習近平総書記の外遊にぴったり付き添い、華やかなファッションが注目を集める彭麗媛夫人。だが、中国の第一夫人(ファーストレディー)と言えば、まず思い浮かぶのは悪名高い毛沢東の江青夫人だ。文化大革命を主導し、人民に甚大な災難をもたらした4人組のリーダーとして死刑判決を受け(無期懲役に減刑されるが、獄中で自殺)、以来、第一夫人は表舞台に立たないのが中国政界の不文律だった。
ところが、前例にとらわれない斬新な政治スタイルを貫く習近平路線に倣うかのように、彭夫人は慣習を破って活発に慈善活動を行い、世界保健機関(WHO)から結核・エイズ予防の親善大使にも委嘱されている。
もとより彼女は人民解放軍に所属し、日本の紅白歌合戦に当たる中央テレビの「春晩(春節聯歓晩会)」では常連の人気ソプラノ歌手である。夫が国家指導者として頭角を現す前は、夫人の方がはるかに著名人だった。近年は歌手としての出演が途絶え、「あの美声が聞かれないのは残念」「第一夫人だからといって才能が埋もれるのはもったいない」と議論も起きている。
実は、公式の場で何度も日本語を話している。2014年5月、上海で開かれたアジア信頼醸成措置会議(CICA)の関連行事では、オブザーバー参加した日本大使館の堀之内秀久公使(現ロサンゼルス総領事)夫妻に流暢な日本語で「こんちには」とあいさつした。堀之内夫人が「とても美しいですね」と声をかけると、今度は「ありがとう」と応じた。日本人とのやり取りに慣れていなければ、なかなかできない受け答えだ。
「ありがとう」にはもう一つ印象深い記憶がある。
2007年6月、胡錦濤総書記が中曽根元首相率いる日本の青年訪中団を人民大会堂に迎えた招宴で、日本の歌手・芹洋子と一緒に日本語で「四季の歌」を合唱するシーンがテレビで放映された。歌い終えた後のメッセージが、日本語で「どうもありがとうございます」だった。同訪中団は1984年9月、胡耀邦総書記が招いた日本の3000人青年訪中団を記念したものだったが、彭夫人は当時も芹洋子と一緒に「四季の歌」を歌っている。習氏と「お互い一目惚れ」(新華社通信)で結婚するのはその三年後だ。
彼女には歌手としての人気以外、その率直な人柄を慕うファンが老若男女を含め多い。生まれは山東省西南部の鄆城。山東人は腹で思ったことを口にし、そろばん勘定ができないお人好しが多い。彼女はその典型だとされる。両親は地元で文芸関係に従事するごく普通の家庭で、二人の縁談には当初、両家の格が不釣り合いであることから尻込みをした。だが、習氏が「うちの父親も農民の子だから」と説得した、とのエピソードが語り継がれている(『中華文摘』2007年9月)。
これには若干の説明がいるだろう。習氏の父である習仲勲(1913~2002)は、共産党草創期の他指導者と同様、農民の出身で、陝西省北部(陝北)で生まれ育ち、同省や甘粛省の革命根拠地建設に参画した。建国後は周恩来首相の下で副首相を務めたが、毛沢東が主導した政治闘争で1962年から16年間、工場労働や街頭での批判を受ける苦汁をなめた。
習近平氏はこの父から厳格な教育を受け、質素な生活を教え込まれた。文革期は下放政策によって陝西省の延安市梁家河村に送られ、7年間、過酷な農作業に従事した。後に当時を振り返り、「私は黄土の子だ」と書いた。党の高級幹部とは言え、習一家は土のにおいがする家庭である。
習氏が「うちの父親も農民の子だから」と説明したのにはこうした家庭背景がある。彭夫人とは二度目の結婚だった。最初の相手はエリート外交官の娘だったが、育った環境の違いから、性格や価値観が合わなかったのだろう。むしろ、飾り気がなく、率直で、男性からは一歩退く伝統的な山東女性に引かれたのだ。
彼女の人柄を物語る映像がある。1999年、香港公演に出かけた彼女が、地元フェニックステレビのトークショー「明星三人行」に出演したものだ。香港返還から2年目で、大陸との文化交流を進める重要な政治任務も負っていたが、テレビでは本音が次々飛び出した。
「有名になったら役得も多い。市場の買い物で列に並んでいても先に譲ってくれるし、飛行場ではぎりぎり10分前でもチェックインできる。急に列車に乗っても、顔だけで個室の特等席が用意されるのよ!」
あっけらかんとした物言いも、多くの中国人にとっては、特権階級への反感より、正直さへの好感が勝った。その彼女が2013年12月、北京の交響楽コンサートに一般人と並んで入場する場面が報道された。習氏が進める親民路線のパフォーマンスに違いなかったが、彼女の胸中はどうだっただろうか。有名になり過ぎると、かえって不自由になると実感したか、夫のために尽くすのが伝統的な中国女性の務めだと納得したか。少なくとも真っ先に「テレビに映るのだから何を着ようかしら」と考えに違いない。そうでなければ彼女らしくない。
ところが、前例にとらわれない斬新な政治スタイルを貫く習近平路線に倣うかのように、彭夫人は慣習を破って活発に慈善活動を行い、世界保健機関(WHO)から結核・エイズ予防の親善大使にも委嘱されている。
もとより彼女は人民解放軍に所属し、日本の紅白歌合戦に当たる中央テレビの「春晩(春節聯歓晩会)」では常連の人気ソプラノ歌手である。夫が国家指導者として頭角を現す前は、夫人の方がはるかに著名人だった。近年は歌手としての出演が途絶え、「あの美声が聞かれないのは残念」「第一夫人だからといって才能が埋もれるのはもったいない」と議論も起きている。
実は、公式の場で何度も日本語を話している。2014年5月、上海で開かれたアジア信頼醸成措置会議(CICA)の関連行事では、オブザーバー参加した日本大使館の堀之内秀久公使(現ロサンゼルス総領事)夫妻に流暢な日本語で「こんちには」とあいさつした。堀之内夫人が「とても美しいですね」と声をかけると、今度は「ありがとう」と応じた。日本人とのやり取りに慣れていなければ、なかなかできない受け答えだ。
「ありがとう」にはもう一つ印象深い記憶がある。
2007年6月、胡錦濤総書記が中曽根元首相率いる日本の青年訪中団を人民大会堂に迎えた招宴で、日本の歌手・芹洋子と一緒に日本語で「四季の歌」を合唱するシーンがテレビで放映された。歌い終えた後のメッセージが、日本語で「どうもありがとうございます」だった。同訪中団は1984年9月、胡耀邦総書記が招いた日本の3000人青年訪中団を記念したものだったが、彭夫人は当時も芹洋子と一緒に「四季の歌」を歌っている。習氏と「お互い一目惚れ」(新華社通信)で結婚するのはその三年後だ。
彼女には歌手としての人気以外、その率直な人柄を慕うファンが老若男女を含め多い。生まれは山東省西南部の鄆城。山東人は腹で思ったことを口にし、そろばん勘定ができないお人好しが多い。彼女はその典型だとされる。両親は地元で文芸関係に従事するごく普通の家庭で、二人の縁談には当初、両家の格が不釣り合いであることから尻込みをした。だが、習氏が「うちの父親も農民の子だから」と説得した、とのエピソードが語り継がれている(『中華文摘』2007年9月)。
これには若干の説明がいるだろう。習氏の父である習仲勲(1913~2002)は、共産党草創期の他指導者と同様、農民の出身で、陝西省北部(陝北)で生まれ育ち、同省や甘粛省の革命根拠地建設に参画した。建国後は周恩来首相の下で副首相を務めたが、毛沢東が主導した政治闘争で1962年から16年間、工場労働や街頭での批判を受ける苦汁をなめた。
習近平氏はこの父から厳格な教育を受け、質素な生活を教え込まれた。文革期は下放政策によって陝西省の延安市梁家河村に送られ、7年間、過酷な農作業に従事した。後に当時を振り返り、「私は黄土の子だ」と書いた。党の高級幹部とは言え、習一家は土のにおいがする家庭である。
習氏が「うちの父親も農民の子だから」と説明したのにはこうした家庭背景がある。彭夫人とは二度目の結婚だった。最初の相手はエリート外交官の娘だったが、育った環境の違いから、性格や価値観が合わなかったのだろう。むしろ、飾り気がなく、率直で、男性からは一歩退く伝統的な山東女性に引かれたのだ。
彼女の人柄を物語る映像がある。1999年、香港公演に出かけた彼女が、地元フェニックステレビのトークショー「明星三人行」に出演したものだ。香港返還から2年目で、大陸との文化交流を進める重要な政治任務も負っていたが、テレビでは本音が次々飛び出した。
「有名になったら役得も多い。市場の買い物で列に並んでいても先に譲ってくれるし、飛行場ではぎりぎり10分前でもチェックインできる。急に列車に乗っても、顔だけで個室の特等席が用意されるのよ!」
あっけらかんとした物言いも、多くの中国人にとっては、特権階級への反感より、正直さへの好感が勝った。その彼女が2013年12月、北京の交響楽コンサートに一般人と並んで入場する場面が報道された。習氏が進める親民路線のパフォーマンスに違いなかったが、彼女の胸中はどうだっただろうか。有名になり過ぎると、かえって不自由になると実感したか、夫のために尽くすのが伝統的な中国女性の務めだと納得したか。少なくとも真っ先に「テレビに映るのだから何を着ようかしら」と考えに違いない。そうでなければ彼女らしくない。
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