先日の日曜日、半年に一度開かれる高円寺の古書均一100円市に出かけた。古書市では、本の内容もさることながら、どんな時に読むのかも想像して本を選ぶ。朝起きてすぐ、目を覚ますために読む本、昼間じっくりと書斎にこもって読む本、喫茶店でコーヒーを飲みながら読む本、夜グラスを片手に読む本、寝る前に頭を休めるために読む本。気が付くと籠がいっぱいになっていた。
昨晩は就寝前、その中の一冊、大漢和辞典の編纂者、諸橋轍次氏が書いたエッセイ集『古典のかがみ』を手に取った。平易な言葉で、中国古典の深遠な教えが説かれている。書く方の精神が自由なので、それが流れるような筆に表れている。読む方も解き放たれるような気がする。すうっと心の中に流れ込んできた言葉が二つ見つかった。いずれも出典は『論語』だ。
「躬(み)自ら厚くして、薄く人を責むれば、則ち怨(うらみ)に遠ざかる」
和をいかにしてなすか。その答えの一つが「自ら厚くし」、つまり、人の欠点をあげつらうのではなく、まず、自らの至らぬ点を責め、改めなくてはならない、との態度だ。さもなければ人の恨みを買い、むしろ和からは遠ざかる。劉暁波氏の生前の言葉にも、
「歴史に対して責任を負うことにおいて最も重要なのは、ただ他人を責めるだけではなく、自己反省をすることである」
との一文がある。前回、読売問題の文章で触れた個人の覚醒もまた、この自省から生まれるのだと思う。だが容易ではない。人はとかく自分のことは棚に上げて、不幸の原因を外に求めがちだ。自由な精神、独立した思考に加え、よほどの信念、信仰がなければたどり着かない境地だ。事なかれ主義の中で、服従に慣れた精神からは到底生まれない。
諸橋氏は和に対するものとして、「国家、社会のある分子が、私利私欲のために特殊の集団を策する」朋党比周、そして時流に対する迎合と雷同をあげる。「私」は独立した個性ではなく、公をわきまえず、従属の精神をもって時流におもねる態度だ。読売新聞の独裁体質もまたこれに当てはまる。
「理非を論ぜず時世の歓心を求めんとするのは、流俗に対する迎合であり、その道の否なるを知って、なおかつ勢いに屈して自己の独立を失うのが雷同である。迎合と雷同とは和に似てしかも大いに非なる社会の悪徳である。和に進まんとするものは、敢然起ってこれを退けねばならぬ。それはもちろん至難の事ではあるが、また人間として生き甲斐を覚える快心事でもある」
諸橋氏はこう書いている。果たして、息をひそめ、小心翼々とする読売人の中に、その気概はあるや否や。
『古典のかがみ』にはももう一つ、目を引く言葉がある。
「切に問い、近く思えば、仁その中に在り」
「近く思う」とは、縁のない他人事だと済まさず、自分のこととして考えることだ。自らに問いただし、わがことのように接すれば、自ずと生来の真心は現れる。卑近な事柄は、小さいことのように思えるが、自由な精神があれば、その小世界から無限の宇宙へはばたくことができる。身近なことに目を閉じ、耳をふさいでおいて、迂遠なレトリックを用いても、人の心を動かすことはできない。ここでも自省が重要なのだ。
自省を妨げるのは、タコツボの事なかれ主義ばかりではない。受け身としての独裁体質は、外に対しては事大主義として表現される。周囲からは不可解な巨竜の言動には、内省を妨げる事大主義がある。
(続)
昨晩は就寝前、その中の一冊、大漢和辞典の編纂者、諸橋轍次氏が書いたエッセイ集『古典のかがみ』を手に取った。平易な言葉で、中国古典の深遠な教えが説かれている。書く方の精神が自由なので、それが流れるような筆に表れている。読む方も解き放たれるような気がする。すうっと心の中に流れ込んできた言葉が二つ見つかった。いずれも出典は『論語』だ。
「躬(み)自ら厚くして、薄く人を責むれば、則ち怨(うらみ)に遠ざかる」
和をいかにしてなすか。その答えの一つが「自ら厚くし」、つまり、人の欠点をあげつらうのではなく、まず、自らの至らぬ点を責め、改めなくてはならない、との態度だ。さもなければ人の恨みを買い、むしろ和からは遠ざかる。劉暁波氏の生前の言葉にも、
「歴史に対して責任を負うことにおいて最も重要なのは、ただ他人を責めるだけではなく、自己反省をすることである」
との一文がある。前回、読売問題の文章で触れた個人の覚醒もまた、この自省から生まれるのだと思う。だが容易ではない。人はとかく自分のことは棚に上げて、不幸の原因を外に求めがちだ。自由な精神、独立した思考に加え、よほどの信念、信仰がなければたどり着かない境地だ。事なかれ主義の中で、服従に慣れた精神からは到底生まれない。
諸橋氏は和に対するものとして、「国家、社会のある分子が、私利私欲のために特殊の集団を策する」朋党比周、そして時流に対する迎合と雷同をあげる。「私」は独立した個性ではなく、公をわきまえず、従属の精神をもって時流におもねる態度だ。読売新聞の独裁体質もまたこれに当てはまる。
「理非を論ぜず時世の歓心を求めんとするのは、流俗に対する迎合であり、その道の否なるを知って、なおかつ勢いに屈して自己の独立を失うのが雷同である。迎合と雷同とは和に似てしかも大いに非なる社会の悪徳である。和に進まんとするものは、敢然起ってこれを退けねばならぬ。それはもちろん至難の事ではあるが、また人間として生き甲斐を覚える快心事でもある」
諸橋氏はこう書いている。果たして、息をひそめ、小心翼々とする読売人の中に、その気概はあるや否や。
『古典のかがみ』にはももう一つ、目を引く言葉がある。
「切に問い、近く思えば、仁その中に在り」
「近く思う」とは、縁のない他人事だと済まさず、自分のこととして考えることだ。自らに問いただし、わがことのように接すれば、自ずと生来の真心は現れる。卑近な事柄は、小さいことのように思えるが、自由な精神があれば、その小世界から無限の宇宙へはばたくことができる。身近なことに目を閉じ、耳をふさいでおいて、迂遠なレトリックを用いても、人の心を動かすことはできない。ここでも自省が重要なのだ。
自省を妨げるのは、タコツボの事なかれ主義ばかりではない。受け身としての独裁体質は、外に対しては事大主義として表現される。周囲からは不可解な巨竜の言動には、内省を妨げる事大主義がある。
(続)