行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

現地を知らずに中国を語る日本人たちにひと言⑧

2017-06-06 22:22:52 | 日記
昨年2月、拙著『習近平暗殺計画 スクープはなぜ潰されたか』(文藝春秋)を出版したが、当初、私は本の仮タイトルを「記者魂」としていた。記者魂を失った現代の日本メディアに対し警鐘を鳴らし、かつ、自分が新聞社を離れても、なお記者が本来持つべき精神を肝に銘じ、ものを書き続けるとの誓いを立てたいと思ったからだ。だが、出版社の営業サイドから、もはやメディア系は売れないと却下され、「習近平モノ」になった経緯がある。メディアの権威失墜が、社会の無関心にまで及んでいることを実感し、寂しい思いをした。

言論の自由について、私は中国にいて感じたことがある。折に触れ書いてきたが、同著の前書きでそのことに触れた。今も見解は変わっていない。以下、その部分を再録する。

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(『習近平暗殺計画 スクープはなぜ潰されたか』前書きから一部抜粋)

一人の人間を理解するのは実に骨が折れる。ましてや一つの国を知ろうと思えばなおさらのことである。水分を取り除き中身を凝縮すれば、噛み砕くのに多少の苦労は伴うのはやむを得ない。むしろ事実の重みは水分で膨れ上がった重量をはるかに超えるとものだと信じたい。

「水分」を含め奇想天外なニュースがあふれる中国には、「ニュースの天国、記者の地獄」とのブラックジョークがある。

広大な国土と膨大な人口を乗せた高速列車が経済成長路線をひた走る一方、政治制度の不備や社会建設の立ち遅れから想像もできないような事件が頻発する。56の民族からなる13億人が多層の社会構造を生み出し、複雑な七変化の表情を持つ。5000年の歴史が不動の座を占め、針の先にも満たない微少な個人をのみこんでしまう。一つの国の概念では収まらない世界、それが中国だ。上海の日系企業駐在員が「中国は・・・」と語っていても、実は「上海は・・・」と言っているに過ぎないことが多いのだ。

ニュースの素材には事欠かないが、メディアは中国共産党の統制下にあり、一党独裁体制を否定する言論や思想は、政権転覆扇動や国家機密漏洩罪のレッテルによって弾圧される。中国人にしか見えない隠れた社会のルールを「潜規則」と呼ぶ。明文化されていないが、法や制度よりも実質的に社会を支配している不文律である。トップの習近平総書記までもが暗黙の了解である「政治の掟」を公然と語り、これに反する敵対勢力を排除している。

こうした潜規則を踏み越え、脇目も振らず真実を追求しようとする記者は投獄の危険さえ覚悟しなければならない。高いリスクの代償として恵まれた待遇があるわけではなく、賃金は工場労働者並みで、割に合わない「ハイリスク・ローリターン」の職業だ。安月給を補うためゆすりやたかりに手を染める記者が横行し、社会的地位も低い。

30歳を過ぎて調査報道の責任者に昇格した知人の中国人男性記者が、大学の同窓会に出席した。政府機関の幹部や外資企業の部長クラスになっているクラスメートから、「お前まだ記者をやっているのか」と冷やかされ、ばかばかしくなってやめてしまった。周囲から敬意を払われず、中国人が最も重んじるメンツが丸つぶれだった。

若いうちは高い理想に燃え、社会正義のために労苦を惜しまないが、結婚し、子どもが生まれ、家族の将来を担う身となると、現実と向き合わざるを得ない。今、中国では優秀な記者が続々と新聞社を離れ、安全で待遇のよいネット業界に流れ込んでいる。日本の記者も「3K職場」と揶揄されるが、中国は危険の度合いが桁違いだ。「ニュースの天国、記者の地獄」はこうした現状を風刺している。

だが一方、中国では勇気を出して声を上げ、大きな犠牲を払って真実と正義を追求する人たちもいる。代表的人物は獄中から民主を訴え続け、ノーベル平和賞を受けた劉暁波氏(1955年生まれ)だが、私が直接会った人物の中で、忘れられないのは北京の法学者、許志永氏(1973年生まれ)だ。彼は大学で教べんを取っていたが、それに飽きたらず自ら社会の中に入り、憲法による権利擁護の実践を呼びかけた。度重なる弾圧にも屈せず、出稼ぎ労働者ら社会的弱者を救済する運動に身を投じたが、群衆を集めた「違法集会」を理由に刑事訴追され、2014年4月、懲役4年の刑を受けた。芯の強さとは裏腹に、物静かに国の将来を憂える姿は、私の記憶から消えたことがない。

情報統制による直接的なコントロールを受けない外国人記者は、「ニュースの天国」のみを享受できる特権的な立場にある。取材対象者に対する圧力や記者ビザ発給の制限で取材活動が妨げられることはあるが、中国人記者に対する締め付けとは比べものにならない。私も外国人記者の一人として「天国」の恩恵に浴したが、困難を乗り越え自由を勝ち取ろうとする中国人を間近に見ながら、常に自問してきたことがある。

投獄の危険がない日本社会の中で、我々記者は真実を追求する気概と責任を忘れてはいないか。唯々諾々として会社や上司の指示に従い、人の批判を恐れてやすやすと妥協し、簡単にペンをゆがめてはいないだろうか。新聞社の仲間から聞かされる話は、失敗を恐れる事なかれ主義が幅を利かせ、だれも責任を取ろうとせず、みなが押し黙って大勢に流されている姿だ。草を食みながら黙々と歩く羊の群れを思わずにはいられない。

読売新聞は2012年10月、日本人研究者の虚偽証言によって「iPS細胞による移植」を誤報し、2014年8月には朝日新聞が従軍慰安婦報道や東京電力福島第一原発事故「吉田調書」の誤報で対応に手間取り、社長が辞任に追い込まれた。各新聞社とも信頼回復のため再発防止策を打ち出しているが、「羹に懲りて膾を吹く」過剰なリスク管理によって組織が委縮し、記者たちの意欲までそがれる危機的状況を迎えている。

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篆刻家・師村妙石氏を描いた学生の力作

2017-06-06 22:19:49 | 日記
日本取材ツアーで出会った北九州市在住の篆刻家・師村妙石氏について、参加学生の李芹が6月6日、学内のネットメディア「草根播報(GRASSROOTS REPORT)」に原稿を発表した。

http://stu.dahuawang.com/?p=33402

これまで『瞭望東方週刊』に発表した環境保護を含めた報道シリーズの中に含まれている。師村氏については、映像作品も近く公表される予定だ。本稿は環境保護とは直接関係ないが、学生たちにとって接した中で、最も印象に残った日本人の一人である。当初、取材対象としては想定していなかったが、筆者がどうしても原稿にしたいと願い出たものだ。心がこもっている。その気持ちを大事にしたいと思い、日本語著書を翻訳して聞かせるなど、側面から執筆を支援した。

以下、日本語に訳して掲載する。


「師村妙石氏の”中国の夢”」

24歳の長男が突然亡くなってから、師村妙石氏は毎日、「寿」の印を彫っている。もう11年間やり続け、印は3000以上になった。

師村妙石氏は日本の有名な篆刻家で、西日本書道協会会を務める。彼は独自のやり方で息子を悼み続けている。



「寿」の字の中に込められた父の愛

師村妙石氏の長男は師村八という。中国文化が好きで、12歳の時に父と一緒に中国を訪れ、高校卒業後、上海の大学に進んで中国の留学生活を開始した。



師村八さんは上海中医薬大学で学び、時間のあるときは、旧式の自転車に乗り、わずかの荷物を持って中国各地を旅した。2004年6月22日から7月26日まで、師村八さんは上海を出発し、自転車をこいで中国を4000キロ走った。蘇州や南京、合肥、鄭州、済南など23の都市をめぐり、最後は常熟から上海に戻った。2006年、師村八さんは日本に戻り、一人で自転車に乗って大阪に向かった。ちょうど1月で、寒いころだった。師村八さんは岡山市の高柳2号公園で夜、野宿をしたが、テントの中で使った暖房が原因でガス中毒死した。24歳だった。

息子の名前の「八」を、師村妙石氏は「ひらく」と読ませた。この読みは日本語で、「開拓」や「宏大」の意味がある。子どもが亡くなって、師村氏は子どもに「宏」のおくり名をつけ、「師村宏」の印を彫って、棺桶に入れた。天国にいても使えるようにとの思いからだった。あのときから、師村氏は毎日、「寿」の字を刻み続けている。88歳になったときには1万個になるという。彼は、こうやって息子への思いと愛を伝えたいと願っている。

師村八さんが亡くなったとき、所持品の中から旅行の風景や個人の感想を書いた日記が見つかった。師村氏はこの日記を大事に残し、自分で装丁をし、出版した。息子が亡くなって四か月後、彼は息子の日記と彼が撮った写真を手にし、息子が自転車で通った道を車でたどった。日記の記録をもとに、息子が旅行中に出会った18人を探し当てた。師村氏はこうして、子どもがたどった最後の旅程を実感した。息子がかつて見たもの、かつて触れ合った人々と同じように触れることで、彼ら父子は同じ時空の中で再会しているかのようだった。

篆刻ととも歩む生涯

師村妙石氏が息子を偲ぶのも、彼の専門である篆刻である。1949年に生まれた師村氏は、福岡県教育大学特設書道科を卒業した。彼は中国の書道大家である呉昌碩を尊敬した。呉昌碩は清朝末民国初期の書道家で、篆刻の大家でもあり、杭州・西冷印社の初代社長を務めた。呉昌碩の芸術にさらに触れるため、彼は東京、香港を回り、5日間をかけて北京にやってきた。また、日本で呉昌碩の彫像を建立しようと思い、北九州市の頓田貯水池の湖畔に、日中友好の象徴である大連の大北亭に加え、呉昌碩の半身像を置いた。

呉昌碩は日本の書道界で幅広く尊敬を受けた人物である。彼の教えを受けた河井荃廬(かわい・せんろ)は日本の篆刻界で重要な地位を占め、多くの書道家や書道団体はこの河井荃廬の流れを汲んでいた。日本は師弟関係を重んじるので、日本の芸術界における呉昌碩の地位も非常に高くなった。師村妙石氏は長い間にわたり呉昌碩の芸術の足跡を追い求め、上海呉昌碩記念館の名誉顧問、西冷印社の名誉社員を務め、西冷印社で個展を開いた実績もある。



”師村流”は創作的な篆刻で、中国の伝統文化に根を持つ。良渚文化の陶片の文様や漢代の石彫のデザイン、浙江省青田の青田石の文字や甲骨文に至るまで、師村氏の創作には豊富な中華文明のエキスが流れている。同時に彼は欧米文化からもイメージを得て、大胆に西洋の色彩コンセプトを用いて創作に取り込んだ。こうして伝統的な篆刻の創作形式に刷新をもたらし、中国と西洋を混合させた新たな篆刻技法である”師村流”を形成した。また、彼は伝統的な篆刻の表現方法にとらわれず、石彫ばかりでなく陶磁器、切り絵、油絵までをも用い、篆刻の言語を世界各地に広めた。

師村妙石氏の中国への思い

師村氏は「私が使っているのは漢字であり、私は漢字文化を愛している。私の芸術の根は中国にある」と話す。彼と中国との縁は、1972年にさかのぼる。この年は日中国交が正常化し、師村氏は日本青年代表団として中国を訪問し、周恩来首相の接見を受けた。師村氏は周首相との合同写真を額に入れ、自宅のギャラリーの正面に掛け、大事にしている。

あれ以来、彼は日中友好活動や文化交流に力を尽くし、2000年には上海市人民政府から「白玉蘭記念賞」を受け、2010年の上海万博では日本館のサテライト事業として上海で個展を開催し、中国での篆刻展開催は100回以上に及ぶ。

師村さんはこれまで194回の訪中経験があり、彼にとって個展開催は中国との最も直接的な対話方式である。展示作品はみな、彼が日中友好交流への期待を寄せたもので、「大愛無疆」「不再戦」や「和平・非戦・不戦・反戦・和平」などの作品を通じ、平和を希求する願いをアピールしてきた。また、甲骨文の「心」をユニットにした愛の創作シリーズでは「博愛」の精神を伝え、北九州市と大連との友好姉妹都市関係を記念し、2015年、反ファシスト戦争勝利70周年の際には、第二次世界大戦で戦乱の地となった大連で、自身の個展によって平和の理念を訴えた。

平和や愛をテーマとしたもののほか、師村氏は中国の現代社会にも関心を寄せている。2008年には四川大地震が起き、北京五輪も開催された年だったが、師村氏は作品「中国頑張れ」を創作し、中国を励ました。また、社会主義核心価値観をもとにした「中国の夢・12の願い」を創作し、後に寄贈して、両国友好交流の促進に努めた。

息子が中国で過ごした経験があるからだろうか、師村氏は中国の若者に特別な心を寄せている。以前、大連で「連」をテーマとした個展を開いたが、当時、展示を手助けしたのは現地の若者だった。彼は非常に喜んで、「彼らの働きに大いなる期待を持った」と語った。2010年の上海万博では、大型の石柱篆刻作品「大和美之国日本」を展示した。高さ3・12メートル、直径1・64メートル、重さ17トンの円柱石碑だ。2011年、師村氏はこの作品を北京の日中青年交流センターに寄贈し、最初に彫ってあった「大和美之国日本」を「中日両国人民世代友好」と改めた。日中青年友好交流を振興させ、相互理解を深めるよう期待を込めたのだ。

師村妙石氏と中国の友好往来は、彼の”中国の夢”であり、この夢はなお一つ一つ実現されている。

(完)

現地を知らずに中国を語る日本人たちにひと言⑦

2017-06-06 17:24:55 | 日記
地方の多様性について、北京、上海、広東の三都市比較をしてみよう。

日本メディアは、中国に言論の自由がないと伝える。確かに共産党の宣伝部門が新聞・テレビを統制し、ネットを監視する専門セクションもできた。真実を伝えようとする記者には窮屈極まりない体制だ。理想を追い求める優秀な記者たちは、習近平政権になってさらに強化される統制にうんざりし、次々と職場を去っている。残念でしょうがない。もちろん、なお残る者、新たに理想を求めてメディア界を志す若者も、少なからずいることは忘れてならない。

だがこの三都市の比較から、中国における「言論の自由」の複雑さをうかがうことができる。

日本人に最もなじみが深いのは上海である。歴史的にも戦前・戦中には、共同租界の中に数万人に及ぶ日本人居住区が存在したし、改革開放後は日本企業が最も多く進出した。だから上海と言えば、国際的で、開かれた都市だとの印象を持つ。それは大きな間違いだ。メディア界では最も保守的な地であり、かねてから新聞の内容が最もつまらない、との陰口もたたかれてきた。

1949年の建国後、計画経済体制下において、上海はそれまで外資導入によって築いた近代工業の基盤を生かし、重要な国有経済基地として国家財政の多くを支えた。現在も大手国有企業の存在は圧倒的で、近年、メディア業界も二つが一つに大同合併し、航空会社も東方航空が上海航空を買収して一社独占となった。行政効率が極めて高く、都市管理も行き届いている。

その背景には、住民の民度の高さもさることながら、官僚主導モデルが有効に働いていることにある。能吏の人材が豊富で、習近平も秘書は上海から引き抜いている。簡単に言えば、権力の言うことをよく聞く町なのだ。政治のことはさておき、金儲けの話をしましょう、と賢い上海人は腹の中で考えている。

中国近代の新聞、雑誌、出版は上海において発展した。租界を通じた海外文化、資金、人材の流入、そして何よりも、脱政治の舞台があった。国民党の言論政策によるとする見方もあるが、私はむしろ、政治との関係が希薄だったことが、文化の繁栄をもたらしたと考える。逆に建国後の文化は、政治と一体化することで全く異なる道筋をたどる。その中心が北京である。

北京は政治の中心だけあって、タクシーの運転手まで時々の政権批判をする土地柄だ。喫茶店やレストランでも、大きな声で政治を論じているのが聞こえる。権力が集まるということの裏には、多数の権力が存在しているという現実が隠されている。いくら習近平が権力集中を進めても、完全な一枚岩というのはあり得ない。様々な権力者、権力機構が、地縁血縁や利益によって結びついた既得権益集団を率いながら、日夜駆け引きを演じている。日本政界の子どもじみた舌戦とはスケールが違う。

そうした政治闘争を背景に、玉石混交の情報が流れ、利益配分のつばぜり合いにしのぎを削っている。だから、権力と権力の隙間を縫うように、言論は活発化する。ある発言が広まると、そのバックにはどんな権力が控えているのか、みなが得られ得るだけの情報を分析し、発言の真意を推し量る。真意を読みそこなうことは、身の危険にもつながるので必死だ。言論の自由とか不自由とかいった次元の話ではない。刺すか刺されるかという政治闘争なのだ。その結果、予期せぬ自由な空間が生まれる。権力闘争の緊張が生む隙間である。

さて、南のはずれ、広東省はもともと、中央で失脚した政治家が島流しされる場所だった。中国語では「流放」という。有名人では唐代の韓愈、宋代には蘇東坡が、広東に放逐された。政治の中心との距離は、逆に独立した精神を生む。迫害された者として、仲間意識も強い。現在でも軍内における広東閥は結束が固く、部外者によるコントロールが難しいとされる。中央政権への忠誠心に欠ける風土がまた、個人の利益を追求する市場経済の原動力となり、自由な言論の雰囲気を作り出している。辺境の歴史的な背景に支えられた独立気風である。

北京、上海、広東の三都市を並べながら、私はこの国をつかみ取ろうとするが、それでもまだ足りない。人口比では1割にもはるかに及ばない。しょせんは三か所に過ぎない。そう考えてあぜんと立ちすくむ。だが、あきらめず、忍耐強く、身の回りの一人一人から、奥深い世界をのぞきこもうと努力する。一生かかっても正解はないだろうと覚悟しながら。だから、現地に足も運ばず、「中国は・・・」とあっさり暴言を吐いている日本人の話を聞くと、その厚顔に対し、同胞として恥ずかしさを禁じ得ないのだ。

(続)

現地を知らずに中国を語る日本人たちにひと言⑥

2017-06-06 00:33:34 | 日記
ビッグ・データ時代を迎え、ジャーナリズムの現場でも、各種データを駆使した報道の可能性がしばしば論じられる。その際、私はしばしば、中国の国内総生産(GDP)成長率に関する報道を引き合いに出す。中国に関しても豊富な経済データが蓄積されているにも関わらず、日本メディアは全体の平均値に過ぎない数字にすがりつき、旧態依然とした思考回路しか持ち合わせない。手っ取り早く色眼鏡にかなったニュースを引き出すことにしか関心がない。

このテーマも前回触れた「中国とは何か」にかかわる。14億人56民族の人口を抱え、面積が日本の25倍にのぼる国をどのようにとらえるか。その心構えが試されている。一億総中流時代の記憶から抜けきれない発想で、この国をとらえようとしても到底無理だ。国と地方という概念自体が誤解のもとなのかも知れない。中国の地方はヨーロッパの一国に匹敵する規模を持ち、地方間の文化格差は、言葉が通じないほどだ。

日本の特派員は付け焼刃的に中国語を勉強し、ろくに中国のなんたるかもわからず、歯車として送り込まれている記者が多い。取材対象に対する深い理解もなく、愛着もない。3年前後の任期を大過なく過ごし、また舞い戻ってくるチャンスを残せればいいと思っている。これで読むに堪え得る記事が書けるはずはない。

2016年のGDP成長率は、物価上昇分を除いた実質で6・7%だった。日本では、色眼鏡に応えるべく、前年比0・2ポイント下がったことに焦点が当てられ、中国の成長減速を下敷きにすることで、場当たり的な記事を作る。だが、この数字そのものにどんな意味があるのか。この国の多様性を想定したうえでの考察はまったくない。



私の授業では、全国GDPの背後に隠された実態に目を向ける。個別の地域をみれば、GDP成長率がなお8%以上の省は12に及ぶ。重慶、貴州、チベットは二ケタ成長を続けている。停滞しているのは国有企業を多く抱えた地域、具体的には重工業地帯の東北三省や石炭に依存する山西省などだ。もはや公的支援では立ち行かなくなっていることを物語る。GDPのトップは広東省だ。一人当たりGDPでも1万ドルを突破している。

金融危機の際、広東省では外資を含む多くの工場が閉鎖、倒産に追い込まれた。国有企業は政府が供出した4兆元で生き延びたが、今やその明暗が逆転している。市場の競争を生き延びた南方の企業の復活は目覚ましい。広東省仏山などの経営者は、これからどんどん発展していくと鼻息が荒い。過剰在庫と負債を抱えた国有企業とは、大きな違いだ。いくら平均値のGDPや成長率をいじりまわしても、こうした地方の実態はまったく見えてこない。

一党独裁によって中央の政策が地方の隅々にまで行き渡っていると、北京の特派員たちは勝手に思い描いているが、とんでもない。あるいはそう思わないと、原稿を書くのに不都合だと判断しているのかも知れない。中国には一人っ子政策という産児制限があるが、私の住んでいる潮汕地区は子だくさんだ。特に男児がいなければ家が存続できないと考えているので、男尊女卑が徹底している。

法は家族を守ってくれない。だから身内の掟を作る。一枚の法律が伝統の力に対抗できるはずはない。為政者の苛政に抵抗し、身を守ってきた家族の歴史がある。文化大革命時にも、人々は目を盗んでご先祖へのお参りを欠かさなかった。権力も、そこまで踏み込めば地雷を踏み、倍以上の反作用が降りかかってくることを知っている。阿吽のさじ加減が存在している。

人間に対する理解は、その中に身を投じなければわからない。冷房のきいた北京のオフィスに腰かけながら語る「中国」には、いかなる真実もない。

改革開放がどのように始まったかを考えればよい。習近平総書記の父、習仲勲が広東省党委書記として赴任し、鄧小平に「独立王国にしてくれ」と権限の委譲を求めたことが土台にある。地方の分権志向、独立志向を理解しないと、この国の発展は読み解くことができない。文革で荒廃した国土を救うための切り札として、なぜこの地が選ばれたのか。それを説明できないまま、記者たちはしたり顔で、改革開放の光と闇を作文している。

既成概念を打ち破るにはこの地しかない・・・指導者たちはこう考えた。もちろん、失敗したら、地方の責任にとどめればいいとの計算もあった。だから国家経済を支えていた上海は、候補から外された。地方の多様性は、全体の微妙なバランスと不可分であることを見失ってはならない。だから単色の色眼鏡ではない、複眼が必要なのだ。

(続)