行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

古今東西に共通するふるさとへの回帰

2016-07-01 16:05:45 | 日記
中国の指導者は今、盛んに「全国民読書」文化を呼びかけている。ある時、中国政府の人物から「中国の若者にどんな本を薦めるか」と尋ねられ、英国作家・ディケンズ(1812~1870)の『クリスマス・キャロル』を挙げた。中国でも商業主義によるクリスマス・イベントが年々派手になっている。富の追求が決して幸福を意味しないという素朴な物語が、信仰の不在が叫ばれる現代社会にとって意味を持つと思った。



改めて気づいたのは、農村、田園が洋の東西を問わず精神の回帰する場所として聖化されているということだ。

同作品の舞台はロンドンの金融街だ。強欲として知られる成金のスクルージーが、精霊によって過去に引き戻される。教会や馬車、さわやかな空気、陽気な歌声のあるふるさと・・・幼少時の風景だ。見慣れた子どもたちの顔がある。「少年たちがそれぞれの家を目指して、十字路や脇道で別れていくたびに、たがいにクリスマスおめでとうと言いかわすのを聞いて、どうして胸がいっぱいになったのだろう?」。だが金もうけにしか興味のなくなった彼は、心を寄せる娘から「あなたの目には、私の愛などもう何の値打ちもなくなってしまった」と冷や水を浴びせかけられる。

中国人の自然への愛着については、作家の林語堂(1895~1976 )が世界的ベストセラー『My country and My people』(1935)の中で明快に語っている。



「芸術、哲学、および生活の中の田園に対する理想は、普通の中国人の意識の中にも深く根を下ろし、今日の民族の健康の大きな要因となっている・・・自然に親しむことは心身を健康に保つことを意味する。頽廃は都会人特有のものであり、農村の人間には無縁の言葉である。だからこそ都市に住む学者や金持ちに自然の叫びが押し寄せてくるのである・・・自然に回帰し、質朴な生活を送ることが最善の道であることを、中国人は本能的に知っていた」

古代から中国の農村は、官界の政争に敗れた知識人、文化人が名声や富貴とは異なる価値、新たな信仰を求めて羽を休める桃源郷だった。土地と自然、庶民に根差した文化を醸成する懐の深さがあった。「田園詩人」と評される陶淵明は、飢えをしのぐため自らを曲げて仕官する生活を捨て、田畑で鍬を振るう清貧の道を選んだ。



「菊を採る 東籬の下」知られる『飲酒』其の五は、ゆったりと暮れていく自然の風景を受け入れ、「此の中に 真意あり」と歌う。

結廬在人境  廬を結んで人境に在り
而無車馬喧  而も車馬の喧しき無し
問君何能爾  君に問ふ何ぞ能く爾るやと
心遠地自偏  心遠く地自づから偏なり
採菊東籬下  菊を採る 東籬の下
悠然見南山  悠然として南山を見る
山氣日夕佳  山気 日夕に佳く
飛鳥相與還  飛鳥 相与に還る
此中有眞意  此の中に真意有り
欲辨已忘言  弁ぜんと欲して已に言を忘る

(小さな庵を結んで人里に住んでいるが、世俗の者が訪れる車馬の音に煩わされることはない、なぜどれができるのかと問われるが、心が名利にとらわれていないので自然に超然としていられるのだ。東側の垣根の下で菊の花を採り、悠然として南山を見れば、山の気配は朝も夕も素晴らしく、鳥たちも巣へと帰っていく。この中にこそ生きている充実がある、言葉にしようとしても、もうどうでもよくなってしまっている)

そして現代。台湾の人気歌手、周傑倫(ジェイ・チヨウ)が作詞作曲した2008年のヒット曲『稲香』には、都会の功利主義から解放されたいと望む若者のふるさと回帰願望が歌われている。



♪(歌詞の一部抜粋)
僕はまだ覚えてる 君が家は唯一の城だと言っていたことを
稲の香りのする河にそって走り続けている
少しほほ笑みながら 小さい頃の夢はわかっている
泣かないで 君はホタルのあとについて逃げ出せばいい 
わらべ歌は永遠の心のふるさと
うちに帰ろう 最初の美しかった頃に戻ろう

今日7月1日は中国共産党創設75周年記念日である。信仰がテーマとなっている。荒廃した農村、農民の心をいかに立て直すかが問われている。

【独立記者論㉖】ジャーナリズムと「監獄の誕生」

2016-07-01 00:15:19 | 独立記者論
言論を捨てた新聞が「国民」を代弁した論をなすことの厚顔無恥を指摘したが、実際、多用されるのは「読者」という言葉である。「読者の求めていること」「読者の立場に立って」、編集の現場はとらえずそうした考え方に立っている。だから社会を騒がせる誤報をした時も、「読者のみなさまにご迷惑をおかけしました」というお詫びの表現となる。

清水幾太郎のジャーナリズム論では、ニュースの作り手だけでなく、読者側からの関与を加え、「新聞と読者の腹の探り合い」と呼ぶ。読者もまた「それこそ印刷された言葉の非人間的な権威によって、あらためてこの方向に自分の気持ちを統一するに違いない。彼の内部に沈んでいた一つの観念が新聞の力を媒介として彼の外部へ躍り出で、彼に向って来る訳である」(『ジャーナリズム』)というのだ。

一つ一つの記事を丹念に調べる時間も余裕もない人々、物事を批判的に見る独立した視点を持っていない人々、記者はしばしば「一般読者」と呼ぶのであるが、彼らは右手に新聞を、左手に先入見を持って社会に向き合う。あらかじめ抱いているイメージに合致する事象をなぞるように記事を読む。所与のイメージもしばしば新聞によって作り上げられたものである場合が多い。こうした「腹の探り合い」によって一つの空気が生まれる。

「それは完全に新聞の責任によるものでもなく、また完全に読者の責任によるものでもない。いわば責任の所在の明らかでない思想や観念が生まれて、新聞と読者とを支配するにいたるのである」と清水幾太郎は言う。

思い浮かべたのは、ミシェル・フーコーが『監獄の誕生―監視と処罰』(田村俶訳、新潮社)の中で取り上げた。ベンサムによって考案された「パノプティコン(一望監視装置)」だ。中央の監視塔を囲む円環状に独房が並び、囚人の動作を絶えず見張ることができる監獄のシステムだ。







独房には外側に窓が設けられ、光が差し込むことによってその中にいる囚人の小さな影がはっきりと見える。逆に囚人たちからは、監視塔内の動きが全くわからないよう窓によろい戸を取り付け、内部は仕切り壁を設け光や音が漏れるのを防ぐ仕掛けがされている。監視は囚人を見ることができるが、囚人は監視を見ることができない。しかも独房は左右を壁で区切られており、他者とも断絶されている。囚人は孤独の中で絶えず見られている受け身の立場に置かれる。フーコーはその効果をこう表現している。

「つまり、権力の自動的な作用を確保する可視性への永続的な自覚状態を、閉じ込められる者に植え付けること」
「この建築装置が、権力の行使者とは独立したある権力関係を創出し維持する機械仕掛になるように、要するに、閉じ込められる者が自らがその維持者たるある権力的状況のなかに組み込まれる」

こうした規律・訓練の申し分ないシステムは、人間と権力との諸関係を規定する一般化可能なモデルとして把握されている。監獄だけでなく、病院や学校においても同様の自覚的な規律・訓練システムが存在している。「新聞と読者の腹の探り合い」に同じ構造を感じ取ったのはそのためだ。

新聞は、いくら記事に匿名を用い、表現をぼかしても、すべてを知っているという「可視性」をもって読者に迫る。読者は記事作成の不透明なプロセスを盲信し、見る立場を放棄して見られるだけの存在に甘んじる。自分の中にある作られたイメージに縛られ、無意識のうちに規律と訓練を受けている。いつの間にか自覚的に新聞の用語や論調を学び、伝えるようになる。

この上に今はインターネット社会が重なっている。状況はさらに複雑だろう。少なくとも可視性、連帯性に大きな変革を加えていることは間違いない。この点については日を改めて考察したい。