汕頭大学で世界のインターネット事情をまとめて報告するプロジェクトがあり、日本編の担当が回ってきた。しばしば引用される総務省の平成29年度版情報通信白書
に目を通していたら、次の一文が目に留まった。ビッグデータを利用した技術革新による第四次産業革命について、日本企業が意識の面で他先進国から立ち遅れていることを指摘した部分だ。
「我が国企業は他国企業と比べて、オープンイノベーションや外部連携の志向が低い中で、主力既存事業の維持に適したように組織特性の純化が進み、また中小規模の事業者も含め、垂直統合型取引から抜け出せないでいる」
官僚の言葉は実に難解だ。和製漢語的表現も含め、ことさら外来語が用いられている個所は、各方面に配慮した業界用語である場合が多い。関係者にしかわからないようなレトリックだ。簡単に言えば、日本の企業は内向き志向で、組織がタコツボ化し、中小企業は系列大企業の支配から独立する力を身につけていない、ということなのだろう。消費支出全体の中でネットショッピングの割合も、他国に比べれは非常に小さい。グローバルなIT化から取り残されているような感さえある。
読んでいて感じたのは、白書の隠れたキーワードは、このブログでもしばしば触れている「タコツボ」化である。
「タコツボ」型は政治学者、丸山真男氏が1957年、『思想のあり方について』で、竹が根から別れ先で多く分かれている「サラサ」型と対比して用いた概念だ。学問が専門化、分業化し、相互の交流が困難な状態を意味する。同論文では、
「ジャーナリズムならジャーナリズムをとりますと、そこではまた大新聞、週刊誌、総合雑誌というようなジャンルにおいてやはりそれぞれのタコツボ化が見られる。中央の大新聞の中でまたそれぞれの新聞社が非常に閉鎖的な一種の団体精神のようなものを何となく持っている。明治大正昭和には新聞記者が一つの社から他の社へ移るということがごく普通に行われた」
と触れたうえで、こう述べている。
「新聞の組織が近代化し巨大化するほど、むしろまるがかえ的になって、社会的流動性が乏しくなっていしまったのは、日本の『近代』の特質をよく物語っています。たとえばよく新聞記者諸氏が、うちじゃこういうふうにしてますっていう、そのうちじゃっていくのが非常に象徴的です」
60年たった今もなお、記者が口にする「うちの社では…」は常套句になっている。新聞社間の転職もあるが、世界の労働市場に比べれば流動性は無きに等しい。新聞社は記者である前に、会社の色に染まるよう求める。どこの社でも通用する記者を育てるのではなく、特定の新聞社に有用な人材の鋳型にはめ込もうとする。
タコツボ化によって、組織の中だけで通用する言葉が生まれ、内部でしか通じない発想や思考が育ち、それがだだんだん沈殿していく。組織内では議論の余地がなくなり、外部とのコミュニケーションは阻害される。どの組織にもみられる現象だが、メディア業界であれば影響は深刻だ。世論と最も近い場所にいるべき新聞社が、実はどんどん庶民から遠ざかることになる。
タコツボの背景には、前近代的な家族主義、封建主義の要素に加え、近代社会における機能文化が横たわっている、と丸山氏は指摘する。家族主義は、恩情と奉公の情緒的な結びつきによって成り立つ人間関係だ。個人は独立せず、家長に服従することが求められる。機能文化は、仕事の細分化、専門化によって、小集団の中に閉じ込められ、周囲との連絡を欠いた状態のことだ。
居心地の良い土壌に種をまけばどんどん成長する。隙間なくはえてくるので、周囲への視界はさえぎられる。そのうち、根が深く下ろしてしまい、身動きが取れなくなる。たとえ日陰に咲く路傍の花であっても、毅然として独り立ちする強さが欲しい。
に目を通していたら、次の一文が目に留まった。ビッグデータを利用した技術革新による第四次産業革命について、日本企業が意識の面で他先進国から立ち遅れていることを指摘した部分だ。
「我が国企業は他国企業と比べて、オープンイノベーションや外部連携の志向が低い中で、主力既存事業の維持に適したように組織特性の純化が進み、また中小規模の事業者も含め、垂直統合型取引から抜け出せないでいる」
官僚の言葉は実に難解だ。和製漢語的表現も含め、ことさら外来語が用いられている個所は、各方面に配慮した業界用語である場合が多い。関係者にしかわからないようなレトリックだ。簡単に言えば、日本の企業は内向き志向で、組織がタコツボ化し、中小企業は系列大企業の支配から独立する力を身につけていない、ということなのだろう。消費支出全体の中でネットショッピングの割合も、他国に比べれは非常に小さい。グローバルなIT化から取り残されているような感さえある。
読んでいて感じたのは、白書の隠れたキーワードは、このブログでもしばしば触れている「タコツボ」化である。
「タコツボ」型は政治学者、丸山真男氏が1957年、『思想のあり方について』で、竹が根から別れ先で多く分かれている「サラサ」型と対比して用いた概念だ。学問が専門化、分業化し、相互の交流が困難な状態を意味する。同論文では、
「ジャーナリズムならジャーナリズムをとりますと、そこではまた大新聞、週刊誌、総合雑誌というようなジャンルにおいてやはりそれぞれのタコツボ化が見られる。中央の大新聞の中でまたそれぞれの新聞社が非常に閉鎖的な一種の団体精神のようなものを何となく持っている。明治大正昭和には新聞記者が一つの社から他の社へ移るということがごく普通に行われた」
と触れたうえで、こう述べている。
「新聞の組織が近代化し巨大化するほど、むしろまるがかえ的になって、社会的流動性が乏しくなっていしまったのは、日本の『近代』の特質をよく物語っています。たとえばよく新聞記者諸氏が、うちじゃこういうふうにしてますっていう、そのうちじゃっていくのが非常に象徴的です」
60年たった今もなお、記者が口にする「うちの社では…」は常套句になっている。新聞社間の転職もあるが、世界の労働市場に比べれば流動性は無きに等しい。新聞社は記者である前に、会社の色に染まるよう求める。どこの社でも通用する記者を育てるのではなく、特定の新聞社に有用な人材の鋳型にはめ込もうとする。
タコツボ化によって、組織の中だけで通用する言葉が生まれ、内部でしか通じない発想や思考が育ち、それがだだんだん沈殿していく。組織内では議論の余地がなくなり、外部とのコミュニケーションは阻害される。どの組織にもみられる現象だが、メディア業界であれば影響は深刻だ。世論と最も近い場所にいるべき新聞社が、実はどんどん庶民から遠ざかることになる。
タコツボの背景には、前近代的な家族主義、封建主義の要素に加え、近代社会における機能文化が横たわっている、と丸山氏は指摘する。家族主義は、恩情と奉公の情緒的な結びつきによって成り立つ人間関係だ。個人は独立せず、家長に服従することが求められる。機能文化は、仕事の細分化、専門化によって、小集団の中に閉じ込められ、周囲との連絡を欠いた状態のことだ。
居心地の良い土壌に種をまけばどんどん成長する。隙間なくはえてくるので、周囲への視界はさえぎられる。そのうち、根が深く下ろしてしまい、身動きが取れなくなる。たとえ日陰に咲く路傍の花であっても、毅然として独り立ちする強さが欲しい。