行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

七夕の夜に・・・「深い根っこへの知識を持たなければならない」内藤湖南

2016-07-07 20:46:53 | 日記
(1年前の今日に書いたブログ)
日本の七夕は中国の戦争記念日 中国の七夕はバレンタインデー
雨模様が続いている。七夕飾りにかけられたカラフルな短冊が雨に濡れないかと心配だ。七夕は「棚機」とも書く。中国ではかつて女性が針仕事が上手になるようにと星に願いをする日だった。「機」がその...


今日は近所の保育園から「♪笹の葉さらさら」と七夕の歌が聞こえてきた。中国人にとって七夕は旧暦で、新暦の7月7日は七七事変、つまり盧溝橋事件の記念日だ。ちょうどよい機会なので、日本人の大きな中国観について最近思ったところを書いてみる。

以前、中国の作家、林語堂(1895~1976)が、英語圏に中国文化を紹介したベストセラー『My country and My people』(1935年)を読んでいて、印象に残る個所があった。林語堂は、中国人を特徴づける性格の一つに、伝統的な生活様式を重んじる保守主義を挙げ、次のように書いていた。



「たとえ共産主義政権が支配するような大激変が起ころうとも、社会的、没個性、厳格といった外観を持つ共産主義が古い伝統を打ち砕くというよりは、むしろ個性、寛容、中庸、常識といった古い伝統が共産主義を粉砕し、その内実を骨抜きにし共産主義と見分けのつかぬほどまでに変質させてしまうことであろう。そうなることは間違いない」

習近平政権の誕生後、「寛容」「中庸」といった伝統思想を強調している現状を思えば、林語堂の指摘は慧眼を備えていたということになる。だが問題は、予想の結果ではなく、そのように中国をみる視点が斬新である点だ。なぜ林語堂の言葉を思い出したかと言えば、京大教授を務めた東洋史学の大家、内藤湖南(1866~1934)の『新支那論』(1924年)を再読していて、似た記述を見つけたからだ。



「支那の社会というものが一種の安全性を持っていて、赤化宣伝等が数年来縷々試みられても、何の効能もないのは、支那に著しい免疫性があるためであって、この根柢は非常に深い。支那のあらゆる事情を知って、そして当面の問題を判断するのは、総て深い根柢に対する知識を持たなければならぬ」
「近頃の支那人の家族破壊論はこれとは違って、支那の家族は儒教の本義から成り立っており、儒教が奴隷主義の道徳だからという点から、家族破壊論を主張するのであるが、それと同時にその間に赤化を目論むものも出来て来たのであって、それらの運動が何等の効力もないというのは、支那の社会組織が進歩した共産的の家族制度から成り立って居るがためである」

当時、北京大学教授の胡適が「漢学の正統は京都かパリにある」と嘆いたほど、内藤湖南が率いる京都大学の中国史研究は評価が高かった。林語堂とは一回り時代がさかのぼるが、中国が孫文の辛亥革命後、なおも国内の統一を果たせず、列強の侵食を許す時代をともに過ごした。誕生間もない共産党の伸長は不明だったが、内藤湖南もまた中国の共産主義化には否定的だった。中央の政治とは距離を置き、家族を中心とする相互扶助の地方自治が根強く残っていることを重く見たのだ。

歴史の深みに焦点を当て、生まれたばかりの赤ん坊のようなイデオロギーである共産主義を過小評価した点で、内藤湖南と林語堂は同じ視点を持っていたと言える。それは勝海舟(1823~1899)が日清戦争後、浮かれる日本人に冷や水を浴びせるように言い放った言葉にも通ずる。



「あの国はなかなかに大きなところがある。支那人は、帝王が代わろうが、敵国が来たり国を取ろうが、ほとんど馬耳東風で、はあ帝王が代わったのか、はあ日本が来て、我が国を取ったのか、などといって平気でいる。風の吹いた程にも感ぜぬ。感ぜぬも道理だ。一つの帝室が亡んで、他の帝室が代わろうが、誰が来て国を取ろうが、一体の社会は、依然として旧態を存しているのだからノー。国家の一興一亡は、象の身体を蚊か虻が刺すくらいにしかかんじないのだ」(『氷川清話』)

表層的な事象にとらわれれず、歴史の中に真実を探そうとした目を持つことのできた日本人は少なかった。残念なのは今、こうしたことを発言する人がますます少なくなっていることだ。隣国に対する視野の狭さにおいては恐らく、鎖国時代に比べても劣るのではないだろうか。

【独立記者論㉗】どうして人間はこれほど服従したがるのか

2016-07-07 16:30:19 | 独立記者論
新聞社を辞めた後、会社を問わず現状に不満、不安を抱えている記者から相談を受けた。知り合いの者もいるし、面識のない人もいた。ある講演会で、終了後、新聞社に内定が決まった学生から「私も辞められる記者になりたいです」と言われて度肝を抜かれたことがある。私はどんな記者にも、私と同じ道を選ぶことは勧めない。よほどの覚悟か経験がなければできないことでsるし、やるべきではない。ただ、次のメッセージは伝えることが出来る。

私は、事実を伝える勇気を忘れ、言論の自由と責任を放棄した職場で仕事を続ける意義を見出せず、27年間勤めた新聞社に辞表を提出した。帰国して、講演会などの場で「中国の共産党政権はいつ崩壊するのか」と質問を受けながら、新聞社に対して抱いた違和感と通ずる、この社会を覆う異様な空気を感じた。どこからそのよな発想が生まれるのか全く理解できない。メディアの報道も大きな要因だろうが、もっと根源的な理由があると感じた。地下に隠された巨大な機械がたえず目に見えない空気を地上に送り込み、人の神経や感覚を麻痺させ、思考を鈍化させているようなイメージが拭い去れない。

その機会を動かしているのは官僚制である。マックス・ウェーバーの定義に従えば、規則によって権限が定められ、上意下達の階層的組織を持ち、専門化による職務分担が文書にもとづいて遂行される、ということになる。試験、資格による組織内競争があり、組織に順応した対価として昇進のインセンティブが与えられることによって忠誠心が養われる。終身雇用や年功序列は官僚制と親和性を持つ。オートメーション化、あるいはインターネットは、官僚組織の部品として固定化された奴隷の地位から人々を解放するかのように期待されたが、むしろある部分においては強化されているのではないか。

新聞社の編集現場で取り交わされている会話、しばしばこそこそ耳打ちのように伝えられるのだが、それを公開したら多くの人々は唖然とするに違いない。権威ある人物の指示に対し、それがいくら不合理、不当なものであっても、なんの躊躇も戸惑いもなく下へ下へと伝言ゲームが繰り返される。言論の自由、社会的な責任や使命とは無縁な事なかれ主義、事大主義、場当たり主義が支配している。

真理を捻じ曲げ、信念を捨て、強者に従うことしかできない人間は、屈服した奴隷に等しい。こういう人間に限って、別の場所では理想を語り、権威主義を振りかざす。周囲は気づいていても何も言わない。抵抗し、反抗に立ち上がる意欲も力も失い、自らが服従していることを忘れてしまうほど、良心が摩耗している。

エーリッヒ・フロムは『心理的、道徳的問題としての反抗』でこう書いている。



「どうして人間はこれほど服従したがるのか。どうして反抗がこれほどに難しいのか。国家、教会、世論などの権力に服従しているかぎり、私は安全であり、保護されているように感じる。実際、自分が服従しているのがどのような権力であろうと、問題ではない。それはつねに、何らかの形で力を行使し、全知全能を詐称する制度、もしくは人間なのである。服従によって、私は自分が崇拝する権力の一部になることができるのであって、そのために自分も強くなったと思うのである。権力が代わりに決定してくれるから、私があやまちを犯すはずはない、権力が守ってくれるから、私が孤独であるはずはない、権力が許さないから、私が罪を犯すはずはない」

自由と独立には責任が伴う。人はその責任を逃れるため、官僚組織の中に逃げ込み、埋没しようとする。厚い空気のベールに囲まれた人々が見る外界は曇っている。真理を追い求めようとする独立した精神が失われているからだ。フロムは、真理にたどりつくためには「惰性の根強い抵抗を克服し、間違いを恐れ群れから離れることを恐れる気持ちを、克服しなければならない」(『預言者と司祭』)と主張する。思想もまた行動を伴わなければ絵に描いた餅に過ぎない。行動の表現方法は様々である。唯一の正解があるわけではない。まずは覚醒から始まる。







日本メディアの中国報道をむしばむ横並び意識の弊害

2016-07-07 15:45:09 | 日記
胡錦濤前総書記の側近だった令計劃・前人民政治協商会議副主席に4日、収賄と国家機密の不法取得、職権乱用の罪で無期判決が言い渡された。令計劃は上訴しない意向を示し刑が事実上確定した。日本の各紙は彼を「団派」(中国共産主義青年団=共青団出身者の派閥)の一員と見立て、習近平総書記が重要人事を決める来年の第19回党大会を前に、団派人脈を牽制したという背景分析をした。



横並びはいつものことだが、その原因は現場の記者が取材をしていないことにある。香港を中心とする海外メディアが流布しているステレオタイプの分析に寄りかかり、当たり障りのない、業界用語でいえば逃げ道を作った、悪く言えば中身の全くない記事を垂れ流している。国家機密が絡むため非公開となったが、国家機密の中身が何なのか、現場記者にしかできない、現場記者だからこそすべき取材の成果が一文字も表れていない。こういうのを東京にいても書ける記事という。新華社通信はネットを開ければ世界のどこでも読むことができる。

そもそも団派という政治派閥は存在していない。共青団は官僚の養成機関に過ぎず、党内での地位は高くない。党内での権威は軍との関係に基礎をおいている。官僚集団が強いものになびくのであって本来、組織としての求心力は弱い。共青団出身の胡錦濤は、李国強首相を後継に推したが、自分自身は典型的な官僚で、権力への執着はそれほど強くない。派閥を率いる力量も器も持っていない。令計劃は胡総書記時代の10年間、秘書役の党中央弁公庁副主任・主任を務めた。中国において秘書は政治家本人と一体である。秘書の失脚は本人の失脚に等しいほど大きな意味を持っている。胡錦濤の権威は地に落ちたのである。だから今さら団派の力を持ち出すのは荒唐無稽だ。

日本メディアの報道に、令計劃が主宰した「西山会」が触れられていないのは最大の見落としである。これこそ政治派閥なのだ。「西山会」はいわゆる山西省出身幹部の県人会に相当する。令計劃も薄熙来も同省の同郷である。令計劃の兄、令政策は前山西省人民政治協商会議副主席で、弟には兄たちの権力をバックに商売をしていた元新華社通信記者の令完成がいる。令完成は、令計劃が不正取得した国家機密を持って米国に逃亡中だ。

令一族は、令計劃の中央での権力を背景に地元で勢力を張り、2007年ごろから地元出身の有力者らによる派閥「西山会」を結成し、石炭産業などの利権で私腹を肥やしていた。毎年3月に人知れぬ場所で会合を持ち、携帯や秘書、愛人まで隔離される秘密保持が貫かれた。固い掟によって結ばれた秘密結社を思わせる組織である。清朝まで中国には社会のアウトサイダーが血の結束で結んだ秘密結社が多数存在していた。孫文も毛沢東もこうしたならず者たちをうまく利用して旧体制に抵抗したのである。

したがって令計劃は表面的に団派としての顔を持ってはいたものの、地方に土着した秘密結社の頭目に近い存在だった。官僚集団ばかりを見てきた胡錦濤はこの点を見逃していた。父親たちの血で血を洗う権力闘争を見聞きして育った習近平ら紅二代からすれば、胡錦濤は子どものような存在である。党内の私的な派閥が党そのものをむしばむ危険を察知した習近平は、反腐敗キャンペーンを使って中央集権を強化している。令計劃の断罪はその大きな節目となる。

党中央は昨年3月、党内の幹部会議で、「周永康と薄熙来、令計劃の三人が2009年に政治連盟を結び、すでに第17回党大会(2007年)で内定していた習近平同志の政権継承を阻止して、第18回党大会で薄熙来政権を誕生させ、令計劃を党中央政治局常務委員入りさせるクーデターを企図した」と報告している。薄熙来、周永康がそれぞれすでに無期懲役の刑に服役中で、今回の裁判は、3人による政治連盟を裁く締めくくりだった。極めて重要な意味を持っていた。習近平がクーデター計画の粉砕にピリオドを打ったのである。

いくら紙面のスペースが狭いからといって、以上のことぐらいは書けるはずだ。