行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

【独立記者論15】林語堂著の戦前邦訳版に検閲の削除があったので穴埋めした

2016-01-12 21:35:03 | 独立記者論
林語堂の『支那に於ける言論の発達』(安藤次郎・河合徹訳 1939年12月 生活社刊)を読んでいたら、文章の一部が脱落した空白が見つかった。最初は印刷ミスかと思ったが、明らかに検閲による削除だとわかった。林語堂は個人の自由、特に思想、言論の自由を強く訴え続けた中国の知識人である。彼の著書を多く自著に引用してきた私としては、英文の原書を探し出し、復元しなければならないという気持ちに襲われた。

林語堂は福建のキリスト教牧師の家に生まれ、上海の米ミッション系・聖ヨハネ大学を卒業。米ハーバード大に留学して言語学を専攻した後、北京大学の英語学部教授に就任した。国民党政府にもかかわったが、政治の世界に幻滅して1936年渡米し、中国の文化を世界に発信し続けた。

国会図書館で米国で出版された原書『A HISTORY OF THE PRESS AND PUBLIC OPINION IN CHINA』(1936年)を借り、該当か所を照らし合わせてみた。77年ぶりにの復元作業である。問題か所は第10章の、辛亥革命後、共和国時代(1921年以後)のメディア状況をまとめたものだ。その中に、以下の通り、検閲による削除と思われる空欄が計7か所がある。



ここで一寸附記して置くが、元来、侵略者の希望といふのは、支那の新聞が完全に口を噤むか、如何なることでも唯々諾々として服従するか何れかである。(空欄①18文字分)之を新聞に発表せぬ様に要求した。又その後、(空欄②8文字分)支那民衆に公表せぬ様望んだ。更に(空欄③15文字分)新聞記事差止を要求した。或日、北京の一新聞のあまり目立たない記事に、(空欄④18文字)記事が掲載されたことがあったが。その時、(空欄⑤6文字分)北海の居仁堂を訪問して、支那當局に取っては(空欄⑥3文字分)親善を阻害すると認められるが如き事柄を要求されたのである。要するに(空欄⑦37文字分)然も新聞、電信、ラヂオが存在しない時代の如き無智の中に支那の民衆を置かんとして、支那の新聞の沈黙を要求したのであった。

英文の原文は以下のとおりである。



以下、空欄ごとに空欄の文字数に見合った訳を試みた。

①日本は対支二一か条要求については全て

②塘沽(タンクー)協定について

③察哈爾(チヤハル)に侵攻した日本軍の動向は

④日本軍の察哈爾での動向を伝える小さな

⑤日本の代表は

⑥日支の

⑦日本は北海の少数の役人と結託し、中国の統治権と領土を事実上侵害する目的で、

日本は、第一次世界大戦で欧州列強が中国から後退するのに乗じ、1915年1月、中華民国に対し21か条の権益拡大を要求告した。独が持っていた山東省の権益譲渡や旅順、大連の租借期限及び鉄道権益期限の99年延長、中央政府に日本人顧問を雇用することなどを含んでいた。これが日貨ボイコットなどの抗日運動に火をつける発端となった。
また、中国東北地方での権益拡大を目論む関東軍は1931年9月18日、駐留していた奉天(現・瀋陽)の柳条湖付近で、南満州鉄道の線路を爆破。それを中国側の仕業として東北部全域に軍事行動を拡大し、32年3月、満州国が建国させた。関東軍はその後も華北地方への攻略を企図して中国軍と衝突を繰り返し、蔣介石率いる国民政府との間で結ばれた停戦協定が塘沽協定である。万里の長城の南側を北限とし、北京西郊の昌平から天津の北側に至るエリアを非武装地帯としたが、日本軍は撤兵せず、さらに当時、察哈爾(チヤハル)省と呼ばれた現在の内モンゴル自治区や華北・山西省エリアに侵攻を続け、非武装地帯を延伸させていった。

日本国内では当時、こうした侵略行為は日中での批判を招くとして、公表を伏せたわけである。邦訳本の出版された1939年12月はすでに盧溝橋事件に端を発した満州事変が勃発し、米英との対立を深める中で日中戦争が泥沼化していく時期である。中国における言論弾圧や言論の自由を勝ち取ろうとする知識人の闘いを描いた書で、日本による言論統制の痕跡が残っていたとは皮肉なものだ。と同時、こうした時代背景の中、同書を邦訳するのはさぞ困難だっただろうと関係者の苦労を思わずにはおられない。

以下に、検閲による削除を復元した全訳案を記し、林語堂に対する敬意を表したい。

ここで一寸附記して置くが、元来、侵略者の希望といふのは、支那の新聞が完全に口を噤むか、如何なることでも唯々諾々として服従するか何れかである。日本は対支二一か条要求については全て之を新聞に発表せぬ様に要求した。又その後、塘沽(タンクー)協定について支那民衆に公表せぬ様望んだ。更に察哈爾(チヤハル)に侵攻した日本軍の動向は新聞記事差止を要求した。或日、北京の一新聞のあまり目立たない記事に、日本軍の察哈爾での動向を伝える小さな記事が掲載されたことがあったが。その時、日本の代表は北海の居仁堂を訪問して、支那當局に取っては日支の親善を阻害すると認められるが如き事柄を要求されたのである。要するに日本は北海の少数の役人と結託し、中国の統治権と領土を事実上侵害する目的で、然も新聞、電信、ラヂオが存在しない時代の如き無智の中に支那の民衆を置かんとして、支那の新聞の沈黙を要求したのであった。



【独立記者論14】言論の自由の士として蘇東坡を描いた林語堂

2016-01-02 20:54:33 | 独立記者論
2016年、最初に読んだ本は林語堂『蘇東坡・上下』(合山究訳 講談社学術文庫)だった。蘇東坡が生きた宋代は、地方軍閥の台頭が招いた国内の混乱を鎮めるため、軍事を中心に中央集権化が図られた。皇帝に直言する諫官の制度ができ、科挙によって選ばれた儒者、いわゆる士大夫階級が強い責任感を持って天下国家を語った。范仲淹が「天下を以て己が任となし、天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しまん」と語り、蘇東坡が「人生 字を識るは憂患の始まり」と説いた憂患意識はこうした時代背景のもとに生まれた。

林語堂は同書で、秀でた文人や善政を敷いた官僚としての蘇東坡像に加え、民の声を代弁し、自らを死の危険にさらしてまでも真実を訴える言論の自由の士としての蘇東坡も描いている。口を開かなければならないとき、蘇東坡は「食べ物の中にハエがいたときのように」それを吐き出さずにはおられなかった。朝廷の政策や運営を批判し、「世論をくみ上げる道を持つ」(開言路)を士大夫の使命と心得た。民の負担を増やすことになる王安石の新法を批判する論争の中で、それは遺憾なく発揮された。

天下の秀才として王朝に仕え、まだ30代だった蘇東坡は皇帝への上奏文でこう語った。

「もし陛下がみんなに同じ考えを持たせ、同じ意見を表明させ、宮廷中同じ調子で歌わせたいと思召すならば、だれでもそうすることでしょう。もしも万一、朝廷に仕える者の間に節操のない人間がまじっていたならば、いったいどのようにして陛下はそれを見出そうと思っておいででしょうか」

「自由に批判する風潮が広まると、凡人でさえ思い切ってものを言う気になります。そのような自由が破壊されると、最もすぐれた人々でさえ、口を閉ざしがちになると、私には思われます。今後、この悪習が定着し、諫官が執政に対して追従の徒でしかなくなると、皇帝は人民から完全に孤立するのではないかと、私は懸念しています。ひとたびこの制度が破壊されると、何が起こるかわかりません」

「平和な時に、恐れを知らぬ批判者が朝廷にいなくなると、危急存亡のときに、国のために喜んで命を投げ出す国民的英雄もまたいなくなるという結果をまぬがれることはできません。もし陛下が人民に批判の言葉を一言もお許しにならなければ、いったん緩急の場合、どうして人民が国のために死ぬことを期待できましょうか」

蘇東坡はすでに11世紀初め、異論を廃する独裁の脆弱性を見抜いていた。そして有能な大臣の第一の必要条件として、「独自の思考」と「不偏不党」の二つを主張した。王朝体制を単純に皇帝の非情な独裁と括ることは間違っている。蘇東坡は辛辣な比喩を用い、こう語った。

「人が苦しむとき、その声を主君のお耳に達することができないならば、人は馬と同様である」

「肥えた土地には、種々さまざまの植物が育ちます。だが痩せた土地には同じようにたくさんの色々な植物はみられず、ただうんざりするほど茅(かや)や稗(ひえ)が、一面に広がるばかりだ」

林語堂に言わせれば「言論の自由は、士大夫が独立した思考と勇気ある批判精神を身に着けていない限り、無益であった」のだ。何度も左遷の憂き目を見て、飢えの危険にもさらされ、最後には化外であった海南島への流刑まで受けた。だが人生の晩年には仏教の無に触れ、道教の無為に救われ、「心になんのわだかまりもなくなった。なぜなら、自分の運命と和解し、今やそれを一片の疑いもなく受け入れたからである」との境地に達した。

現代は社会の各層に効率的な中央集権システムを張り巡らせた。だがそこには多種多様な作物に代わって単一の品種が広がっている。一見すると自由な言論があるように錯覚するが、そこには独立した思考も勇気ある批判精神も感じられない。社会は進歩したのか。人は賢くなったのか。従属し、隷属した個々の存在が、大海を漂っている光景が見える。無為の境地に達するにはまだ早い。

【独立記者論13】外灘カウントダウン中止・・・年越しの爆買いは?

2015-12-24 01:27:58 | 独立記者論
上海市副市長で公安局長を兼ねる白少康氏が21日、市政府の定例記者会見で、今年は外灘でのカウントダウンイベントは行わないことを明らかにした。「この点、みなさんにお伝えしておきたい」と念を押した。昨年、不適切な事前広報や不十分な警備によって群衆が混乱し、36人の若い命が奪われた。その背景については拙著『上海36人圧死事件はなぜ起きたのか』で政治、経済、社会、文化と各視点から分析したので多くは触れない。かいつまんで言うと次のようになる。

外灘のカウントダウンは、外灘に並ぶ欧風建築にライトを当て3Dの映像を楽しむ壮大なイベントだ。上海市がニューヨークのタイムズスクウェアにならった国際的なブランドに育てるべく、2010年から行われてきた。2015年は習近平政権の綱紀粛正もあり、公安当局は安全面の不安から開催を躊躇した。その結果、外灘に近い新たに開発された観光スポット「外灘源」で、入場チケット制で継続することになった。国際ブランド戦略と安全を両立させる次善の策だったが、「継続」を重視するあまり「外灘」と「外灘源」の区別があいまいになり、結果的に全くカウントダウン用の警備体制が敷かれていない外灘に群衆が殺到して悲劇を招いた。「外灘源」は上海人にさえなじみがなく、その名前から「外灘」と混同することは当然だった。チケットも関係者向けのみで一般に開放したものでなく、告知が口幅ったいものになったこともお粗末だった。

公安局長が明確に「外灘ではやらない」と述べたことは、前回の教訓からだ。だが事件については一切触れず、「市政府や各区県の党委政府は公共スペースの安全管理を非常に重視している」と述べるにとどまった。前のことを持ち出すのがためらわれるのは、完全な人災だからである。将来的には再開することも見込んでいるだろう。だから「教訓」とは言いたくない。だがこういう場合ははっきり前回の事件に触れ、「十分な安全確保が確認できるまでは再開をしない」と言った方が正直だと思う。官僚臭のプンプンする発言で、事件の風化を待っているような印象を持たれかねない。

当局にコントロールされ、庶民の視点を持ち得なかったメディアの責任も重いが、今回、その反省が全くみられない報道があった。上海の地元大衆紙『新聞晨報』は上海市の正式発表に先立つ19日の一面で、外灘ばかりでなく、観光地の豫園や南京路でもカウントダウンは行われないと伝えた。実はその部分は最後の付け足しで触れられており、前段の内容は、「2016年のカウントダウンのメーンステージは新天地独特の太平湖に置かれた〝水上舞台〟に移る」と、明らかな商業PRだった。ハイテクの映像技術で「またたくような前衛的な雰囲気をかもし、この魅力ある国際都市、上海に生活する人々を表現し、未来に向け熱気を喝采する」と、与えられた広報ペーパーをそのまま書き写した記事である。

中国でも昨今はここまで露骨な広告記事は珍しい。同紙は上海市党委機関紙『解放日報』グループが発行している。『解放日報』は建国前、中国共産党が延安で発行した由緒ある機関紙だ。上海では2013年、同グループともう一つの巨大新聞グループが大合併し、「喉と舌」が一本化された。効率的な統制が競争を奪い、こうした提灯記事を生んでいるとしたら、市場化改革の精神に反する由々しき事態である。

新天地の横にある太平湖は、私が以前、すぐ近くに住んでいたのでよく知っている。再開発によって人工的に作った池である。今年に入り、周辺を鉄柵で囲む工事が始まっていたが、カウントダウンイベントのためかと合点がいった。入場はチケット制で一般には販売しない。12月18日から30日まで、新天地のショッピングモールで1日1688元の買い物をした客に2枚の入場券を渡すという。日本円では3万円ほど。上海市民の旺盛な購買欲を考えると、もう定員に達しているかも知れない。地方から出稼ぎに来ている者たちは排除されざるを得ない金額だ。

前回の教訓を汲むならば、「今年は外灘では行わない」が最も重要なニュースである。それを後回しにして、富裕層向けの商業PRを優先させるメディア、記者には公共心も公益観念もないと言わざるを得ない。良心が感じられない。カウントダウン事件にこだわり、本に書いた私としては、非常に残念である。36人の8割は地方出身者だった。無料で集まることができ、大都会で暮らす帰属意識を共有したいと思い、彼らは寒い夜、外灘に足を運んだ。ふだんは仕事に追われ、孤独な生活を強いられているのである。

もともと外灘での年越しに関心のない上海市民が今、気にかけているのは、市内の主要デパートで行われる年越しのセールだ。大幅に割引されるうえ、自動車や金の延べ板などの超豪華景品が当たるとあって、毎年、多くの人出でにぎわう。まさに爆買いの上海年越し版だ。市公安局長が「万全の安全を尽くす」と公言したため、多数の人間が集まる行事は軒並みチェックが厳しくなる。商業イベントとは言え、こちらは庶民の夢も感じられる。杓子定規に一律自粛では、元旦の年越しも味気ない。「分寸」(さじ加減)が問われるところである。

中国での年越しは旧正月の春節を指す。西暦の年越しが話題になるのは、それだけ国際化が進んでいることにほかならない。だが国際化は見せかけのものであってはならない。いずれにしても上海は中国が世界と歩調を合わせていく上での実験場であることに変わりはない。クリスマスイブもさぞかしにぎやかなことだろう。

【独立記者論12】中国人弁護士・浦志強の開廷前に良心を語った元記者(その3)

2015-12-11 05:02:43 | 独立記者論
「浦志強事件で証言をさせられたのは、どんな体験だったか?」と題する徐凱・元『財経』記者の2本目の文章。日付は2014年7月18日である。

2、西単(シーダン)で鍋を食べようとして、地下鉄出口を出てビルの7階にある「海底撈」に行こうと入口のエレベーターを待っていた。エレベーターの扉が開き、私が入ろうとすると、中から4人の男が出てきた。そのうちの1人が腕で私の首を絞めるようにして、親しげに「徐凱じゃないか、偶然だな!」と言った。会ったこともない男だった。もう1人が私の頭をたたき、「この間は楽しく話したじゃないか。どうして顔を見せないんだよ!」と言った。前回の李だった。4人は笑いながら、「今日は西単をぶらぶらしに来たんだ。まさぴったり徐凱に会うなんて。本当に偶然だよな。今回は上司がボーナスをくれるぞ!」と言い合い、さらに2人が合流し、6人が私を車に押し込んだ。

派出所で聴取が始まった。李が「今日はお前の態度を見ようと思う。だから二つの手続きを用意した」と言って、証人聴取通知書と犯罪容疑者出頭通知書を見せた。彼は「もし協力すれば左の紙を、協力しなければ右の紙を渡す。左は証人、右は容疑者だ」と言った。私は心の中では恐れていた。そこで「じゃあ、何が聞きたいんだ」と言った。

私がまず身分証を見せるよう強く求めると、李は持っていないと言い張り、「お前のような強情な者は初めて見た」と言った。そして「おれの家は北京の郊外にあって、この仕事も大変なんだ。家には老人もいるし。もし病気になったらだれが看病するというのか。自分でみるしかないんだ」、「兄貴はお前のことを思って言ってるんだよ」と、自分を血の誓いをした私の兄貴分であるかのように話しかけてきた。

今回の聴取では、企業の登記記録の閲覧について浦志強と話したことがあるかどうかが中心だった。彼を主犯にしたがっているのだった。私は「記憶がはっきりしない」と主張したが、彼らはそれを認めないので、延々と口論になった。最後は「話したかもしれないし、話さなかったかもしれない」で落ち着いた。家に帰ると明け方の4時だった。午後5時に連行されたので、11時間もたっていた。

(以下は最後の結びである)
今日、この記録を発表するにあたって、ためらいや疑問、恐れがなかったわけではない。一番心配したのは、両親の生活に影響が出ることだった。本当に怖かった。私には両親を守る力がない上に、面倒までかけてしまうのかと。警察に対してはもう何の感情もない。彼らもきっとやならなければならない仕事をしただけなのだろう。ただ私は、浦志強が裁判を受けるのを黙ってみているわけにはいかない。なぜなら私はなぜ最初、大学を退学して改めて法学部に進んだのかをまだ覚えているからだ。どうして卒業したら記者になろうと思ったのかをまだ覚えているからだ。国と社会に対して抱いた夢をまだ覚えているからだ。私が生活をしたいと望む場所においては、家族も友人もみな尊厳を持っている。みながそれぞれ基本的な権利を持っている。こうした場所にあって、どんな者であっても浦志強のように微博の書き込みで人身の自由を失うことがあってはならない。間もなく公判が開かれるのにあたり、北京市第二中級法院の裁判官にこの文章を届けたい。私はまだあなたたちの裁判官としての良心と自負を信じている。(完)


困難な状況だからこそ、良心が試される。少なくとも徐凱氏には「良心」を語る資格が十分ある。彼の勇気に敬意をもって是非、紹介しなければならないと思った文章である。

【独立記者論11】中国人弁護士・浦志強の開廷前に良心を語った元記者(その2)

2015-12-11 03:58:25 | 独立記者論
徐凱・元『財経』記者は、浦志強弁護士が拘束された後の2014年5月19日と7月18日、警察を名乗る男たちから強制的に連行され、聴取を受けた。逮捕容疑にあった違法に個人情報を入手した罪についてだったが、結局、起訴事実には含まれなかった。

「浦志強事件で証言をさせられたのは、どんな体験だったか?」と題する徐凱氏の文章は2回の聴取に分けて書かれている。当時、記録に残しておいたものである。彼はその時点ではすでに同誌を辞し、法律事務所で働き始めていた。大意は以下のとおりである。

1、5月19日午後3時過ぎ、宅配便があるのでビルの下まで取りに来てほしいと電話で連絡を受けた。降りると、3人の男が詰め寄ってきて、さっと警察官証を見せ、「我々は北京市の警察だ。聞きたいことがあるので話を聞かせてほしい」という。私が「これは調査協力なのか、それとも出頭要請なのか」と聞くと、「調査協力だ」という。家族への電話もかせさせてもらえず、私の携帯を奪って、黒塗りの車に押し込まれた。

派出所に行き、「禁煙」と書かれた部屋に入った。1人の警官が煙草を取り出し、私に「吸うか?」と聞いてきた。私は禁煙の表示を指さしたが、彼は笑って、「そんなの関係ない」と自分で火をつけた。もう1人からは「証人聴取通知書」を見せられ、そこには「屈振紅らによる違法個人情報入手罪」と書いてあった。「この罪についてどう思うか」と聞かれたので、「別にない」と答えた。逆に「ら、というのはほかにいるのか」と私が聞くと、「それはあなたには関係ない。自分のことだけ考えていればよい」と言われた。

10分ほどして地下の監視カメラが付いた取調室に移った。(周永康の長男の)周濱の会社の登記記録を調べたことはあるかと聞かれたので、「北京の会社はないが、四川の会社はある」と答えた。「記事を書いたか」という問いに対しては、「四川の会社については書いた」と答えた。(浦志強と同じ弁護士事務所の)屈振紅に登記記録の閲覧を頼んだことがあるかと聞かれたので、浦志強と屈振紅は『財経』の法律顧問なので、調査報道で必要な時は屈振紅にお願いし、その都度、謝礼を支払っていることを説明した。私たちが閲覧できたものには個人情報が含まれていないこと、取材が合法的であることを述べたが、それは調書に残らなかった。

彼らは食事を終えて帰ってきて、我々は最初の禁煙室に戻った。記録された私の供述内容を、自分の字でもう一度書くように言われ、さらに「他人には言わない」「ネットにも書かない」「呼び出しにはいつでも応じる」の三つについて保証書を書くよう言われたので、「もう私の証人としての義務は果たした」と断った。彼らは「今日必ず書くこと。そうしないとここから離れられない」と脅してきた。

「お前の両親は農民だ。大学生を育てるのは容易じゃない。いっそのこと親を訪ねようか。弟も働いているよな。もし弟に何かあったらどうするんだ」「おい、おれがお前の祖先8代までさかのぼってしらべてやるぞ、信じるか?」「お前が書かないなら、上司に書いてもらおうか」「今は証人だが、犯人とそう遠くないぞ。今は任意の取り調べだが、手続きを変えて強制捜査にするぞ」

覚えている彼らの脅し方は以上のようなものだ。私より5歳ほど年上の李という警官は、「じゃあ一緒に来い。被疑者の取調室に行こう」とまで言った。また「お前が崇拝しているあの浦志強も、拘置所の中で書かないでいられるのか?書かなきゃいけないものは書かなきゃいけないんだよ」と言うので、「浦志強は友人で、崇拝しているわけではない。彼が書くのは彼のことで、私が書くのは私のことだ」と言い返した。3時間もたったので彼らも疲れ、QAの形でやり取りを残すことになった。

家に帰って時間を見ると21時53分だった。(続く)