行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

私にとっての読売新聞とは⑤

2017-08-01 12:42:03 | 日記
先日の日曜日、半年に一度開かれる高円寺の古書均一100円市に出かけた。古書市では、本の内容もさることながら、どんな時に読むのかも想像して本を選ぶ。朝起きてすぐ、目を覚ますために読む本、昼間じっくりと書斎にこもって読む本、喫茶店でコーヒーを飲みながら読む本、夜グラスを片手に読む本、寝る前に頭を休めるために読む本。気が付くと籠がいっぱいになっていた。

昨晩は就寝前、その中の一冊、大漢和辞典の編纂者、諸橋轍次氏が書いたエッセイ集『古典のかがみ』を手に取った。平易な言葉で、中国古典の深遠な教えが説かれている。書く方の精神が自由なので、それが流れるような筆に表れている。読む方も解き放たれるような気がする。すうっと心の中に流れ込んできた言葉が二つ見つかった。いずれも出典は『論語』だ。

「躬(み)自ら厚くして、薄く人を責むれば、則ち怨(うらみ)に遠ざかる」

和をいかにしてなすか。その答えの一つが「自ら厚くし」、つまり、人の欠点をあげつらうのではなく、まず、自らの至らぬ点を責め、改めなくてはならない、との態度だ。さもなければ人の恨みを買い、むしろ和からは遠ざかる。劉暁波氏の生前の言葉にも、

「歴史に対して責任を負うことにおいて最も重要なのは、ただ他人を責めるだけではなく、自己反省をすることである」

との一文がある。前回、読売問題の文章で触れた個人の覚醒もまた、この自省から生まれるのだと思う。だが容易ではない。人はとかく自分のことは棚に上げて、不幸の原因を外に求めがちだ。自由な精神、独立した思考に加え、よほどの信念、信仰がなければたどり着かない境地だ。事なかれ主義の中で、服従に慣れた精神からは到底生まれない。

諸橋氏は和に対するものとして、「国家、社会のある分子が、私利私欲のために特殊の集団を策する」朋党比周、そして時流に対する迎合と雷同をあげる。「私」は独立した個性ではなく、公をわきまえず、従属の精神をもって時流におもねる態度だ。読売新聞の独裁体質もまたこれに当てはまる。

「理非を論ぜず時世の歓心を求めんとするのは、流俗に対する迎合であり、その道の否なるを知って、なおかつ勢いに屈して自己の独立を失うのが雷同である。迎合と雷同とは和に似てしかも大いに非なる社会の悪徳である。和に進まんとするものは、敢然起ってこれを退けねばならぬ。それはもちろん至難の事ではあるが、また人間として生き甲斐を覚える快心事でもある」

諸橋氏はこう書いている。果たして、息をひそめ、小心翼々とする読売人の中に、その気概はあるや否や。

『古典のかがみ』にはももう一つ、目を引く言葉がある。

「切に問い、近く思えば、仁その中に在り」

「近く思う」とは、縁のない他人事だと済まさず、自分のこととして考えることだ。自らに問いただし、わがことのように接すれば、自ずと生来の真心は現れる。卑近な事柄は、小さいことのように思えるが、自由な精神があれば、その小世界から無限の宇宙へはばたくことができる。身近なことに目を閉じ、耳をふさいでおいて、迂遠なレトリックを用いても、人の心を動かすことはできない。ここでも自省が重要なのだ。

自省を妨げるのは、タコツボの事なかれ主義ばかりではない。受け身としての独裁体質は、外に対しては事大主義として表現される。周囲からは不可解な巨竜の言動には、内省を妨げる事大主義がある。

(続)

私にとっての読売新聞とは④

2017-08-01 11:01:11 | 日記
前川文科次官をめぐる読売報道は、過剰な記事審査プロセスからは説明ができない。あれほど組織防衛に長けた新聞社にしては、あまりにもずさんな結果だった。結果的に社会的評価の低下と部数の減少を招き、相当の不利益を受けた。だが処分はされない。なぜなら、そこには読売新聞を貫くもう一つの独裁的な意思決定プロセスが存在しているからだ。記事は、硬直化した上意下達システムによって書かされたのである。

個人を責めてもしょうがない。トカゲのしっぽ切りは、組織延命の手段でしかない。個人が覚醒しない限り、独裁システムという千丈の堤にアリの一穴を開けることはできない。

独裁は独裁者による創造物ではない。独裁を受ける大多数の者が、飼い慣らさせることによって生まれる災難であり、不幸である。事なかれ主義が招く責任の回避は、自由と権利を放棄し、不作為こそが幸福なのだとする自己暗示に結びつく。外へ目が向かずに、井の中の座標軸でしかものを考えられなくなる。相対的な見方を欠けば、懐疑精神は殺され、独立した思考も生まれない。タコツボの中に隠れ、自分の軸はぶれていないと信じてはいても、そのタコツボ自体が浮遊していることに気付くことはない。

集団主義に埋没し、安逸に流れれば、いずれ個人の思考はマヒし、服従と隷属が精神をむしばんでいく。自由と権利を貫くには、大海原に翻弄されながら方向を失わぬよう、たゆまぬ緊張と努力が必要だ。それから逃れようとする怠慢は、波に漂うしかなく、服従と隷属に加担する。自由な議論、真理を探求する議論ではなく、大勢に従っていく沈黙が支配する。

一方で真理や正義を語る二重基準を使い分けるため、自己欺瞞のレトリックのみが発達する。懐疑精神がマヒしている以上、良心の痛みも感じない。独裁とはこうしたイメージの中で語れるべきだ。覚醒はそのレトリックを脱することから始まる。

私は北京駐在時代、特ダネを連発し、不可解な「安全」を理由にした特ダネ禁止令、そして緊急帰国命令を受けた。報道機関としてあるまじき事態だと判断した。私は新聞の利益を主張して拒否し、帰国命令は撤回された。だがすべての手続きは不透明で、不公正だった。だれもがタコツボに閉じこもり、責任ある発言をしなかった。

今回の読売問題について、私はあのときと同じ匂いを感じている。

以下に再び、拙著『習近平暗殺計画 スクープななぜ潰されたか』から引用する。

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この一件(※緊急帰国命令)で感じたのは、不合理で不条理な決定が実行されているにもかかわらず、あるいはその不合理さ、不条理さに気づこうともせず、上からの命令をなんの苦慮やためらいもなく、あたかも思考停止ボタンを押したかのごとく、機械の歯車のように効率的に規則正しく遂行していく組織の恐ろしさである。

国民の知る権利、言論の自由、民主主義社会を支えるべきメディアが、内部で全く議論をせず、沈黙し、唯々諾々と上意下達に従う組織であるならば、「社会の公器」としての公共性にかかわり、公益を損なうことになる。社会正義とは相容れない深刻な事態である。言論の自由を錦の御旗に各種恩恵を受けているメディアが、内部には言論の自由を否定している二重基準は、新聞社の欺瞞、偽善を物語るものでしかない。そこに正義は存在していない。

私に関する一連の騒動が起きている中、東京の国際部では部長と筆頭デスクがせわしなくこそこそと動き回っている姿に、部員たちはみな何らかの異変を感じていたが、とうとう真相を知らされることはなかった。原稿が届いているのにもかかわらず、突然、コラムの担当が外されたことに(※緊急帰国命令を忖度し、編集現場は私のコラム担当を本人との話し合いもなく外し、すでに出していた原稿をボツにした)、何も知らされていない周囲は「聞いてはいけないこと」を察知し、押し黙ってしまう。

真相を究めるべき記者たちが、肝心の事柄から目をそらし、どうでもいい、当たり障りのないものだけを論じて満足している。これでは報道機関の社会的責任をどうやって外に訴えることができようか。

東京から出張者が来るたびに聞かされるのは、社内の厳しい管理体制の中で仕事をする息苦しさである。どうして議論をしなくなってしまったのか。どうしてそんなに物わかりのよい者たちばかりになってしまったのか。口を開けば会社の悪口や愚痴を言うが、ではなぜ面と向かって戦おうとしないのか。

現場の記者は「デスクが勝手に原稿を直してしまう」と文句を言うが、自分の作品を守るためとことん戦ったことがあるのだろうか。寛容は外部からの批判に対して求められるべき報道機関の態度だが、社内における寛容は大勢に従う無原則、無責任の表現に過ぎない。

むしろ東京のデスクから指示がなければ、どう書いていいかわからない記者も少なくない。原稿の書き方や切り口、トーンについて、東京からどんな無茶な注文が来ても、喜々として従って器用に原稿を書き上げる記者がいる。それが責任を負わずに済む手っ取り早い生き方だ。責任を逃れるために、自由を犠牲にしてもよいと考えている。

自由を守るのには強い覚悟と、継続した努力が必要だ。これが責任重視の心構えである。だが責任を負いたくない者は、体裁のよいリスク重視に走ろうとする。事なかれ主義、官僚主義の横行は、もう限界まで達していると言える。

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