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行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

「月下独酌」(李白)と「月の友 三人を追ふ 一人かな」(高浜虚子)・・・2015中秋節に

2015-09-27 08:11:43 | 日記
今日は十五夜の月を愛でる中秋節である。旧暦の8月15日、秋の真ん中を取って中秋だ。物思いの秋である。収穫の秋である。長雨、読書、芸術、グルメ・・・

静かな夜に思う。月の光が窓から落ちてくる。霜と見まがう情趣が生まれる。窓から遠方を望めば山に月が掛かっている。彼の地に住む人はどう過ごしているだろうか。李白がこう詠み、虚子が「仲秋や 又大陸に 遊ぶべく」と返した。私もまた思う。人々はつつがなく暮らしているだろうか。仕事は順調か。家族や友は元気か。酒は飲んでいるか、と。

丸い十五夜の月は、丸い月餅と同じ。月見団子もまたしかり。円満、円熟、円滑、すべてが滞りなく、実を結ぶことを願う。「円(yuan」は「縁(yuan)」にも通じる。よき出会い、巡り合いの多くあることを。「元(yuan)」を訪ねてゆけば、物事の始まりは「元気」に極まる。無垢の原初に、再生の期待が広がる。

花間 一壺の酒
独り酌みて 相親しむもの無し
盃を挙げて名月を迎え
影に対して三人となる

生活の術に長けた古人は、月を友とすることで孤独を慰めた。独酌は形に過ぎない。自分と影、月の三人が相呼応して歌い、舞い、語り合う。そこにいない人も同じ丸い月を見ている。「君の目に映る月は、私の見ている月よりも丸い」。そう願いつつ。

孤独の感傷を直視した東国の人は、三人を追う一人の姿を凝視しようとした。これもまた一興である。虚実の形式はどうでもよい。人生に実があるかどうかである。

両人対酌して山花開く
一盃 一盃 また一盃
我れ酔いて眠らんと欲す 卿(きみ)しばらく去れ
明朝 意有らば 琴を抱いて来たれ

李白が空想の中で向き合っているのは陶淵明である。ともに酒を愛した詩人は、自由自在に影と対話する想像力を持ち得た。陶淵明には自分の肉体と影、魂に問答をさせた『形影神』の詩がある。「一盃 一盃 また一盃」。尽くせぬ思いは盃の数だけある。「意有らば」。だが自然に任せよう。「我れ酔いて眠らんと欲す」。眠くなれば眠ればよい。それは「真率」と呼ぶのがふさわしい。飾らない、ありのままの姿である。

盃には月が映っている。その月にもまたありのままの自分が映っていなければならない。自らを透視する勇気を持ち得たときに、陶然自得の境地が生まれる。今宵はよき友たちと、同じ月を分かち合って飲み明かすことにしよう。遠く離れていても、月はみなに分け隔てなく同じ顔を見せてくれる。李白は「月光がとこしえに黄金色の酒甕の底を照らさんことを」と願い、蘇東坡は「ただ憂う 月落ちて 酒盃の空しからんことを」と嘆いた。

10月10日の小金井公園でのバーベキューが楽しみになってきた。

祝中秋節快楽!

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