなことはやめよう」という発想になる。私はいやというほどこうした例を見てきた。おそらくメディだけの問題ではなく、社会全体の問題だと思うが、メディアの責任はことのほか重い。小さなリスクの回避が、言論の自由、文化の担い手という大きな責任の放棄につながっていることに気づいていないか、気づいていてももはやそれを気に掛ける意欲と責任さえ失っている。
だから私は、メディア人が、特にしかるべき立場の人間が、声高に言論の自由や活字文化の保護などと叫ぶ言葉を軽々には信じない。たいていは利益のため、自己保身のため言っているに過ぎない。ふだんの行動をみればよくわかる。問題はその言葉通り、価値あるものを守るため、ふだんから戦っているかどうかということだ。
記者仲間と話していても、「それはセクハラですよ」「パワハラになりますよ」と鬼の首でも取ったように言う人がいる。そんなことを繰り返していたら、人の間で交わされる言葉はどんどん空疎で中身のない、心の通わないものになる。上司が部下をしかってはならない、女性の部下を食事に誘ってはいけない、こうしたルールが禁句集となり、一律に明文化されたマニュアル規定として出来上がっていく。できるだけ関わり合いになることを避けること、相手の感情に触れないことが、賢い交際術だということになる。
セクハラ、パワハラという言葉だけが独り歩きし、マニュアルだけが分厚い冊子になってふくらみ、生身の人間関係に対する洞察、想像力が摩耗していく。セクハラ、パワハラといっても、実際はこれまでにもあった人間関係の摩擦、矛盾に過ぎないことがしばしばある。解決方法はマニュアルを作ることでなく、一つ一つの事象に当事者が向き合い、答えを探していくこと以外にない。
上司は部下をしかり、励ますのが仕事だ。感情がなければしかることもない。しかることで感情が深まる。中国語には「打是亲骂是爱」(たたくのは感情があるからだ、怒るのは愛があるからだ)という言葉がある。こちらの方が人間味がある。しかることで愛情が伝わる。ただしかるのにも節度が必要だ。それもお互いが実践の中から学んでいくしかない。しかり方のわからない上司は、陰湿になり、時に暴走する危険がある。
人間のコミュニケーション能力はぶつかり合い、摩擦を生じながら向上していくものだ。これではますますコミュニケーション能力が弱まるばかりだ。その結果どういうことが起きるか。自室に閉じこもり、匿名によるインターネットの仮想世界で、たまった感情を一気に吐き出すことになる。そこでもう一人の人格が生まれる。果たしてどっちが健全か。リスクを回避し、私的な責任は逃れたつもりではいても、時代に対する責任は果たしていない。
境界のないインターネット空間が人間のバランス感覚を鈍らせ、国の外に一歩出たら、まったく違ったルールがあることも忘れさせてしまう。そこには主張しあい、ぶつかり合い、いたわりあい、慰めあうコミュニケーションの世界がある。時間の意識も失われるから、歴史を重んじ、そこから学ぶという思考も育たない。過去があるから今があり、未来を展望できる。外部の環境に自分が生かされ、世界があるから自分がいる。そうした当たり前の感覚が喪失し、今の自分だけの世界に閉じこもろうとする。これでは未来も生まれない。(続)
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