行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

世界最大の新聞発行部数は名誉か足かせか?

2015-08-13 10:01:08 | 日記
日本新聞協会の公式サイトによると、成人人口1000人当たりの新聞発行部数(2013年)で、日本は424.5部と世界一である。ノルウェーとフィンランドがそれぞれ394.5部、364.4部と続いている。
http://www.pressnet.or.jp/data/circulation/circulation04.html

日本では2001年から2014年までに1世帯当たりの新聞購読数は1.12部から0.83部へと0.29部も減少した。各世帯が1紙以上を購読していた時代から、5世帯のうち1世帯は新聞を購読していない社会に大きく変化したが、世界的にみて稀有な新聞大国であることに変わりはない。中でも読売新聞が900万部超、朝日新聞が700万部超と全国紙が群を抜いて多いのが特徴である。

私は中国駐在中、しばしば大学のメディア研究者や報道関係者から日本の新聞について講演を求められた。中国では海外の中国関連報道を集めた新華社発行『参考消息』が最大発行部数と言われるが、それでも300万部超である。日中1対10の人口比を考えれば、日本の突出した1紙の発行部数に関心が集まるのももっともなことだ。中国共産党の方針を宣伝する機関紙『人民日報』もうらやむ数字である。

なぜ日本の新聞発行部数は多いのか?そう聞かれると決まって、早朝に規則正しく届くきめ細かい宅配制度、平均的な教育水準の高さ、横並び意識の定期購読習慣、幅広い活字文化の土台、充実した景品などの理由を列挙した。半ば誇らしげに、「どの新聞を取っていたかということが、家族の記憶の一部になっている」とも話した。そうしたコラムを中国の雑誌に書いたこともある。

かつて日本の新聞は戦時下で部数を伸ばしたが、戦後は高度成長期、飛躍的な成長を遂げた。一億総中流という国民の平均的な価値観を背景に、政論よりも均質な記事を求める中産階級をターゲットにした熾烈な販売競争が展開された。販売店主が「白紙でも売ってやる」と商魂を語ったように、内容もさることながら、価格や景品などのマーケティング戦略が雌雄を決した。一般人のおくやみや赤ちゃん誕生などの記事はこうした販売戦略から生まれたものである。

業界トップだった朝日新聞が初めて500万部を突破したのが1965年、読売新聞が価格据え置きなどの販売攻勢で朝日新聞を抜くのは1976年のことである。

ある時、中国人の女子大学生から、「日本はバブル崩壊後、社会の階層化が進み、均質な価値観も崩れてきたのではないか。従来のような大量部数の編集方針では、多様な読者のニーズに対応できないのではないか」と質問を受けた。新聞の自由がない国の彼女でさえ、900万世帯が同じ新聞を読んでいるという現実がイメージできないのだ。私は、「高齢化が進み社会福祉や健康への関心が高まっているので、そうした取材セクションを新設し、紙面も充実させている。将来の読者となる子どもには、わかりやすく記事を解説した別冊の新聞を発行し、多様なニーズに応えている」とその場を切り抜けたが、質問に答えながら自分でもすっきりしない感じがあった。

以前は確かに1紙を取っていれば、家族が知りたいたいていのことは書いてあった。テレビもあるのでそれで十分だった。だが、社会が成熟して価値観が多元化し、インターネットの出現によって情報収取の方法も多様化し、それらが相互に相まって双方向の複雑なコミュニケーション空間が生まれ、新聞1紙の重みが薄れているのは事実だ。限られた紙面スペースの中で、そもそもそんな簡単に急激な社会の変化に対応できるものなのか。

市場原理で考えてみるとどうなるか。読者のニーズが多様化すれば、媒体も多様化しなければならない。その多様化は1紙のみが負うものではなく、多様な新聞の出現によって初めて可能になる。それは今や紙媒体である必要はない。世界の潮流は電子新聞化である。日本では部数競争がしばしば語れるが、忘れられているのが新聞そのものの数である。日本新聞協会のサイトには世界の新聞部数比較はあるが、新聞紙の総数に関するデータはない。

同協会に加盟する新聞社数は104社で、日本には約00紙の新聞があると言ってよい。ところが米国は1000紙以上、中国は党機関紙が多いとはいえ1900紙に及ぶ。地方紙が大半を占めるため、国土の広い分、新聞の数も多くなる。日本の新聞大国たるゆえんは全体の部数にあって、新聞業界はむしろ寡占状態にあると言ってよい。数の上では新聞小国である。これは多様な意見を反映させる民主主義のあり方にもかかわる。

記事を書きながら考えたことがある。中国の政治を伝えるかなり難しい記事でも、「だれにでも理解できるようわかりやすい表現で」と求められる。極力そう努めるが、想定している「だれでも」が果たして本当の読者なのだろうか。購読者はすべての記事を読むわけではないが、1000万近い読者を想定した編集が求められる。一億総中流時代はそれでもよかったが、均質な価値観が分岐してからも、相変わらず真ん中にボールを投げ続けていたらどうなるか。もうそこにキャッチャーはいない。大量発行部数のジレンマが表面化していると言ってよい。

平均的購読者を仮想した大量部数モデルの編集はもう限界である。本当に読みたい人に、もっと深く知りたい人に、的確な情報を届けることこそ、新聞が生き残る道である。作り手の側から言えば、ジェネラリストと言われるサラリーマン記者を大量に生み出しても、紙面の個性化にはつながらない。多くのスペシャリストを育てるべきだが、大組織の中でリスク管理の名によって強化される記者への締め付けは、ますます記者の個性を奪い、独立性をそぎ落としている。従順に飼い慣らされた記者が専門性を発揮するのは困難だ。組織としての守りは鉄壁だが、新たな挑戦が求められる時代にあって、攻めの力は生まれてこない。






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1 コメント

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新聞の悩み (辻井敏博)
2015-08-14 09:21:33
加藤さん。ご無沙汰してます。私も、広告の業務を通じて30年近く新聞社の方々とお付き合いしてきました。内情には詳しいと思いますが、それはさておき。
今のような時代だからこそ、新聞の機能は重要だと思っています。権力を監視する機能、高い専門性を持って多様な視点を提示する力は新聞の重要な使命です。民主主義を成り立たせるために必要欠くべからざるものであることを大衆に理解してもらうこと、新聞社の人もその自覚をもっと持ってもらいたいと思います。
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