(1年前の今日に書いたブログ)
今日は近所の保育園から「♪笹の葉さらさら」と七夕の歌が聞こえてきた。中国人にとって七夕は旧暦で、新暦の7月7日は七七事変、つまり盧溝橋事件の記念日だ。ちょうどよい機会なので、日本人の大きな中国観について最近思ったところを書いてみる。
以前、中国の作家、林語堂(1895~1976)が、英語圏に中国文化を紹介したベストセラー『My country and My people』(1935年)を読んでいて、印象に残る個所があった。林語堂は、中国人を特徴づける性格の一つに、伝統的な生活様式を重んじる保守主義を挙げ、次のように書いていた。
「たとえ共産主義政権が支配するような大激変が起ころうとも、社会的、没個性、厳格といった外観を持つ共産主義が古い伝統を打ち砕くというよりは、むしろ個性、寛容、中庸、常識といった古い伝統が共産主義を粉砕し、その内実を骨抜きにし共産主義と見分けのつかぬほどまでに変質させてしまうことであろう。そうなることは間違いない」
習近平政権の誕生後、「寛容」「中庸」といった伝統思想を強調している現状を思えば、林語堂の指摘は慧眼を備えていたということになる。だが問題は、予想の結果ではなく、そのように中国をみる視点が斬新である点だ。なぜ林語堂の言葉を思い出したかと言えば、京大教授を務めた東洋史学の大家、内藤湖南(1866~1934)の『新支那論』(1924年)を再読していて、似た記述を見つけたからだ。
「支那の社会というものが一種の安全性を持っていて、赤化宣伝等が数年来縷々試みられても、何の効能もないのは、支那に著しい免疫性があるためであって、この根柢は非常に深い。支那のあらゆる事情を知って、そして当面の問題を判断するのは、総て深い根柢に対する知識を持たなければならぬ」
「近頃の支那人の家族破壊論はこれとは違って、支那の家族は儒教の本義から成り立っており、儒教が奴隷主義の道徳だからという点から、家族破壊論を主張するのであるが、それと同時にその間に赤化を目論むものも出来て来たのであって、それらの運動が何等の効力もないというのは、支那の社会組織が進歩した共産的の家族制度から成り立って居るがためである」
当時、北京大学教授の胡適が「漢学の正統は京都かパリにある」と嘆いたほど、内藤湖南が率いる京都大学の中国史研究は評価が高かった。林語堂とは一回り時代がさかのぼるが、中国が孫文の辛亥革命後、なおも国内の統一を果たせず、列強の侵食を許す時代をともに過ごした。誕生間もない共産党の伸長は不明だったが、内藤湖南もまた中国の共産主義化には否定的だった。中央の政治とは距離を置き、家族を中心とする相互扶助の地方自治が根強く残っていることを重く見たのだ。
歴史の深みに焦点を当て、生まれたばかりの赤ん坊のようなイデオロギーである共産主義を過小評価した点で、内藤湖南と林語堂は同じ視点を持っていたと言える。それは勝海舟(1823~1899)が日清戦争後、浮かれる日本人に冷や水を浴びせるように言い放った言葉にも通ずる。
「あの国はなかなかに大きなところがある。支那人は、帝王が代わろうが、敵国が来たり国を取ろうが、ほとんど馬耳東風で、はあ帝王が代わったのか、はあ日本が来て、我が国を取ったのか、などといって平気でいる。風の吹いた程にも感ぜぬ。感ぜぬも道理だ。一つの帝室が亡んで、他の帝室が代わろうが、誰が来て国を取ろうが、一体の社会は、依然として旧態を存しているのだからノー。国家の一興一亡は、象の身体を蚊か虻が刺すくらいにしかかんじないのだ」(『氷川清話』)
表層的な事象にとらわれれず、歴史の中に真実を探そうとした目を持つことのできた日本人は少なかった。残念なのは今、こうしたことを発言する人がますます少なくなっていることだ。隣国に対する視野の狭さにおいては恐らく、鎖国時代に比べても劣るのではないだろうか。
日本の七夕は中国の戦争記念日 中国の七夕はバレンタインデー雨模様が続いている。七夕飾りにかけられたカラフルな短冊が雨に濡れないかと心配だ。七夕は「棚機」とも書く。中国ではかつて女性が針仕事が上手になるようにと星に願いをする日だった。「機」がその...
今日は近所の保育園から「♪笹の葉さらさら」と七夕の歌が聞こえてきた。中国人にとって七夕は旧暦で、新暦の7月7日は七七事変、つまり盧溝橋事件の記念日だ。ちょうどよい機会なので、日本人の大きな中国観について最近思ったところを書いてみる。
以前、中国の作家、林語堂(1895~1976)が、英語圏に中国文化を紹介したベストセラー『My country and My people』(1935年)を読んでいて、印象に残る個所があった。林語堂は、中国人を特徴づける性格の一つに、伝統的な生活様式を重んじる保守主義を挙げ、次のように書いていた。
「たとえ共産主義政権が支配するような大激変が起ころうとも、社会的、没個性、厳格といった外観を持つ共産主義が古い伝統を打ち砕くというよりは、むしろ個性、寛容、中庸、常識といった古い伝統が共産主義を粉砕し、その内実を骨抜きにし共産主義と見分けのつかぬほどまでに変質させてしまうことであろう。そうなることは間違いない」
習近平政権の誕生後、「寛容」「中庸」といった伝統思想を強調している現状を思えば、林語堂の指摘は慧眼を備えていたということになる。だが問題は、予想の結果ではなく、そのように中国をみる視点が斬新である点だ。なぜ林語堂の言葉を思い出したかと言えば、京大教授を務めた東洋史学の大家、内藤湖南(1866~1934)の『新支那論』(1924年)を再読していて、似た記述を見つけたからだ。
「支那の社会というものが一種の安全性を持っていて、赤化宣伝等が数年来縷々試みられても、何の効能もないのは、支那に著しい免疫性があるためであって、この根柢は非常に深い。支那のあらゆる事情を知って、そして当面の問題を判断するのは、総て深い根柢に対する知識を持たなければならぬ」
「近頃の支那人の家族破壊論はこれとは違って、支那の家族は儒教の本義から成り立っており、儒教が奴隷主義の道徳だからという点から、家族破壊論を主張するのであるが、それと同時にその間に赤化を目論むものも出来て来たのであって、それらの運動が何等の効力もないというのは、支那の社会組織が進歩した共産的の家族制度から成り立って居るがためである」
当時、北京大学教授の胡適が「漢学の正統は京都かパリにある」と嘆いたほど、内藤湖南が率いる京都大学の中国史研究は評価が高かった。林語堂とは一回り時代がさかのぼるが、中国が孫文の辛亥革命後、なおも国内の統一を果たせず、列強の侵食を許す時代をともに過ごした。誕生間もない共産党の伸長は不明だったが、内藤湖南もまた中国の共産主義化には否定的だった。中央の政治とは距離を置き、家族を中心とする相互扶助の地方自治が根強く残っていることを重く見たのだ。
歴史の深みに焦点を当て、生まれたばかりの赤ん坊のようなイデオロギーである共産主義を過小評価した点で、内藤湖南と林語堂は同じ視点を持っていたと言える。それは勝海舟(1823~1899)が日清戦争後、浮かれる日本人に冷や水を浴びせるように言い放った言葉にも通ずる。
「あの国はなかなかに大きなところがある。支那人は、帝王が代わろうが、敵国が来たり国を取ろうが、ほとんど馬耳東風で、はあ帝王が代わったのか、はあ日本が来て、我が国を取ったのか、などといって平気でいる。風の吹いた程にも感ぜぬ。感ぜぬも道理だ。一つの帝室が亡んで、他の帝室が代わろうが、誰が来て国を取ろうが、一体の社会は、依然として旧態を存しているのだからノー。国家の一興一亡は、象の身体を蚊か虻が刺すくらいにしかかんじないのだ」(『氷川清話』)
表層的な事象にとらわれれず、歴史の中に真実を探そうとした目を持つことのできた日本人は少なかった。残念なのは今、こうしたことを発言する人がますます少なくなっていることだ。隣国に対する視野の狭さにおいては恐らく、鎖国時代に比べても劣るのではないだろうか。