汕頭大学内のネットメディア「草根播報(GRASSROOTS REPORT)」に発表されたもう一つの未公表原稿は、李芹が書いた日本の稲作文化に関する記事だ。福岡県朝倉に丸一日滞在し、数百年にわたる農業と水との共存を取材すると同時、ちょうどその日、3月26日(日)は幸運にも奇祭の泥打ち祭りを間近で見ることができた。
http://stu.dahuawang.com/?p=33272
「日本の農業における稲作文化」
「泥打ち祭り――——稲作文化の信仰」
伝統衣装を身に着けた12人の小学生らが、水気を含んだ泥を手に握っている。一斉に掛け声を上がり、二人の男性が率いる獅子舞の列に従いながら、子どもたちは前方にいる白い服を着た”泥人”に泥を投げつける。このにぎやかな隊列の近くを通りかかった人も、注意しないと天から降ってくる泥の塊と”親密な接触”をすることになる。
これは小学生グループのいたずらではない。福岡県の無形文化財--泥打ち祭りの現場だ。泥打ち祭りは、福岡県朝倉市の民俗活動で、通常は毎年3月の最終週末に行われる。子どもたちは、神によって選ばれた人物のからだに泥を投げつけ、からだについた泥が多いほど、その年の収穫は豊富だとの言い伝えがある。
祭りと農業との関係は、伝統的な農業生産の関係に基づく。古代は生産力が低く、農民は大自然の力に対しまったく抵抗できなかった。そこで自然を畏れ、神霊に対する祭祀によって天候に恵まれるよう願う、”天命が人に勝る”思想が生まれた。
神社に通じる道には2,3メートルおきに泥が積まれ、水がかけられる。これらの泥は祭りのために用意された。泥にかけられた水は泥が固まるのを防ぐためだ。祭り全体に必要な300から400個の泥の塊は、同じ田から持ってくる。この祭りではずっと昔から、その田の泥が使われ、いつの間にか、その田は”神田”と呼ばれるようになった。
泥打ち祭りを行うのはその地区の氏子である。神社による祭りでは、神社を氏神と言い、氏子は氏神とある宗教的な関係を有する。氏子は昼間、山裾の文化センターで食事をし、くじで泥を当てられる”幸せ者”を選ぶ。今回は69歳の秦元治さんが選ばれたが、彼にとって”神に選ばれる”のは2回目だ。昼食後、氏子は神社に行って儀式を行い、それから泥打ち祭りが始まる。
まず、秦元治さんが泥の中の”神坐”に座り、子どもたちが彼のからだに泥を塗りかける。白い衣装がすべて泥まみれになると、合図の声とともに、にぎやかな隊列が山を下り始める。
全体のコースは1キロで、約30分かかる。車両の交通に影響が出ないよう、警察が一車線を封鎖し、人垣で分離帯を作り、安全な通行を確保する。道中は泥があちこちに飛び交い、観光客ばかりでなく、沿道の民家の窓や電柱にも泥がかかる。道は泥だらけだ。ゴールに着くころには、秦元治さんはすでに疲れ果て、地面に座り込み、最後はトラックで運ばれる。彼は笑いながらみんなに手を振って別れを告げ、重大な任務を終える。
(地面に座って休む秦元治さん)
泥を投げていた子どもたちも疲れて息を荒げ、へとへとになる者もいる。祭りが終わると、付き添いの両親が汚れた服を着替えさせる。飯田政稀君は今年、中学二年生で、6回目の参加。「すごく面白い」と話す。高校生になると参加できなくなるが、20歳の成人後は、大人として泥打ち祭りに参加するのを期待している。
現地役場の隈部敏明さんによると、泥を投げるのは子どもでなくてはいけない。伝統的な日本の祭祀では、神は子どもの身に乗り移ると言われるからだ。だが、日本の出生率は低く、高齢化はどんどん深刻化する。すでに厳格なしきたりに従った子どもの選抜はできない。祭りでまかないを担当した小林恵子さんは、昨年の祭りは当地では十分な子どもを探すことができず、子どもたちが学校の友人を誘って人を集めた。「人が足りないので、こうするしかない」と話した。
日本の地形は丘陵が多く、耕作できる平地面積は少ない。稲を主食とする大和民族は、おのずと土壌の重要さを認識する。農業生産の活動は自然に左右されるので、人々は自然を畏れ、敬い、自然には魂が宿っていると信じる。人間が自然への崇拝を表現するため、祭祀活動と宗教は生まれた。泥を主体とする祭りは、人々が農業を重んじ、稲が生きるための基礎であることを示している。泥打ち祭りが伝える文化の核心は、泥、稲、そして農業を重んじることの願いである。今日まで伝えられているこうした祭りは、すでに日本文化の重要な部分になっている。
「農業用水の知恵--山田堰と三連水車」
稲作は肥沃な土地と豊かな用水が求められる。朝倉市は、全国でも有名な泥打ち祭りを伝えるだけでなく、同じく有名な水利プロジェクトの山田堰と歴史文化遺産の三連水車がある。そして、これらは過去数百年の間、農業発展に貴重な功績を残しただけでなく、現在もなお農民の水田を潤している。
山田堰は朝倉市山田町にあり、1790年につくられた。日本で唯一の”傾斜堰床式石張堰”で、毎日、筑後川の55万立方メートルの水を利用し、652ヘクタールの田を潤している。この日本版の”都江堰”の水利プロジェクトは、江戸時代、古賀百工が組織して手掛けた。筑後川は、利根川や吉野川とともに、流れの激しい三大暴れ川と呼ばれる。流域はしばしば洪水によって農業不作を招き、飢饉も起きている。資料によると、古賀百工が主導した山田堰には、60万人が参加した。山田堰土地改良区の徳永哲也理事長によると、彼の祖先もそれに加わり、当時、流域に住む15歳以上の男性はほとんど動員されたという。
山田堰の土手は石を傾斜に張り、川の流れに逆らわず、堰に対する水圧を軽減させる。1953年、筑後川流域で大洪水が発生したが、上下流域にある石積みの堤防のうち、山田堰だけが決壊しなかった。山田堰は、南舟通し、中舟通し、砂利吐きの三つの流れがあり、南舟通しは船を通す。中舟遠しは魚が泳げ、遡上して産卵できるようにしてあり、流域の漁業資源を保護している。
砂利吐きの下流は堀川用水で、筑後川の水を水田に引いている。三連水車を通じ、周囲の水田に運ばれるのである。三連水車は日本に現存する最古の水車で、18世紀の初めの江戸時代につくられた。現在も水田の灌漑に使われ、日本の歴史文化遺産となっている。
三連水車は、三つの直径が異なる木製の水車で構成され、水車自身の動きと水の流れによって河川の水を吸い上げ、一日に最多で7900トンを揚水し、35ヘクタールの水田に水を送っている。朝倉地区は日本の内陸部で、海にも遠く、雨も比較的少ない。稲作の灌漑は大量の用水を必要とするので、筑後川の水に頼るしかない。三連水車によって水面より1~1・5メートル高い水田に水が送られるのである。
この200年以上の歴史がある水車は、毎年6月半ばから10月半ばまで使われるが、時間の流れによって、修繕の作業も困難にぶつかっている。熟練した大工の行ってきた三連水車の維持補修だが、若い大工が見つからないのだ。「若者はみな都会に行って、仕事を探そうとする」と、徳永理事長は心配する。
日本の農業社会にあって、泥打ち祭りのような祭祀活動は、自然への敬畏と豊作への願いを求めた、農村における精神生活の体現である。だが実際、いかに自然と向き合い、農業を発展させるかは、祭祀活動だけによるわけにはゆかない。個人の力、そして団結した力、つまり農村共同体の力量が必要となる。
山田堰と三連水車は、多数の人力を投入し、協力して生み出した知恵の結晶で、朝倉地区に収穫をもたらし、農業文明を打ち立てた。泥打ち祭りを中心としてつくられた氏子集団もまた、同じように心を農業に注ぎ、豊作を願い、独特な農業文化の信仰を受け継いできた。
泥打ち祭り、山田堰、三連水車は、農業文明の素晴らしい成果であるだけでなく、背負っているものは、農業生活にとって不可欠な精神の信仰と共同体の協力である。信仰は今に至るまで伝えられているが、共同体の協力は高齢化によって社会的危機にさらされている。
http://stu.dahuawang.com/?p=33272
「日本の農業における稲作文化」
「泥打ち祭り――——稲作文化の信仰」
伝統衣装を身に着けた12人の小学生らが、水気を含んだ泥を手に握っている。一斉に掛け声を上がり、二人の男性が率いる獅子舞の列に従いながら、子どもたちは前方にいる白い服を着た”泥人”に泥を投げつける。このにぎやかな隊列の近くを通りかかった人も、注意しないと天から降ってくる泥の塊と”親密な接触”をすることになる。
これは小学生グループのいたずらではない。福岡県の無形文化財--泥打ち祭りの現場だ。泥打ち祭りは、福岡県朝倉市の民俗活動で、通常は毎年3月の最終週末に行われる。子どもたちは、神によって選ばれた人物のからだに泥を投げつけ、からだについた泥が多いほど、その年の収穫は豊富だとの言い伝えがある。
祭りと農業との関係は、伝統的な農業生産の関係に基づく。古代は生産力が低く、農民は大自然の力に対しまったく抵抗できなかった。そこで自然を畏れ、神霊に対する祭祀によって天候に恵まれるよう願う、”天命が人に勝る”思想が生まれた。
神社に通じる道には2,3メートルおきに泥が積まれ、水がかけられる。これらの泥は祭りのために用意された。泥にかけられた水は泥が固まるのを防ぐためだ。祭り全体に必要な300から400個の泥の塊は、同じ田から持ってくる。この祭りではずっと昔から、その田の泥が使われ、いつの間にか、その田は”神田”と呼ばれるようになった。
泥打ち祭りを行うのはその地区の氏子である。神社による祭りでは、神社を氏神と言い、氏子は氏神とある宗教的な関係を有する。氏子は昼間、山裾の文化センターで食事をし、くじで泥を当てられる”幸せ者”を選ぶ。今回は69歳の秦元治さんが選ばれたが、彼にとって”神に選ばれる”のは2回目だ。昼食後、氏子は神社に行って儀式を行い、それから泥打ち祭りが始まる。
まず、秦元治さんが泥の中の”神坐”に座り、子どもたちが彼のからだに泥を塗りかける。白い衣装がすべて泥まみれになると、合図の声とともに、にぎやかな隊列が山を下り始める。
全体のコースは1キロで、約30分かかる。車両の交通に影響が出ないよう、警察が一車線を封鎖し、人垣で分離帯を作り、安全な通行を確保する。道中は泥があちこちに飛び交い、観光客ばかりでなく、沿道の民家の窓や電柱にも泥がかかる。道は泥だらけだ。ゴールに着くころには、秦元治さんはすでに疲れ果て、地面に座り込み、最後はトラックで運ばれる。彼は笑いながらみんなに手を振って別れを告げ、重大な任務を終える。
(地面に座って休む秦元治さん)
泥を投げていた子どもたちも疲れて息を荒げ、へとへとになる者もいる。祭りが終わると、付き添いの両親が汚れた服を着替えさせる。飯田政稀君は今年、中学二年生で、6回目の参加。「すごく面白い」と話す。高校生になると参加できなくなるが、20歳の成人後は、大人として泥打ち祭りに参加するのを期待している。
現地役場の隈部敏明さんによると、泥を投げるのは子どもでなくてはいけない。伝統的な日本の祭祀では、神は子どもの身に乗り移ると言われるからだ。だが、日本の出生率は低く、高齢化はどんどん深刻化する。すでに厳格なしきたりに従った子どもの選抜はできない。祭りでまかないを担当した小林恵子さんは、昨年の祭りは当地では十分な子どもを探すことができず、子どもたちが学校の友人を誘って人を集めた。「人が足りないので、こうするしかない」と話した。
日本の地形は丘陵が多く、耕作できる平地面積は少ない。稲を主食とする大和民族は、おのずと土壌の重要さを認識する。農業生産の活動は自然に左右されるので、人々は自然を畏れ、敬い、自然には魂が宿っていると信じる。人間が自然への崇拝を表現するため、祭祀活動と宗教は生まれた。泥を主体とする祭りは、人々が農業を重んじ、稲が生きるための基礎であることを示している。泥打ち祭りが伝える文化の核心は、泥、稲、そして農業を重んじることの願いである。今日まで伝えられているこうした祭りは、すでに日本文化の重要な部分になっている。
「農業用水の知恵--山田堰と三連水車」
稲作は肥沃な土地と豊かな用水が求められる。朝倉市は、全国でも有名な泥打ち祭りを伝えるだけでなく、同じく有名な水利プロジェクトの山田堰と歴史文化遺産の三連水車がある。そして、これらは過去数百年の間、農業発展に貴重な功績を残しただけでなく、現在もなお農民の水田を潤している。
山田堰は朝倉市山田町にあり、1790年につくられた。日本で唯一の”傾斜堰床式石張堰”で、毎日、筑後川の55万立方メートルの水を利用し、652ヘクタールの田を潤している。この日本版の”都江堰”の水利プロジェクトは、江戸時代、古賀百工が組織して手掛けた。筑後川は、利根川や吉野川とともに、流れの激しい三大暴れ川と呼ばれる。流域はしばしば洪水によって農業不作を招き、飢饉も起きている。資料によると、古賀百工が主導した山田堰には、60万人が参加した。山田堰土地改良区の徳永哲也理事長によると、彼の祖先もそれに加わり、当時、流域に住む15歳以上の男性はほとんど動員されたという。
山田堰の土手は石を傾斜に張り、川の流れに逆らわず、堰に対する水圧を軽減させる。1953年、筑後川流域で大洪水が発生したが、上下流域にある石積みの堤防のうち、山田堰だけが決壊しなかった。山田堰は、南舟通し、中舟通し、砂利吐きの三つの流れがあり、南舟通しは船を通す。中舟遠しは魚が泳げ、遡上して産卵できるようにしてあり、流域の漁業資源を保護している。
砂利吐きの下流は堀川用水で、筑後川の水を水田に引いている。三連水車を通じ、周囲の水田に運ばれるのである。三連水車は日本に現存する最古の水車で、18世紀の初めの江戸時代につくられた。現在も水田の灌漑に使われ、日本の歴史文化遺産となっている。
三連水車は、三つの直径が異なる木製の水車で構成され、水車自身の動きと水の流れによって河川の水を吸い上げ、一日に最多で7900トンを揚水し、35ヘクタールの水田に水を送っている。朝倉地区は日本の内陸部で、海にも遠く、雨も比較的少ない。稲作の灌漑は大量の用水を必要とするので、筑後川の水に頼るしかない。三連水車によって水面より1~1・5メートル高い水田に水が送られるのである。
この200年以上の歴史がある水車は、毎年6月半ばから10月半ばまで使われるが、時間の流れによって、修繕の作業も困難にぶつかっている。熟練した大工の行ってきた三連水車の維持補修だが、若い大工が見つからないのだ。「若者はみな都会に行って、仕事を探そうとする」と、徳永理事長は心配する。
日本の農業社会にあって、泥打ち祭りのような祭祀活動は、自然への敬畏と豊作への願いを求めた、農村における精神生活の体現である。だが実際、いかに自然と向き合い、農業を発展させるかは、祭祀活動だけによるわけにはゆかない。個人の力、そして団結した力、つまり農村共同体の力量が必要となる。
山田堰と三連水車は、多数の人力を投入し、協力して生み出した知恵の結晶で、朝倉地区に収穫をもたらし、農業文明を打ち立てた。泥打ち祭りを中心としてつくられた氏子集団もまた、同じように心を農業に注ぎ、豊作を願い、独特な農業文化の信仰を受け継いできた。
泥打ち祭り、山田堰、三連水車は、農業文明の素晴らしい成果であるだけでなく、背負っているものは、農業生活にとって不可欠な精神の信仰と共同体の協力である。信仰は今に至るまで伝えられているが、共同体の協力は高齢化によって社会的危機にさらされている。