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行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

雨が降る夜、中国の友人から届いた蒋捷の詩『听雨』

2015-09-10 06:16:23 | 日記
東京は雨が続いている。昼間は地面に強く叩きつけられた雨も、夜から控えめな音に変わった。軍事パレードが終わった翌日から雨に見舞われた北京を思い出した。だが違いは、東京の天気には政治色がないことだ。

中国の友人から雨にかかわる詩が届いた。南宋の詩人であり、科挙に合格し進士として王朝に仕えた官僚でもある蒋捷の作だ。生まれは紫砂壺と呼ばれる茶器と竹林で知られる江蘇省宜興である。題は『虞美人・听雨』。

少年听雨歌楼上 红烛昏罗帐
壮年听雨客舟中 江阔云低 断雁叫西风

雨の音を聞く「听雨」をイメージし、少年時代、壮年時代の異なる境地を詠んだ。中国では人口に膾炙した一首である。自己流の解釈を試みた。

少年時代は、雨の中、楼の上で帳を張り、ロウソクを灯しながら、夜が更けるのも忘れて歌を歌った。理想に燃え、何の憂いも、何の迷いもない、無垢で無邪気な心である。

働き盛りの30、40代になると、船の上で川面を打つ雨の音を聞くようになる。川は広く、雲は低く立ち込め、遠くの空で群れから離れた雁が西風を受けて鳴いている。もはや自分で歌うことはなく、雨音と雁の声に耳を澄ませる。静かに時間が流れていく。自然をそのまま受け入れ、自己が情景の中に溶け込んでいる。

南宋が異民族の金に滅ぼされ、蒋捷は悲嘆の末、古里に戻った。故郷に錦を飾るのではなく、都落ちを迫られた。前途を見失い、隠遁する心境はさぞ悲壮なものだっただろう。送られた詩にはなかったが、調べてみると最後の一節がある。老人の境地だ。

而今听雨僧庐下,鬓已星星也。悲欢离合总无情,一任阶前,点滴到天明

年老いた私は今、僧房の軒先で雨を眺めている。髪はすでに真っ白だ。幾多の悲嘆も歓喜もすでに過ぎ去り、何の感興も湧いてこない。時間も自分の存在とはかかわりなく無為に流れていく。雨が止めば晴れ間が見える。天気も自然のままに変わっていく。もはや死を待つしかないない我が身である。

中国の友人があえて最後の一節を送らなかったのは、私への気遣いからか。喜ぶべきか悲しむべきか。雨はまだ止まない。物思いを誘う天候である。

(写真は「百度百科」から)

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