行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

中国の大学生が見た日本の稲作文化

2017-06-07 16:56:33 | 日記
汕頭大学内のネットメディア「草根播報(GRASSROOTS REPORT)」に発表されたもう一つの未公表原稿は、李芹が書いた日本の稲作文化に関する記事だ。福岡県朝倉に丸一日滞在し、数百年にわたる農業と水との共存を取材すると同時、ちょうどその日、3月26日(日)は幸運にも奇祭の泥打ち祭りを間近で見ることができた。

http://stu.dahuawang.com/?p=33272

「日本の農業における稲作文化」

「泥打ち祭り――——稲作文化の信仰」

伝統衣装を身に着けた12人の小学生らが、水気を含んだ泥を手に握っている。一斉に掛け声を上がり、二人の男性が率いる獅子舞の列に従いながら、子どもたちは前方にいる白い服を着た”泥人”に泥を投げつける。このにぎやかな隊列の近くを通りかかった人も、注意しないと天から降ってくる泥の塊と”親密な接触”をすることになる。






これは小学生グループのいたずらではない。福岡県の無形文化財--泥打ち祭りの現場だ。泥打ち祭りは、福岡県朝倉市の民俗活動で、通常は毎年3月の最終週末に行われる。子どもたちは、神によって選ばれた人物のからだに泥を投げつけ、からだについた泥が多いほど、その年の収穫は豊富だとの言い伝えがある。

祭りと農業との関係は、伝統的な農業生産の関係に基づく。古代は生産力が低く、農民は大自然の力に対しまったく抵抗できなかった。そこで自然を畏れ、神霊に対する祭祀によって天候に恵まれるよう願う、”天命が人に勝る”思想が生まれた。

神社に通じる道には2,3メートルおきに泥が積まれ、水がかけられる。これらの泥は祭りのために用意された。泥にかけられた水は泥が固まるのを防ぐためだ。祭り全体に必要な300から400個の泥の塊は、同じ田から持ってくる。この祭りではずっと昔から、その田の泥が使われ、いつの間にか、その田は”神田”と呼ばれるようになった。

泥打ち祭りを行うのはその地区の氏子である。神社による祭りでは、神社を氏神と言い、氏子は氏神とある宗教的な関係を有する。氏子は昼間、山裾の文化センターで食事をし、くじで泥を当てられる”幸せ者”を選ぶ。今回は69歳の秦元治さんが選ばれたが、彼にとって”神に選ばれる”のは2回目だ。昼食後、氏子は神社に行って儀式を行い、それから泥打ち祭りが始まる。

まず、秦元治さんが泥の中の”神坐”に座り、子どもたちが彼のからだに泥を塗りかける。白い衣装がすべて泥まみれになると、合図の声とともに、にぎやかな隊列が山を下り始める。

全体のコースは1キロで、約30分かかる。車両の交通に影響が出ないよう、警察が一車線を封鎖し、人垣で分離帯を作り、安全な通行を確保する。道中は泥があちこちに飛び交い、観光客ばかりでなく、沿道の民家の窓や電柱にも泥がかかる。道は泥だらけだ。ゴールに着くころには、秦元治さんはすでに疲れ果て、地面に座り込み、最後はトラックで運ばれる。彼は笑いながらみんなに手を振って別れを告げ、重大な任務を終える。


(地面に座って休む秦元治さん)

泥を投げていた子どもたちも疲れて息を荒げ、へとへとになる者もいる。祭りが終わると、付き添いの両親が汚れた服を着替えさせる。飯田政稀君は今年、中学二年生で、6回目の参加。「すごく面白い」と話す。高校生になると参加できなくなるが、20歳の成人後は、大人として泥打ち祭りに参加するのを期待している。

現地役場の隈部敏明さんによると、泥を投げるのは子どもでなくてはいけない。伝統的な日本の祭祀では、神は子どもの身に乗り移ると言われるからだ。だが、日本の出生率は低く、高齢化はどんどん深刻化する。すでに厳格なしきたりに従った子どもの選抜はできない。祭りでまかないを担当した小林恵子さんは、昨年の祭りは当地では十分な子どもを探すことができず、子どもたちが学校の友人を誘って人を集めた。「人が足りないので、こうするしかない」と話した。

日本の地形は丘陵が多く、耕作できる平地面積は少ない。稲を主食とする大和民族は、おのずと土壌の重要さを認識する。農業生産の活動は自然に左右されるので、人々は自然を畏れ、敬い、自然には魂が宿っていると信じる。人間が自然への崇拝を表現するため、祭祀活動と宗教は生まれた。泥を主体とする祭りは、人々が農業を重んじ、稲が生きるための基礎であることを示している。泥打ち祭りが伝える文化の核心は、泥、稲、そして農業を重んじることの願いである。今日まで伝えられているこうした祭りは、すでに日本文化の重要な部分になっている。

「農業用水の知恵--山田堰と三連水車」

稲作は肥沃な土地と豊かな用水が求められる。朝倉市は、全国でも有名な泥打ち祭りを伝えるだけでなく、同じく有名な水利プロジェクトの山田堰と歴史文化遺産の三連水車がある。そして、これらは過去数百年の間、農業発展に貴重な功績を残しただけでなく、現在もなお農民の水田を潤している。





山田堰は朝倉市山田町にあり、1790年につくられた。日本で唯一の”傾斜堰床式石張堰”で、毎日、筑後川の55万立方メートルの水を利用し、652ヘクタールの田を潤している。この日本版の”都江堰”の水利プロジェクトは、江戸時代、古賀百工が組織して手掛けた。筑後川は、利根川や吉野川とともに、流れの激しい三大暴れ川と呼ばれる。流域はしばしば洪水によって農業不作を招き、飢饉も起きている。資料によると、古賀百工が主導した山田堰には、60万人が参加した。山田堰土地改良区の徳永哲也理事長によると、彼の祖先もそれに加わり、当時、流域に住む15歳以上の男性はほとんど動員されたという。



山田堰の土手は石を傾斜に張り、川の流れに逆らわず、堰に対する水圧を軽減させる。1953年、筑後川流域で大洪水が発生したが、上下流域にある石積みの堤防のうち、山田堰だけが決壊しなかった。山田堰は、南舟通し、中舟通し、砂利吐きの三つの流れがあり、南舟通しは船を通す。中舟遠しは魚が泳げ、遡上して産卵できるようにしてあり、流域の漁業資源を保護している。

砂利吐きの下流は堀川用水で、筑後川の水を水田に引いている。三連水車を通じ、周囲の水田に運ばれるのである。三連水車は日本に現存する最古の水車で、18世紀の初めの江戸時代につくられた。現在も水田の灌漑に使われ、日本の歴史文化遺産となっている。

三連水車は、三つの直径が異なる木製の水車で構成され、水車自身の動きと水の流れによって河川の水を吸い上げ、一日に最多で7900トンを揚水し、35ヘクタールの水田に水を送っている。朝倉地区は日本の内陸部で、海にも遠く、雨も比較的少ない。稲作の灌漑は大量の用水を必要とするので、筑後川の水に頼るしかない。三連水車によって水面より1~1・5メートル高い水田に水が送られるのである。

この200年以上の歴史がある水車は、毎年6月半ばから10月半ばまで使われるが、時間の流れによって、修繕の作業も困難にぶつかっている。熟練した大工の行ってきた三連水車の維持補修だが、若い大工が見つからないのだ。「若者はみな都会に行って、仕事を探そうとする」と、徳永理事長は心配する。

日本の農業社会にあって、泥打ち祭りのような祭祀活動は、自然への敬畏と豊作への願いを求めた、農村における精神生活の体現である。だが実際、いかに自然と向き合い、農業を発展させるかは、祭祀活動だけによるわけにはゆかない。個人の力、そして団結した力、つまり農村共同体の力量が必要となる。

山田堰と三連水車は、多数の人力を投入し、協力して生み出した知恵の結晶で、朝倉地区に収穫をもたらし、農業文明を打ち立てた。泥打ち祭りを中心としてつくられた氏子集団もまた、同じように心を農業に注ぎ、豊作を願い、独特な農業文化の信仰を受け継いできた。

泥打ち祭り、山田堰、三連水車は、農業文明の素晴らしい成果であるだけでなく、背負っているものは、農業生活にとって不可欠な精神の信仰と共同体の協力である。信仰は今に至るまで伝えられているが、共同体の協力は高齢化によって社会的危機にさらされている。

中国人学生が日本の学生から学んだ環境保護教育

2017-06-07 09:47:39 | 日記
汕頭大学内のネットメディア「草根播報(GRASSROOTS REPORT)」に発表された未公表原稿がもう二つある。一つは、取材ツアーに参加した学生、林家怡が書いた日本の環境保護教育に関する記事だ。日本の大学生をじかに取材した印象が深かったようだ。学生のボランティア・グループ「Green bird」によるゴミ拾い活動にも参加した。得難い経験だった。

http://stu.dahuawang.com/?p=33386

以下、日本語に訳する。

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「日本の環境保護教育:関心を喚起し、行動を促す」

「こんなにたくさんのゴミ、私たちが2時間で拾ったゴミは5000キロになり、トラックで2往復しなければならなかった」。馬島の清掃活動に参加する前、北九州市立大学の波多野冴紀さんは、この光景が信じられなかった。「ゴミの島のようだった」

馬島は北九州の北側に位置し、福岡県で人口が40人しかない小島だ。島民は漁業と農業を生業としている。2015年9月6日、北九州市立大学の学生団体「Green Bird」は馬島の清掃活動に参加し、波多野さんはその団体のメンバーだった。彼女は北九州出身だが、馬島の清掃活動に参加するまで、この島のことはよく知らなかった。活動の期間中、彼女は現地の生活を体験し、馬島がきれいな島になるよう願うとともに、島の生活スタイルを伝え、より多くの人に島の魅力を知ってもらいたいと思った。

とはいっても、波多野さんが環境意識を持つようになったのは、馬島の清掃活動が最初ではない。小学校から、学校の教材で環境保護について学んだほか、学校が組織した実際の見学活動にも参加した。2006年2月、日本は「持続可能な開発のための教育」の実施計画を策定した。教育内容と教育方法の両面が含まれ、その中で、「関心の喚起 → 理解の深化 → 参加する態度や問題解決能力の育成」を通じて「具体的な行動」を促す、ことが示された。

北九州市立大学の石川敬之准教授は、教育は一日でできるものではなく、教育の効果は普通、はっきり表れないが、一つ一つの出来事が子どもの記憶の中に刻まれ、少しずつ環境意識が形成されるのだ、と述べる。

「”関心の喚起”:日常的な環境保護の習慣」

北九州市立大学学生の田中音織さんは、宮崎県の小さな田舎の町、小林市の出身だ。当地のゴミ処理技術は限界があるので、家庭でのゴミ分別は厳しく、細かく定められていた。北九州市のゴミ分別は一般、プラスチック・缶ビンの三つだが、小林市はさらにプラスチック容器を細かく分別しなければならなかった。だから田中さんは北九州に来てから、自分の環境保護意識がかえって弱まったように感じた。「ゴミを捨てるとき、自分のやっていることが不十分で、環境に負担をかけているのではないかと罪悪感を感じる」と、田中さんは頭をかく。


(北九州市の家庭で使われているゴミ分別のケース)

大久保宇倫さんも「Green bird」のメンバーだ。彼は自分が以前、ゴミのポイ捨てをし、環境保護は大したことではないと考えていたと打ち明ける。だが、身近の小さな一つ一つのことの影響を受け、だんだんと環境保護意識を身につけた。一人住まいだが、彼はいつものようにまじめにゴミ分別をし、しばしば街頭の清掃活動に参加している。

一般家庭は、特に意識して子どもに環境保護教育をするわけではなく、日常生活の些細なことの中で、気づくようにさせる。洋服を洗濯するときは、使い終わった浴槽の水を使うこと。部屋にいないときは電気を消すこと。76歳の山口登代子さんはふだん家事をしている。彼女によると、以前、彼女の母親は、他人の家で飲んだものの容器は家に持ち帰ること、ごみのポイ捨てはしないこと、を教えた。

山口さん自身も、子どもにこう教えた。子どもが小さかったころ、彼女は、子どもにゴミの分別や毎日のゴミ捨て、読み終わった新聞紙をリサイクル業者に回収してもらうため門の前に置くことなどを手伝わせた。子どもと一緒に町に出かけたときは、彼女は自ら地面に落ちているゴミを拾い、子どもたちが自然にそれを学び、こうした習慣を身つけるよう教えた。

現在、山口さんの子どもは上海で仕事をしているが、近所の人たちはみなその家族の健康を心配している。日本の国民は中国のスモッグ問題に敏感なのだ。だが、山口さんは、「空気に国家の境はない」「これは他人のことではなく、みんなが関心を持たなければならない」と話す。

「”理解の深化”:実地の体験と自然環境保護」

2017年3月29日、オレンジ色のジャケットを来て、小さな帽子をかぶった子どもたちが、先生に引率され、列を作って北九州市の環境ミュージアムに入っって行った。みんなは自分の興味に応じてグループを作り、ある子どもはボランティアと一緒にゲームをし、ある者は廃プラスチックを再利用して工作をし、ある者は新聞紙の上に絵を描き、ミュージアムのあちこちに赤いジャケット姿が散らばった。


(環境ミュージアムで環境保護にかかわるゲームをする子どもたち)

子どもたちは現地の「あやめがおか学童クラブ」で、この日はクラブが組織し見学に来ていた。こうした活動はしばしばある。北九州市内のいくつかの小学校は環境ミュージアムと提携し、小学生の期間、少なくとも一回は環境ミュージアムを見学するよう決めている。通常は4年生の社会科見学だ。館内では写真や模型、汚染された海底ヘドロなどの実物展示を通じ、公害期の様子や北九州市の汚染対策史を伝えている。

ミュージアムの後半では、大気循環、石油資源、地質構造など、多数の環境保護にかかわるゲームが用意されている。中薗哲館長は、ミュージアムの見学者は学生が中心なので、こうしたゲームは子どもたちの興味を引くよう設計されていると解説する。「子どもたちは面白い。たくさん面白い質問をするので、びっくりする」という。中薗館長は印象に残った二つの質問を教えてくれた。

「どうしてこんなに汚染がひどくなるまで、だれも止めなかったのか」。赤銅色に汚れた洞海湾の海面の写真を見た子どもは、こう中薗館長に尋ねた。また、下水道処理について紹介すると、ある子どもが、「こんなにお金を使って、処理した水は捨ててしまうのか。再利用できないのか」と質問した。中薗館長は、なるほどとうなづいた。

彼によると、環境ミュージアムは環境保護活動の中心で、次の世代に環境保護の理念を伝える場所だ。ところが、子どもたちが学んだあと、家に帰って両親に環境保護について話をする。大人は自分の生活習慣を変えるのが難しいが、子どもの言うことであれば聞く。こうして家庭全体の生活スタイルが変わっていく、と中薗館長は話す。


(北九州市環境ミュージアムで公害の歴史を説明する中薗哲館長)

「私は毎日、一日前にゴミを捨てるようにしている。少なくとも朝の8時半前には。90度で24時間ゴミを燃やすと聞いたとき、びっくりした。私はお母さんに、包丁は家庭ゴミなので、新聞紙に包んで捨てないといけないと話した」
「みなさん、私たちが捨てたゴミを処理してくれてありがとうございます。カニのはさみみたいな大きなものですくって灰にしてしまう。灰になる前に、人の手みたいなものでゴミをすくうなんて、すごく面白い」

ゴミ処理の日明工場の壁には、小学生が見学後に残した感想文が一面に貼られている。ミュージアムのほか、ごみ処理場や廃品リサイクル工場などもみな学生たちの社会見学の基地になっている。

「こうした活動で大事なのは、子どもたちに楽しませるということ」。北九州市小学校の環境保護教育には自然体験の機会もある。「水辺に行って魚を見て、山で小動物に触れる。これは子どもたちが大好きなこと。こうした楽しい体験があって、また教室に戻って学ぶことで、子どもたちの理解はさらに深まる」。中薗館長はこう語る。

「”態度の育成”:体感しながら環境保護に参画」

波多野冴紀さん、大久保宇倫さん、田中音織さんは、韓国での経験を語る。「環境保護は一つの国家や地区の問題ではなく、地球規模の問題だ。一緒に解決する必要がある」と口をそろえる。2017年春、彼らとあと3人の学生は2週間の国際交流活動に参加し、韓国の大学生と一緒に環境保護問題について討論した。同時に、北九州市立大学の11人の学生がベトナムとの交流を行った。



2017年3月31日、緑のジャケットを着て、手袋をはめ、トング、色の異なるゴミ分別袋を手にし、半ば”完全武装”をした9人は、北九州市立大学付近の街角に向かって出発した。北九州市立大学の学生や現地の住民のほか、取材に来た汕頭大学の学生もいる。みな地面に落ちているゴミやたばこの吸い殻、紙くず、プラスチックの破片などを細かく探し、ひとつ残らず、可燃ゴミは青のポリ袋、不可燃ゴミは赤のポリ袋に決められた通り分別する。こうした小さな清掃活動は、北九州市内でしばしば行われている。

国際交流プロジェクトでも町の清掃活動でも、いずれも北九州市立大学地域共生教育センター(略称421Lab)の支援を得て行われている。421Labの任務は、大学生が地域の活動に参加することを奨励、支援することだ。「大学は勉強するだけの場所でなく、地域に貢献し、地域との連携を構築しなければならない。これが共生の意義だ」。石川敬之准教授はこう解説する。

421Labは毎年、決まった16のプロジェクトを行い、約400人が参加する。不定期のプロジェクトに参加する学生は500人にのぼる。その一つの重要なプロジェクトが「持続可能な開発の教育」、つまり環境保護にかかわる課程だ。北九州市立大学の学生は、本来の専攻学習以外、環境保護を内容とした副専攻を履修することができる。全部で22単位あり、社会や自然、環境などの分野が含まれる。

北九州市立大学は九州共立大学や九州工業大学など九つの大学と連携し、共同で「持続可能な開発の教育」プロジェクトを推進している。対象は大学生だけでなく、地域の住民も含まれ、地域の学習内容はその地域に応じてデザインされる。

「市民の理解と実践がなければ、環境はよくならない」。北九州市の北橋健治市長はこう語る。

環境ミュージアムの中薗哲館長は、市民の主体的な参加が北九州市の環境保護活動を推進したと考えている。「ゴミ分別は市民の知恵の成果で、地元政府がこの建議を採用したからこそ、北九州市のゴミ処理方法は、原始的な直接焼却から今日のようなリサイクル利用に変わった」「私たちはさらに市民の環境保護に対する認識を深めるよう努める」と、中薗館長は話す。

「教育は持続可能な発展の典型的な事例」と、石川准教授は指摘する。1950,60年代、北九州市は深刻な公害を経験し、市民が立ち上がって青い空と海を取り戻した。自治体から市民まで強い環境保護意識が生まれた。教育の目的は若い世代にこの歴史を伝えることにある。

地域共生教育センターの理念はこうだ。学生を具体的な活動に導く際に大事な点は、一つには、学生が真剣に勉強しながら、同時に社会に向き合うことを忘れないこと。もう一つは、日本の高齢化社会に活力を注ぐことで、若者の参加が年配者に新たな認識を与えるとともに、子どもたちの模範になる、ということである。

(完)