林語堂の『支那に於ける言論の発達』(安藤次郎・河合徹訳 1939年12月 生活社刊)を読んでいたら、文章の一部が脱落した空白が見つかった。最初は印刷ミスかと思ったが、明らかに検閲による削除だとわかった。林語堂は個人の自由、特に思想、言論の自由を強く訴え続けた中国の知識人である。彼の著書を多く自著に引用してきた私としては、英文の原書を探し出し、復元しなければならないという気持ちに襲われた。
林語堂は福建のキリスト教牧師の家に生まれ、上海の米ミッション系・聖ヨハネ大学を卒業。米ハーバード大に留学して言語学を専攻した後、北京大学の英語学部教授に就任した。国民党政府にもかかわったが、政治の世界に幻滅して1936年渡米し、中国の文化を世界に発信し続けた。
国会図書館で米国で出版された原書『A HISTORY OF THE PRESS AND PUBLIC OPINION IN CHINA』(1936年)を借り、該当か所を照らし合わせてみた。77年ぶりにの復元作業である。問題か所は第10章の、辛亥革命後、共和国時代(1921年以後)のメディア状況をまとめたものだ。その中に、以下の通り、検閲による削除と思われる空欄が計7か所がある。
ここで一寸附記して置くが、元来、侵略者の希望といふのは、支那の新聞が完全に口を噤むか、如何なることでも唯々諾々として服従するか何れかである。(空欄①18文字分)之を新聞に発表せぬ様に要求した。又その後、(空欄②8文字分)支那民衆に公表せぬ様望んだ。更に(空欄③15文字分)新聞記事差止を要求した。或日、北京の一新聞のあまり目立たない記事に、(空欄④18文字)記事が掲載されたことがあったが。その時、(空欄⑤6文字分)北海の居仁堂を訪問して、支那當局に取っては(空欄⑥3文字分)親善を阻害すると認められるが如き事柄を要求されたのである。要するに(空欄⑦37文字分)然も新聞、電信、ラヂオが存在しない時代の如き無智の中に支那の民衆を置かんとして、支那の新聞の沈黙を要求したのであった。
英文の原文は以下のとおりである。
以下、空欄ごとに空欄の文字数に見合った訳を試みた。
①日本は対支二一か条要求については全て
②塘沽(タンクー)協定について
③察哈爾(チヤハル)に侵攻した日本軍の動向は
④日本軍の察哈爾での動向を伝える小さな
⑤日本の代表は
⑥日支の
⑦日本は北海の少数の役人と結託し、中国の統治権と領土を事実上侵害する目的で、
日本は、第一次世界大戦で欧州列強が中国から後退するのに乗じ、1915年1月、中華民国に対し21か条の権益拡大を要求告した。独が持っていた山東省の権益譲渡や旅順、大連の租借期限及び鉄道権益期限の99年延長、中央政府に日本人顧問を雇用することなどを含んでいた。これが日貨ボイコットなどの抗日運動に火をつける発端となった。
また、中国東北地方での権益拡大を目論む関東軍は1931年9月18日、駐留していた奉天(現・瀋陽)の柳条湖付近で、南満州鉄道の線路を爆破。それを中国側の仕業として東北部全域に軍事行動を拡大し、32年3月、満州国が建国させた。関東軍はその後も華北地方への攻略を企図して中国軍と衝突を繰り返し、蔣介石率いる国民政府との間で結ばれた停戦協定が塘沽協定である。万里の長城の南側を北限とし、北京西郊の昌平から天津の北側に至るエリアを非武装地帯としたが、日本軍は撤兵せず、さらに当時、察哈爾(チヤハル)省と呼ばれた現在の内モンゴル自治区や華北・山西省エリアに侵攻を続け、非武装地帯を延伸させていった。
日本国内では当時、こうした侵略行為は日中での批判を招くとして、公表を伏せたわけである。邦訳本の出版された1939年12月はすでに盧溝橋事件に端を発した満州事変が勃発し、米英との対立を深める中で日中戦争が泥沼化していく時期である。中国における言論弾圧や言論の自由を勝ち取ろうとする知識人の闘いを描いた書で、日本による言論統制の痕跡が残っていたとは皮肉なものだ。と同時、こうした時代背景の中、同書を邦訳するのはさぞ困難だっただろうと関係者の苦労を思わずにはおられない。
以下に、検閲による削除を復元した全訳案を記し、林語堂に対する敬意を表したい。
ここで一寸附記して置くが、元来、侵略者の希望といふのは、支那の新聞が完全に口を噤むか、如何なることでも唯々諾々として服従するか何れかである。日本は対支二一か条要求については全て之を新聞に発表せぬ様に要求した。又その後、塘沽(タンクー)協定について支那民衆に公表せぬ様望んだ。更に察哈爾(チヤハル)に侵攻した日本軍の動向は新聞記事差止を要求した。或日、北京の一新聞のあまり目立たない記事に、日本軍の察哈爾での動向を伝える小さな記事が掲載されたことがあったが。その時、日本の代表は北海の居仁堂を訪問して、支那當局に取っては日支の親善を阻害すると認められるが如き事柄を要求されたのである。要するに日本は北海の少数の役人と結託し、中国の統治権と領土を事実上侵害する目的で、然も新聞、電信、ラヂオが存在しない時代の如き無智の中に支那の民衆を置かんとして、支那の新聞の沈黙を要求したのであった。
林語堂は福建のキリスト教牧師の家に生まれ、上海の米ミッション系・聖ヨハネ大学を卒業。米ハーバード大に留学して言語学を専攻した後、北京大学の英語学部教授に就任した。国民党政府にもかかわったが、政治の世界に幻滅して1936年渡米し、中国の文化を世界に発信し続けた。
国会図書館で米国で出版された原書『A HISTORY OF THE PRESS AND PUBLIC OPINION IN CHINA』(1936年)を借り、該当か所を照らし合わせてみた。77年ぶりにの復元作業である。問題か所は第10章の、辛亥革命後、共和国時代(1921年以後)のメディア状況をまとめたものだ。その中に、以下の通り、検閲による削除と思われる空欄が計7か所がある。
ここで一寸附記して置くが、元来、侵略者の希望といふのは、支那の新聞が完全に口を噤むか、如何なることでも唯々諾々として服従するか何れかである。(空欄①18文字分)之を新聞に発表せぬ様に要求した。又その後、(空欄②8文字分)支那民衆に公表せぬ様望んだ。更に(空欄③15文字分)新聞記事差止を要求した。或日、北京の一新聞のあまり目立たない記事に、(空欄④18文字)記事が掲載されたことがあったが。その時、(空欄⑤6文字分)北海の居仁堂を訪問して、支那當局に取っては(空欄⑥3文字分)親善を阻害すると認められるが如き事柄を要求されたのである。要するに(空欄⑦37文字分)然も新聞、電信、ラヂオが存在しない時代の如き無智の中に支那の民衆を置かんとして、支那の新聞の沈黙を要求したのであった。
英文の原文は以下のとおりである。
以下、空欄ごとに空欄の文字数に見合った訳を試みた。
①日本は対支二一か条要求については全て
②塘沽(タンクー)協定について
③察哈爾(チヤハル)に侵攻した日本軍の動向は
④日本軍の察哈爾での動向を伝える小さな
⑤日本の代表は
⑥日支の
⑦日本は北海の少数の役人と結託し、中国の統治権と領土を事実上侵害する目的で、
日本は、第一次世界大戦で欧州列強が中国から後退するのに乗じ、1915年1月、中華民国に対し21か条の権益拡大を要求告した。独が持っていた山東省の権益譲渡や旅順、大連の租借期限及び鉄道権益期限の99年延長、中央政府に日本人顧問を雇用することなどを含んでいた。これが日貨ボイコットなどの抗日運動に火をつける発端となった。
また、中国東北地方での権益拡大を目論む関東軍は1931年9月18日、駐留していた奉天(現・瀋陽)の柳条湖付近で、南満州鉄道の線路を爆破。それを中国側の仕業として東北部全域に軍事行動を拡大し、32年3月、満州国が建国させた。関東軍はその後も華北地方への攻略を企図して中国軍と衝突を繰り返し、蔣介石率いる国民政府との間で結ばれた停戦協定が塘沽協定である。万里の長城の南側を北限とし、北京西郊の昌平から天津の北側に至るエリアを非武装地帯としたが、日本軍は撤兵せず、さらに当時、察哈爾(チヤハル)省と呼ばれた現在の内モンゴル自治区や華北・山西省エリアに侵攻を続け、非武装地帯を延伸させていった。
日本国内では当時、こうした侵略行為は日中での批判を招くとして、公表を伏せたわけである。邦訳本の出版された1939年12月はすでに盧溝橋事件に端を発した満州事変が勃発し、米英との対立を深める中で日中戦争が泥沼化していく時期である。中国における言論弾圧や言論の自由を勝ち取ろうとする知識人の闘いを描いた書で、日本による言論統制の痕跡が残っていたとは皮肉なものだ。と同時、こうした時代背景の中、同書を邦訳するのはさぞ困難だっただろうと関係者の苦労を思わずにはおられない。
以下に、検閲による削除を復元した全訳案を記し、林語堂に対する敬意を表したい。
ここで一寸附記して置くが、元来、侵略者の希望といふのは、支那の新聞が完全に口を噤むか、如何なることでも唯々諾々として服従するか何れかである。日本は対支二一か条要求については全て之を新聞に発表せぬ様に要求した。又その後、塘沽(タンクー)協定について支那民衆に公表せぬ様望んだ。更に察哈爾(チヤハル)に侵攻した日本軍の動向は新聞記事差止を要求した。或日、北京の一新聞のあまり目立たない記事に、日本軍の察哈爾での動向を伝える小さな記事が掲載されたことがあったが。その時、日本の代表は北海の居仁堂を訪問して、支那當局に取っては日支の親善を阻害すると認められるが如き事柄を要求されたのである。要するに日本は北海の少数の役人と結託し、中国の統治権と領土を事実上侵害する目的で、然も新聞、電信、ラヂオが存在しない時代の如き無智の中に支那の民衆を置かんとして、支那の新聞の沈黙を要求したのであった。
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