行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

私にとっての読売新聞とは⑧

2017-08-02 23:25:44 | 日記
メディア間の競争が真相の解明に役立ち、報道の自由を支える柱であることは述べた。寡占・独占市場は競争をゆがめ、自由をないがしろにする。だが、過剰な個人攻撃や誹謗中傷、デマの横行、反道徳的な言論など、ネット空間での野放図な言論が社会に不利益をもたらすことを考えれば、自由がそのまま正義と公正につながるわけではない。

健全な市場を実現するためには、公共性のルールが求められる。市場のルールには、単に経済的な利益に換算される基準だけでなく、法や道徳といった非経済的価値基準も取り入れられなければならない。社会を構成する人々の良識によって、公共のルールから外れた情報は排除される仕組みが期待される。新しいニュース・メディアのあり方も、一企業が求めるビジネスモデルの観点からだけでなく、公共性の概念を取り込んだ、社会全体の問題としてとらえ直す必要がある。

だとしても、なれ合いの寡占体制や自由な競争を阻害する事なかれ主義からは、責任感に裏打ちされた議論も、説得力のある正義の訴えも生まれてこない。何のために取材し、記事を書くのか。その問いに答えを出すすべを失い、私は新聞社を去った。だが探索の旅はまだ続いている。確かに言えることは、記者個人が独立した自己を持っているかどうかである。時流に左右されず、社内の不当な圧力をもはねのける、信念を持っているかどうかである。恐れず、ひるまず、特ダネを追い続けることこそが、記者魂に息吹を吹き込む。

特ダネは主として社会の不正義や権力による不正を告発する形をとる。メディアの主な存在意義が、知る権利を通じた権力の監視にある以上、それは必然的な結論だ。ベトナム戦争の暗部を暴いたペンタゴン・ペーパーや大統領の犯罪を告発したウォーター・ゲート事件など、世界をみても一大スクープが権力による隠ぺいを暴き、時代変革のきっかけを作った事例は、新聞史上の栄誉として語られている。

裏を返せば、特ダネを重んじない新聞社は、権力チェックの責任をも放棄したことになる。その結果、内にあっては事なかれ主義が、外に対しては権力にすり寄る事大主義が根を下ろす。寡占体制によるなれ合い、読者不在の事なかれ主義と事大主義が、報道機関の使命を有名無実化している構造的な欠陥がうかがえる。私が職を辞して訴えたかったことはこの一点に尽きる。

戦前、『信濃毎日新聞』の桐生悠々主筆は、富山県に発し、時の寺内正毅内閣をも打倒した米騒動で、高らかと新聞論を語った。1918年8月16日の同紙社説「新聞紙の食糧攻め-起てよ全国の新聞紙!」だ。気骨ある新聞人の岩をも貫く至言は、私の大きな励みである。昨今、サラリーマン記者の書く社説は足元にも及ばない。

「世に新聞紙があればこそ、私共は事件の真相及び状態を知悉することが出来るのである。もっとも新聞紙の記事中には誤報を伝うるもの、必ずしも絶無ではないが、これを無責任なる流言者の言に比すれば、事件の真相・状態を伝うるにおいて、雲泥の差があること論を待たぬ」

「新聞紙は事実を国民に報道することによって、平生国家的の任務を果たしている。否、事実の報道をほかにしては、新聞紙は存在の価値もなければ意義もない。更に進んで言えば事実の報道即新聞紙である。しかるに、現内閣は事実の消滅そのものを断行せずして、この事実の報道を新聞紙に禁止した。その暴戻(ぼうれい)怒るよりも、その迂遠なる寧ろ憐れむべしである。事件、事実は新聞紙の食糧である。しかるに現内閣は、今や新聞紙の食糧を絶った。事ここに至っては、私共新聞紙もまた起って食糧騒擾を起こさねばならぬ。彼等は事実という新聞紙の食糧を絶って、今や新聞紙の生命を奪わんとしている」

誤報に対し「羹に懲りて膾を吹く」の過剰なリスク管理体制を敷き、本来の使命である真実の追求をないがしろにしている新聞への重大な警鐘だ。守りの技術は進歩しても、みなが窒息してしまってはなんのためのリスク管理かわからない。本末転倒である。リスク管理はそもそも強い守りを作ることによって、より強く攻めていくためのものでなければならない。守ること自体が目的化してしまっては、活力のない組織、魂のない人間ばかりになってしまう。独立した個人は育たない。

(続)

私にとっての読売新聞とは⑦

2017-08-02 08:46:26 | 日記
読売問題を通じた新聞と読者との乖離を語っている。世論から遊離した言論は存在意義を失うだけでなく、もしそれが力を持った場合、権力による言論統制に転じ得るので警戒が必要なのだ。

新聞社における編集と販売の分離は、報道を利益から遠ざける効用がある。編集の独立は、独立した報道を維持する土台となる。新聞の見出しを考えてみればよい。全国紙の見出しは記事に忠実に、正確性を重んじた表現が用いられる。各紙とも大同小異で、悪く言えば無味乾燥な見出しも多い。読者は見出しを見て購読するのではなく、すでに半年や一年の契に基づき固定されているからだ。一方、駅売りに頼るスポーツ紙や夕刊紙はそうはいかない。記事内容とかけ離れても、多少誇張があっても、目を引く派手な見出しをつけなければ売れない。市場に直結した編集は、独立を損なう。

だが、独立がまた読者との乖離を生むのも不可避だ。そこで、編集と販売の分離がどのように実現されているかを考えてみる。

新聞読者の大半は、日々、各紙の記事内容を見比べ、特定の一紙を購読しているわけではない。新聞大国の大量発行部数は、記事内容によるものではない点に留意が必要だ。市場には様々な商品が存在するが、販売している者が商品を理解していないケースはほとんどない。電器店の携帯やパソコンの売り場に行けば、係員が各メーカーのメリットデメリットを詳しく説明してくれる。消費者はそれぞれのニーズに応じて、商品を選択する。

だが新聞販売に関して言えば、勧誘員が新聞を熟読し、戸別訪問をする際、他紙との記事内容の差異をアピールし、それをセールストークとしているという話は聞いたことがない。何が書いてあるかが問題なのではなく、ビール券や美術展のチケット、トイレットペーパーや洗剤などの景品を積んで、読者を釣るのである。販売店主が「白紙でも売ってやる」と豪語したというエピソードは、決して笑い話ではない。悲しいかな、多くの読者もまた、内容の如何ではなく、これまでの習慣や景品の中身によって購読契約書にサインすることが常態化している。

私が新聞記者になって間もなく、新聞販売店の熾烈な販売競争を描いた映画『社葬』がヒットした。その際、冒頭で使われたフレーズが、

「日本の新聞はインテリが作りヤクザが売る」

だった。日夜、懸命に働いている販売店を思えば、非常に失礼な言葉だが、行き過ぎた威嚇的な勧誘がしばしば問題化していた時代なので、多くの人々は違和感なく受け取っていた。むしろ「インテリが作り」の部分に疑問が投げかけられたのを覚えている。権威をかさに着て、居丈高な態度を取るヤクザまがいの記者もいたのである。とは言え、このフレーズは編集と販売の分離、ひいては記者と読者との乖離を暗示した、絶妙なコピーであった。

日本の新聞は1950年代から70年代の高度経済成長期、戦時から引き継いだ寡占体制を背景に大きな成長を遂げた。各地に販売店を設け、世界で最も完備したきめ細かい宅配購読システムを構築した。それを後押ししたのが一億総中流意識だ。家電の「三種の神器」に代表されるように、みなが同じような生活を追い求め、その中で、新聞も家庭に不可欠な商品として入り込んでいった。新聞を取っていることが文化水準の目印となり、小中学校でも、新聞記事の切り抜きや書き写しが宿題となった。

戦前は毎日、朝日の二強からかなり遅れをとっていた読売新聞だが、1977年には発行部数が朝日を抜いて業界トップの720万部に達し、1994年には念願の1000万部を突破した。

数百万単位の大量発行部数を支えるのは、際立った論調ではなく、だれもが受け入れられる均質な内容である。他紙と同じようなことを書いていればそれでいい。無理して失敗をするよりも、何もしないで人の失敗を待った方がいい。こうして、リスクの伴う特ダネよりも、一社だけ記事を落とす“特落ち”を極度に恐れる横並び意識がはびこる。

何よりもあさましいのは“共食い”現象だ。全体のパイが増えない以上、他社の失策に乗じ、なりふり構わず読者を奪おうとする発想が生まれる。なれ合いの寡占市場はそもそも健全なルールを欠いているため、仁義なき戦いに転ずるのは必然だ。狭隘な自己都合でそろばんをはじき、強い者には媚び、弱者には鞭打つ事大主義が巣食っている。

顕著な例が、2014年8月、朝日新聞が従軍慰安婦報道や東京電力福島第一原発事故「吉田調書」の誤報で対応に手間取り、社長が辞任に追い込まれた際、読売新聞が行った過剰な批判キャンペーン記事だ。連載記事は「徹底検証 朝日『慰安婦』報道」(中公新書ラクレ)として出版までされた。海外支局にも「有効活用してください」と1冊が送られてきて、私はあきれた記憶がある。

(続)

私にとっての読売新聞とは⑥

2017-08-02 08:39:19 | 日記
前川元文科次官をめぐる読売報道について、百歩譲って、すべてが読売側の主張する通りだったとしよう。そうすると読売バッシングの多くは、憶測や偏見に基づく誹謗中傷、袋叩きの集団リンチだということになる。だが読売に正義はあるだろうか。圧倒的な意見表明の手段を有し、安倍政権のためには支援を惜しまない新聞社が、言論機関の名誉を守るべきときに有効な反論をしていない以上、形勢は不利だ。隠者ではないのだから、批判を受け入れたとみなされても仕方がない。世間の多くはそう考えている。

果たして正義はどこにあるのか。私はなお、報道の自由の価値を守るため、みなが納得のいく詳細な経緯説明を求めたい。主張や釈明はもう必要ない。真相が知りたいだけだ。それは報道機関が常日ごろ、外に対して求めている姿勢でもある。人間関係でも同じだが、信用を失うのは一瞬のことだ。それを取り戻す任は重く道は遠い。目先の小利を捨て、時代への責任を自覚した大義をとるべきだ。弘毅の心構えを持たなくてはならない。

読売側の当事者は私もよく知っているが、個人的な感情や利害で発言するつもりはない。また、感情的な読売バッシングに加担されたと思われることも本意ではないことは、すでに明言した通りである。私に対する各方面からの誤解が、この文章を書く動機の一つになっている。

現在の読売新聞にはなんの感情もないが、日本の将来には強い関心と危惧を持っている。日本を離れても、むしろ、離れて眺めることができたからこそ、深まる感情もある。自問自答を繰り返し、深く思考し、反省し、そのうえで発言している。最大発行部数を堅持する読売新聞の問題は、健全な公共の言論空間を模索するうえで避けて通ることができない。

前川氏をめぐる読売報道に権力の関与があったかどうか、その舞台裏の事実関係については、判断の根拠がないので、確定的なことが言えない。ただ、一連の報道が招いた批判には、少なくとも報道機関として負うべき結果責任がある。そのうえで、私の在籍時の経験をもとに、想定される内部事情を分析している。厳格な記事審査プロセスが機能しなかったのは、単なる見通しの甘さなのか。それともそれを承知の上での確信的行為なのか。いずれであっても、世論から乖離した読売の事大主義が問われることになる。

選挙や政権支持率については頻繁に行う新聞社の世論調査だが、たとえ公共の関心事であっても、自社の評価にかかわる問題で行うわけにはいかない。世論形成に重要な役割を果たす新聞自体が、客観性が求められるはずの世論調査を自前で行っていることの矛盾がここにある。他国では、メディアから独立した専門の世論調査機関が一般的だ。日本の新聞社は、世論を選択的に、不公正に利用していると言われても仕方ない。世論を重視しているように装っているが、実は軽視の裏返しなのだ。

中国にいて、日本の中国報道が誤解や偏見に満ち、実態とかけ離れていることをたびたび指摘してきた。単なる不満のはけ口、ストレス発散、嫉妬でしかないものも多い。それは日本人、日本社会にとって、国際認識を誤らせるマイナスでしかない。特に中国批判において突出している読売新聞の責任は重い。この点も繰り返し注意喚起してきたつもりだ。

偏向報道の根っこをたどっていけば、そう書いておくのが安全だからというタコツボ思考に行き当たる。世論への迎合は、世論への気遣いや配慮ではなく、事なかれ主義の表現でしかない。

記事を作成している編集の現場と、実際に部数を左右する販売の現場が離れすぎている。これが特ダネよりも特落ちを恐れる守勢を許し、結果的に世論軽視の思考を育てる根本的な原因となっている。大過のない紙面をつくっていれば、販売店が景品を積んで契約をとってきてくれるのだ。編集現場では「読者が…」「読者が…」と口にするが、仮想の集団でしかない。「自分は…」を語らずに済ませる方便であり、「読者が…」の御旗が、有無も言わさず現場の記者に編集方針を押し付ける口実に使われることもある。

そもそも、大量発行部数の新聞市場はいかにして生まれたのだろうか。まずは、戦中、言論統制のために断行された新聞社の統廃合が、新聞業界の寡占体制を生んだ歴史的背景を想起しなければならない。それがGHQによる米国式民主化の宣伝工作に利用され、戦後に引き継がれた。市場の健全な競争は阻害されるが、経営基盤を安定化させるのには好都合なのだ。戦後、国家による産業保護政策にも通ずる構造である。

日本は人口比の発行部数が世界一の新聞大国だ。だが、日刊紙の数は117種しかない。他の先進国と比較すれば、新聞大国も質的には遅れをとっている。しかも、五大全国紙が市場の半分を占めている現状は、言論の多様性という点から、大国の栄誉ではなく憂慮と呼ぶのがふさわしい。読売新聞が用いている「世界最大発行部数」のキャッチフレーズは、日本の民度を考えた場合、必ずしも誇れることではない。報道の自由はメディア間の競争と不可分だ。競争がなければ自由を追求する精神は育たない。メディアの寡占体制は、報道の自由への責任をないがしろにしかねないという側面にもっと注意を払う必要がある。

(続)