新聞社を離れた最大の変化の一つは締め切り時間から解放されたことである。それまでは常に夕刊、朝刊の締め切り時間が心の片隅から内臓全体に巣くっていて、何かニュースに接するたび「締め切りに間に合うか?」と条件反射的に時間を確認するのが習い性となっていた。心置きなく酔えるのは夜中の締め切り後だった。携帯もパソコンもない1980年代までは、締め切りに間に合わせるため、とにかく電話を確保することが事件現場における最重要課題だった。
時間の呪縛から解かれたせいか、気になるのが、駅の階段を上がっていて列車出発のメロディーが鳴ると、ものすごい勢いで駆け出す人がいることだ。以前は日本でも気付かなかったし、中国でもあまり見かけない光景である。数分すれば次の列車が来るのだが、それに乗り遅れたら親の死に目にも会えないと言わんばかりのスピードだ。第一、転んだら自分がケガするし、人にぶつかれば相手を傷つける。ドアに挟まれれば出発時間に影響が出かねない。理性的に考えれば、そこまでのリスクを冒して飛び込むメリットはない。これもまた感覚が優先する条件反射だ。エサがなくとも鈴の音によだれを流す「パブロフの犬」と同じである。
時間というものを考える。人生は限られた時間を生きている。速度は人生の密度を高めのだろうか。時間短縮は効率の面からプラス評価をされても、短縮されなかったゆるやかな時間の効用は捨てても惜しくないのか。時間に支配され、時間の奴隷となった人生に、真の幸福はないだろう。遅刻を勧めているのではなく、時間を点でとらえず、流れを楽しむ生き方もあってよいのではないかと思う。人生はわずかな時間の積み重ねなのだから。時間にルーズな人間はとかく白い目で見られるが、そういう人間に限ってどこか可愛げがある例も多く見てきた。
アメリカの文化人類学者、エドワード・T・ホールの『Beyond Culture』(邦訳『文化を超えて』)に「Pタイム (polychronic time= 多元的時間)」と「Mタイム(monochronic time=単一的時間)」という概念が示されている。人間や文化によって時間のとらえ方が異なる。Mタイム型は、時間軸が連続した一直線で、同時に二つ以上のことを処理するのに向いていないが、物事を順序通りに進め、予定や時間を厳守するタイプ。有能な官僚になるだろう。一方、Pタイム型は、 時間軸が二つ以上あり、複数のことを同時に行い、時間にはルーズだが人間関係を重視するタイプである。どこか抜けているが友達には恵まれている。要するに、時間をとるか人間関係をとるかによる違いだ。
日本人にはどうも前者Pタイプが多いように感じる。いろいろな集まりやイベントで、日本人には「仕事が入っているので」という言い訳が多い。「仕事」はあらゆることに優先する菊の紋所だが、中国人はほとんどそういう言い方をしない。仕事は理由にならないと考えている。友人関係の方が大事だからだ。断る場合でも、家族、あるいは親友とどうにも変えられない先約があるケースで、その理由をあたかも無実の証明のように強調する。
私は1986年、北京で語学留学をしたが、路地裏で道を尋ね、日本からの留学生だとわかると、近所の人や通行人が寄って来て即席の日本語教室が始まるほどだった。高度経済成長に入る前で、人々の生活のテンポはゆっくりとしていた。列車の遅延は日常茶飯だったが、みなが全く意に介さず、この地だけ別の時間が流れているような錯覚を覚えた。
1992年、王府井にマクドナルドができ話題となった。このころから急成長のエンジンが入る。みるみる豊かになったが、時間の流れは速まった。道を尋ねても、忙しそうに去っていく。地下鉄やバスが縦横無尽に走り、メディアが定刻通りの報道で時間の観念を植え付け、徐々に人間が時間に振り回されるのである。倒れた老人を助けようと手を貸したら、逆に「倒された」と訴えられる事件まで起きる、ぎすぎすした社会になってしまった。
マクドナルドは今、中国のあらゆる都市で見られる。アメリカの社会学者、ジョージ・リッツァは『The McDonaldization of Society』1993(邦訳『マクドナルド化する社会』)で、速度を強調する社会を「マクドナルド化」と呼んだ。具体的には、ドライブスルーの受け渡しに象徴される「効率性」、商品の分量や作業の効率などがすべて量で示される「計算可能性」、メニューやサービスがどこでも同じ「予測可能性」、店内ルールの「制御」、調理済み食べ物の販売、受け渡しを合理化したこの四つが概念が特徴である。経済効率を最大化するため時間が最も重視される。
私も高校生時代、新宿歌舞伎町のマックでひたすらポテトを揚げ続けた経験があるので、時間の厳格な管理についてはよくわかる。タイマーで時間が管理され、一定時間を過ぎたものは廃棄される。
こうした技術体系は従業員を管理し、職務を単純化し、最終的には人々を機械に置き換えていく非人間的なシステムだ。私の職場では全員がスマイルのバッジをつけ、店長が「スマイル」と声をかけるのだが、妙に白々しい感じがした。人間性を取り戻す工夫だったのだろうか。個人主義の中国人にはなじまないような気もするが、リッツァは『The McDonaldization Thesis』1998(邦訳『マクドナルド化の世界――そのテーマは何か?』)で以下のように興味深い指摘をしている。
「マクドナルド化を擁護するもうひとつの議論は、これは地元の文化に脅威を与えないというものである。たとえば、中国にマクドナルド化システムが上陸することによって、その文化が急激に変化を強いられたようには思えない。さらに、中国はこのシステムを中国文化に適用して、文化をより地域的なものとするだろう。中国は、間違いなく、自らの文化の痕跡をとどめたマクドナルド化システムを生み出すだろう」
さてどうだろうか。上海のディズニーランドもこうした視点から観察してみると面白いかもしれない。
時間の呪縛から解かれたせいか、気になるのが、駅の階段を上がっていて列車出発のメロディーが鳴ると、ものすごい勢いで駆け出す人がいることだ。以前は日本でも気付かなかったし、中国でもあまり見かけない光景である。数分すれば次の列車が来るのだが、それに乗り遅れたら親の死に目にも会えないと言わんばかりのスピードだ。第一、転んだら自分がケガするし、人にぶつかれば相手を傷つける。ドアに挟まれれば出発時間に影響が出かねない。理性的に考えれば、そこまでのリスクを冒して飛び込むメリットはない。これもまた感覚が優先する条件反射だ。エサがなくとも鈴の音によだれを流す「パブロフの犬」と同じである。
時間というものを考える。人生は限られた時間を生きている。速度は人生の密度を高めのだろうか。時間短縮は効率の面からプラス評価をされても、短縮されなかったゆるやかな時間の効用は捨てても惜しくないのか。時間に支配され、時間の奴隷となった人生に、真の幸福はないだろう。遅刻を勧めているのではなく、時間を点でとらえず、流れを楽しむ生き方もあってよいのではないかと思う。人生はわずかな時間の積み重ねなのだから。時間にルーズな人間はとかく白い目で見られるが、そういう人間に限ってどこか可愛げがある例も多く見てきた。
アメリカの文化人類学者、エドワード・T・ホールの『Beyond Culture』(邦訳『文化を超えて』)に「Pタイム (polychronic time= 多元的時間)」と「Mタイム(monochronic time=単一的時間)」という概念が示されている。人間や文化によって時間のとらえ方が異なる。Mタイム型は、時間軸が連続した一直線で、同時に二つ以上のことを処理するのに向いていないが、物事を順序通りに進め、予定や時間を厳守するタイプ。有能な官僚になるだろう。一方、Pタイム型は、 時間軸が二つ以上あり、複数のことを同時に行い、時間にはルーズだが人間関係を重視するタイプである。どこか抜けているが友達には恵まれている。要するに、時間をとるか人間関係をとるかによる違いだ。
日本人にはどうも前者Pタイプが多いように感じる。いろいろな集まりやイベントで、日本人には「仕事が入っているので」という言い訳が多い。「仕事」はあらゆることに優先する菊の紋所だが、中国人はほとんどそういう言い方をしない。仕事は理由にならないと考えている。友人関係の方が大事だからだ。断る場合でも、家族、あるいは親友とどうにも変えられない先約があるケースで、その理由をあたかも無実の証明のように強調する。
私は1986年、北京で語学留学をしたが、路地裏で道を尋ね、日本からの留学生だとわかると、近所の人や通行人が寄って来て即席の日本語教室が始まるほどだった。高度経済成長に入る前で、人々の生活のテンポはゆっくりとしていた。列車の遅延は日常茶飯だったが、みなが全く意に介さず、この地だけ別の時間が流れているような錯覚を覚えた。
1992年、王府井にマクドナルドができ話題となった。このころから急成長のエンジンが入る。みるみる豊かになったが、時間の流れは速まった。道を尋ねても、忙しそうに去っていく。地下鉄やバスが縦横無尽に走り、メディアが定刻通りの報道で時間の観念を植え付け、徐々に人間が時間に振り回されるのである。倒れた老人を助けようと手を貸したら、逆に「倒された」と訴えられる事件まで起きる、ぎすぎすした社会になってしまった。
マクドナルドは今、中国のあらゆる都市で見られる。アメリカの社会学者、ジョージ・リッツァは『The McDonaldization of Society』1993(邦訳『マクドナルド化する社会』)で、速度を強調する社会を「マクドナルド化」と呼んだ。具体的には、ドライブスルーの受け渡しに象徴される「効率性」、商品の分量や作業の効率などがすべて量で示される「計算可能性」、メニューやサービスがどこでも同じ「予測可能性」、店内ルールの「制御」、調理済み食べ物の販売、受け渡しを合理化したこの四つが概念が特徴である。経済効率を最大化するため時間が最も重視される。
私も高校生時代、新宿歌舞伎町のマックでひたすらポテトを揚げ続けた経験があるので、時間の厳格な管理についてはよくわかる。タイマーで時間が管理され、一定時間を過ぎたものは廃棄される。
こうした技術体系は従業員を管理し、職務を単純化し、最終的には人々を機械に置き換えていく非人間的なシステムだ。私の職場では全員がスマイルのバッジをつけ、店長が「スマイル」と声をかけるのだが、妙に白々しい感じがした。人間性を取り戻す工夫だったのだろうか。個人主義の中国人にはなじまないような気もするが、リッツァは『The McDonaldization Thesis』1998(邦訳『マクドナルド化の世界――そのテーマは何か?』)で以下のように興味深い指摘をしている。
「マクドナルド化を擁護するもうひとつの議論は、これは地元の文化に脅威を与えないというものである。たとえば、中国にマクドナルド化システムが上陸することによって、その文化が急激に変化を強いられたようには思えない。さらに、中国はこのシステムを中国文化に適用して、文化をより地域的なものとするだろう。中国は、間違いなく、自らの文化の痕跡をとどめたマクドナルド化システムを生み出すだろう」
さてどうだろうか。上海のディズニーランドもこうした視点から観察してみると面白いかもしれない。