行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

【独立記者論10】中国人弁護士・浦志強の開廷前に良心を語った元記者(その1)

2015-12-11 02:32:16 | 独立記者論
中国の人権派弁護士と知られる北京の浦志強氏(50)に対する公判が14日、拘束から1年7か月ぶりに北京市第二中級人民法院で開かれる。浦志強氏は正義感が強く、熱血漢だ。眼光鋭く、声は野太く、背が高く、髪は五分刈りで、法律家というよりも任侠のイメージが強い。警察による人権侵害の温床となっていた労働矯正制度の被害者を救うなど、当局と正面から対決してきた。彼を慕う人は法曹、法学、メディア界にも多い。

昨年5月3日、仲間十数人と天安門事件25周年を記念する集まりに出かけ、翌日、警察に拘束された。騒動を挑発した容疑と違法に個人情報を入手した容疑で逮捕され、今年の5月18日、騒動を挑発した罪と民族の怨恨を扇動した罪で起訴された。さる8日、同法院で開廷に際しての当事者による事前会議が行われ、罪に問われたのがミニブログ・微博上の7本の書き込みだと示された。

共産党の一党独裁に対しては「(共産)党がなければいけないというのか?アホくさい、なんでいけないとわかるのか?」と罵声を浴びせ、少数民族ウイグル族向に対する宗教統制や同化政策については「漢民族は頭が狂ったのか、あるいは漢民族の頭(トップ)が狂ったのか?!」と批判した、というのだ。直情型の彼は歯に衣着せぬ言い方をし、決して上品な言葉づかいではないが、これだけのことで長期間の拘束と裁判を受けるのは明らかに不当だ。我々の考える法治国家とは言えないので、「違法」だと主張しても始まらない。だからあえて「不当」と言う。

言った内容が問われているのではなく、言った個人が狙い撃ちされ、その言葉に難癖をつけられて裁かれる「文字の獄」である。

日本をはじめ海外が「言論の自由」を主張して中国政府を批判しても、中国側は「内政干渉」を理由に反論する。圧力をかければかけるほど、国家主権とメンツにこだわる中国がますます意固地になるのは目に見えている。だからといって沈黙するのは正義に反する。非常に矛盾した立場に置かれる。しかもメディアとネット規制で実情を伝えられない中国の多くの庶民は、浦志強の名前も知らない。もともと言論の自由がない国である。それは庶民も知っており、半ばあきらめつつ受け入れている。その他の選択肢が見つからないからだ。

彼が不幸にも遭遇した事件の背景には、中央の政治闘争があるとの見方もある。浦志強氏が敵対した公安部門のトップは後に腐敗問題で摘発された周永康・元党中央政法委書記であり、習近平派対公安サイドの対立に巻き込まれた可能性は否定できない。影響力があり、メディアにも取り上げられて目立った彼が狙い撃ちにされたとの見方だ。この点は拙著『習近平の政治思想』に書いたののでここではこれ以上触れない。

単純な筆禍事件でないことは確かだ。言論の自由や法治とは別の、政治の世界で結論が下された事件である。だとすれば証拠や正義ではなくもっぱら権力によってあらかじめ裁かれ事件だということになる。多くの人々が見て見ぬふりをし、しらけるのは、「どうにもならない」と感じ取っているからだ。その人たちを責めることは、安全な場所にいてものを言っている外国人の私にはできない。非常にやるせない気持ちになる。

先ほど外で飲んで家に戻り、ふろに入って寝ようとしたところ、携帯の微信(ウィーチャット)に中国からある知らせが届いた。それを読んだら居ても立っても居られなくなった。浦志強氏が拘束された当時、公安当局から聴取を受けた経済誌『財経』の徐凱・元記者が、口外を禁じられたその経緯を初めて微博で明かしたのだ。

タイトルは「浦志強事件で証言をさせられたのは、どんな体験だったか?」。ごろつき、やくざ者のような警察の取り調べを赤裸々に描き、恣意的な見込み捜査の実態を暴露している。勇気のある行為だ。今になって明らかにしたことに、どんな事情があるのか。チャンスがあったら聞いてみたいが、彼が最後に、「裁判官の良心を信じたい」と締めくくった言葉に胸を打たれたので、概要を日本語で残す意義があると思った。長く司法記者を続けてきた彼は当然、判決がすでに決まっていることを知っている。それでも「信じる」と書いた彼の胸中を察したのだ。(続く)


【独立記者論9】「新聞は社会の公器でなくてはならない」と訴える中国人学者の胸中

2015-11-26 10:40:35 | 独立記者論
広辞苑で「公器」を引くと、「おおやけのもの。公共の機関」とあり、「新聞は社会の――」と用例が示されている。だが今や新聞を「社会の公器」とする社会通念は薄れ、人気就職先ランキング上位からも姿を消した。インターネットの出現で発行部数の拡大が見込めない中、じり貧の危機に直面しているのは世界に共通する新聞業界の課題である。海外ではペーパーがいつ消滅するかという予測まで行われている。

2008年の金融危機後は欧米で新聞社の倒産が相次いだ。経済情勢に左右されやすい広告に収入やすい広告に収入の7~8割を頼っていたためだ。買収によって大資本のコントロールを受ける危険も指摘されている。日本の新聞社は宅配制度による定期購読者が95パーセントを占め、収入の六割に達する販売収入が経営の安定を支えてきたが、そのビジネスモデルがいつまでも続くとは思えない。もっとも多額の不動産収入に頼る新聞社も少なくなく、新聞販売事業だけでは経営が難しい台所事情がある。

日本の新聞は、独占禁止法の適用除外規定で販売価格の統一が認められ、報道による個人情報の取得は個人情報保護法の義務規定を受けない。宅配には関係が薄いが、第三種郵便物として郵送料金も割引されている。新聞記事に対する名誉毀損訴訟においても、記事内容が真実で、公共にかかわり、報道の目的が公益を図るためであると認められれば免責される。「社会の公器」の名が廃れてもなお幅広い優遇措置の恩恵に浴しているのは、無条件に与えられた特権ではない。報道機関が言論の自由、国民の知る権利を体現し、民主主義社会において不可欠な存在だと広く認められているためだ。形の上では私企業であっても、もっぱら営利を追求する一般企業とは異なる。もっとも松下幸之助の言葉を借りれば企業そのものが「社会の公器」であり、「企業は社会とともに発展していくのでなければならない」となる。

忘れかけていた「社会の公器」論を、意外にも北京で手にした『炎黄春秋』11月号で見つけた。元社会科学院新聞研究所長の孫旭培と教え子の中山大学コミュニケーション・デザイン学部准教授、盧家銀が連名で発表した「报纸应该是社会公器」(新聞は社会の公器でなくてはならない)とする寄稿だ。

同寄稿によると、国際共産主義運動史においては、マルクスがドイツ社会民主党を批判した『ゴータ綱領』批判が、彼の死後、党理論誌『新時代』で発表された例を引き、党内における言論の自由が存在していたが、レーニンが第三インターナショナルを設立して後、「各級の党組織に軍規律のような鉄の規律を実行する」との方針が採用され、言論の自由は否定された。

中国では民国時代に発行され、幅広い読者を得た『大公報』が「各党を等しく見て、公民の立場で意見を公表する」「言論による取引はしない」「独立した思考により、盲従をしない」とする編集方針(1926年復刊時)の下、「社会の公器」として力を発揮し、蒋介石も毛沢東も愛読していた。中国共産党史においては、重慶に拠点を置いた『新華日報』が抗日戦争中、庶民の声を重視し「社会の公器」としてのイメージを持ったものの、延安で発行された『解放日報』は「一字一句の独立を認めない」「党紙は党の喉と舌」との立場に立ち、党の宣伝道具と化した。

建国後の1956年7月1日、『人民日報』が「人民日報は人民の公共武器であり、公共財産だ」と社説を掲げ、多様な意見の公表を呼びかけたが、「毛沢東の不評を買って、半年もたたずに元に戻ってしまった」という。1959年冬、河南省信陽地区では大飢饉により100万人が餓死していたにもかかわらず、『河南日報』は計7本、「共産主義に進軍する」とする連載が行われ、「メディアが政治の力に利用され、公器の役割を完全に失う悪い結果を招いた」。2003年、広東省で起きた新型肺炎(SARS)感染の情報隠しもまた、こうした公器の私用化によって起きた。

同寄稿は、歴史の反省に立ち、党機関紙が党内で公器の役割を果たすようにするほか、民間による公共新聞の発行を求めるような政策を求めている。また、中国の世論が、党の意見を代弁する主流メディアと庶民の声を反映するインターネットとに二分されている現状を踏まえ、両者の相互乗り入れを提言している。それは中国共産党が範とするマルクス・エンゲルス思想が「言論出版の自由」を唱えていることにもかなっている、と正論を述べている。

公器という言葉は、2000年以上も前の著作『荘子』に登場している。「名誉は公器であって、一人が多くを占めるものではない。仁義の徳は、先王の宿に泊まるようなもので、折に触れこだわるのはよいが、長くかかわっていると災いとなる」との教えだ。みんなが共有すべき器なのだ。ある特定の組織や団体が占有すべきものではない。孫旭培はそう言っているのに違いない。

一方、言論の自由が憲法で保障されている日本で、新聞が「社会の公器」の役割から遠ざかっているのはなぜなのか。

世界に冠たる新聞王国日本は高度成長期、きめ細かい宅配サービスによって形成された。だが、一億総中流社会と呼ばれ、みなが同じ夢、同じ価値観を追い求めていた時代はとっくに終わった。価値観が多様化し、家族観やライフスタイルも千差万別だ。均質な最大公約数をイメージした大量発行部数時代の紙面作りはもう時代遅れだ。真ん中にあったニーズが両極に広がり、さらに多面化しているにもかかわらず、ひたすら人のいない中間地帯にボールを投げ続けることになりかねない。

だが新聞社内は官僚化し、異なる意見を戦わせる空気は全くない。記者が会社に隷属して独立した思考を持たず、社内では言論の自由が存在していない。事なかれ主義がはびこり、直面している課題に対する全体的な危機感は驚くほど欠けている。その新聞が言論の自由という錦の御旗にすがって「公器」を標榜するのは自己矛盾である。新聞が「社会の公器」から遠ざかっているのは、情報化社会の変化という外部環境の要因に加え、ダブルスタンダードの矛盾に気づかない内部の要因によるところが大きい。内部にいた者として、私はそう感じる。

【独立記者論8】月刊誌『炎黄春秋』で見つけた独立人の良心

2015-11-25 17:51:18 | 独立記者論
胡耀邦生誕100周年記念で放映された中国中央テレビ(CCTV)の記録フィルムで、1982年9月13日付『人民日報』1面に掲載されていた趙紫陽元総書記の名前と写真が外される改ざんが行われていたことはすでに指摘した。当局からすれば、小さな過ちで失脚したものの、それを上回る多大な功績を残した胡耀邦と、学生デモへの武力弾圧を巡って「党分裂」を招く重大な過ちを犯した趙紫陽とを分断させ、趙紫陽の復権は程遠いとクギを刺す意図があったのだと推測される。胡耀邦に対する大幅な名誉回復に乗じ、民主派勢力が勢いづくことを警戒したのだろう。取り越し苦労のように思えるが、自信がないことの裏返しだ。

天安門事件に直接かかわる趙紫陽には厳格に処分し、その分、胡耀邦を復権させて民主派勢力を分断させるやり口だ。こうした歴史的評価が固定化してしまうことを民主派知識人たちは警戒する。彼らにすれば、胡耀邦から趙紫陽に開明的な民主化路線が引き継がれ、それが天安門事件前夜の大衆的なうねりに発展した歴史の連続性が重要だ。小平ら保守派長老が学生の民主化要求デモを「反革命暴乱」と認定し、武力鎮圧を正当化した歴史的評価は受け入れられない。

常務委員7人が顔そろえ、破格の扱いだった今回の胡耀邦生誕100周年記念は、習近平の強い思いとそれを実現させる力がなければできなかった。と同時に、出席していない顔ぶれにも注目する必要がある。胡耀邦、習仲勲と並ぶ開明的な指導者として知られる万里・元人民代表大会常務委員長の四男、万季飛・元国際貿易促進委員会会長の姿はあったが、胡耀邦追い落としを主導した小平、薄一波、陳雲ら保守派長老の家族は出席していない。党内が必ずしも一致していないことを物語る。強い習近平の裏にはもろさが隠されていることも留意すべきだ。表向きは自信を語っているが、実態は伴っていない。

一方、「趙紫陽」の名前を堂々と載せているメディアがあることも忘れてはならない。民主派知識人が中心となり、党史の闇に光を当てようとしている歴史月刊誌『炎黄春秋』だ。同誌は天安門事件後、国際的に孤立する中国の良心を内外に示そうと創刊された。A4版計96ページで定価10元(約190円)。中国共産党や党指導者の歴史、事跡について、当事者が自身の経験を回顧した原稿を中心に毎号約20本掲載する。権力闘争の暗部や過去の失策などに焦点を当て、暗に現在への反省を求める内容が多い。書店にはほとんど置かれていないが、国内外の定期購読によって発行部数は20万部に及ぶ。


『炎黄春秋』11月号には7月15日に他界した万里を追悼する胡啓立・元党常務委員の口述「巍巍万里」(壮大なる万里)が巻頭に掲載されているが、その中で「解決水荒、趙紫陽批示;請万里同志定」との見出しが見える。天津市長だった胡啓立が1981年夏、天津を襲った干ばつによる水不足で河北省の貯水庫に頼ろうと中央の支援を仰いだところ、胡耀邦総書記が許可をし、趙紫陽首相が「(土木問題に詳しい)万里副首相に諮るように」と指示したとの回顧録だ。

同口述には次の一文もある。

「1980年代、改革開放の大きな潮流の中、小平は最高指導者として指揮し、胡耀邦と趙紫陽は協力して対応し、互いに連携を取った。万里は勇敢に先頭に立ち、道を切り開く先兵の役割を果たした」

歴史の改ざん、ねつ造に断固として抗し、真実を語り継ごうとする決意、歴史に対する誠実さと責任感がある。独立した一人の人間、知識人としての良心である。胡耀邦も趙紫陽も個人としては欠点や弱さがある。そうした個性を過大評価して攻撃するのはフェアではない。歴史の流れにおいて個人が残した事績を正しく評価すべきである。


同誌11月号には王海光・元中央党校教授の寄せた『如何研究胡耀邦』の論文もある。胡耀邦が、中国の伝統的な文化の中にある偉人崇拝の流れに反し、事実に基づいて真理を探究する探求実事の姿勢を貫いたこと、人民の側に立った平等、公正な改革、世界への開放といった現代文明の価値観を持ったこと、趙紫陽とともに市場経済、民主政治の道を断固として進む改革派の代表だったことなどが指摘されている。

同論文はさらに、「胡耀邦、趙紫陽の二人の総書記が失脚したのは、もとよりイデオロギー対立があったものの、より根本的なのは特権集団との利益の衝突であり、社会の民衆もこうした特権集団に多くの意見があり、何度かの学生運動もこれと関連している。胡、趙の両総書記が失脚した後、政治体制改革は停滞し、近代化を進める政治、経済の両輪は一つを欠いてしまった。経済社会の発展はバランスを崩し、GDPの経済指標によって膨れ、足元がぐらついた巨人になり、近代化の目標から遠ざかるばかりだ」と述べ、「30年前に提起した『権力が大きいか、法が大きいか』の問題が今なおはっきりしていないのは、歴史の悲哀と言うしかない」とまで言い切っている。

同号には、胡耀邦、趙紫陽の開明的な改革思考によって1980年代前半、やりがいのある仕事ができ「春」を感じたという元『人民日報』記者、季音の寄稿や、1988年、趙紫陽が改革・開放政策によって浮上した党内腐敗に警鐘を鳴らした事績を振り返る趙紫陽の元秘書、季樹橋の回想録も収録している。

独立した思考に基づいて異なる意見を戦わせ、より正しい真理にたどり着くのは洋の東西を問わない定理である。胡耀邦が残した教訓を、『炎黄春秋』は忠実に継承していると言うべきだろう。ますますか細くなっている伝統だが、強さは増していると信じたい。

胡耀邦は、習近平の父・習仲勲を冤罪から救った恩人である。『炎黄春秋』もまた習仲勲が強く支持し、亡くなる前年の2001年、創刊10周年を祝って「いい雑誌だ」と筆書きのメッセージを贈っていることも付記しておきたい。

【独立記者論7】知識人の良心とは何か?・・・真実を語ること(完)

2015-11-12 18:59:51 | 独立記者論
中国の知識人がしばしば巴金の「講真話」(真実を語る)を座右の銘としていることはすでに述べた。苦難の歴史を経て、今なおそれが難しい世の中で生きている者たちの決意である。それは知識人にとって最低限の良心と言える。

では「良心」とは何か?

その解釈としてまず参照すべきは性善説に立つ『孟子』である。「告子 章句・上」には、人が本来備えている「仁義の心」として「良心」が挙げられている。木々の茂った美しい山が、乱伐によってはげ山となってしまった。山は本来美しかったはずだ。悪いのは斧やまさかりで木を切ってしまったことだ。人間が生まれながらにして持っている本性は清新な朝日のように善である。その後行いが精気を濁らせ、目を曇らせてしまう。孟子はそう言っている。

『孟子』「公孫紐 章句・上」には良心の四つのかたちが示される。人に同情し忍びないと思う惻隠の情、自分の悪を羞じる羞恥の心、謙遜の心、正しく善悪の判断をわきまえる是非の心。惻隠の情は仁の端緒、羞恥の心は義の端緒、謙遜の心は礼の端緒、是非の心は智の端緒、これを四端と呼ぶ。良心を芽生えさせるための手がかりだ。良心は天から生まれつき与えられているので、心を尽くせばおのずと萌芽する。邪魔をするのは、外界の事物に容易に翻弄される耳や目の感覚、金品や名誉、虚栄といった感覚的な欲望である。それを節制するのが、考える機能を持った「心の官」すなわち良心だとする。

生まれながらの状態を「良」とするのは人間に対する楽観的な見方だ。『孟子』が生来備わっている知恵を良知と呼ぶのと同様である。社会生活を送る中で様々な欲望に幻惑され、慣習に縛られ、真の心に曇りが生じる。無垢な正直さが失われ、ウソ偽りに流されていく。「講真話」は言うまでもなくあるべき良心に立ち返ることを唱えている。すでに社会の中に組み込まれ、組織に縛られた個人にとって、それは至難だ。だから「難しい!」と悲痛な叫びが上げるしかない。

無垢な人間の姿を理想とし、人間に対する楽天的な見方は、フランスの思想家、ジャン=ジャック・ルソーにも通ずる。孤児、召使、犯罪者となり、迫害を受けて放浪を続け、栄華とどん底を経験したこの思索家がたどりついたのも、子どものような自然な心である。「教育とは子どもの進歩と人間の心の自然の歩みに従うべきだ」。ルソーは『エミール』でこう言っている。子どもは教師の道具ではなく自然の一部となる。自然の声として魂に宿るのが良心だ。同書でサヴォワ人副司祭はこう語る。

「良心は決して欺かない。それは人間の本当の案内者だ。良心は魂に対して、本能が肉体に対するのと同じ関係にある。良心に従うものは、自然に服従しているのであり、迷うことをおそれる必要はない」

ルソーは「神は私に、善を愛すために良心を、善を知るために理性を、善を選ぶために自由を与えた」といい、その良心に従い、「真理のために生命を捧げる」と誓った。子どもも善への愛と悪への憎しみは知っている。それは自分を愛することと同じように自然なことだ。子どもへの限りない哀惜は、5人の子どもを捨てた懺悔に裏打ちされた肺腑をえぐる絶唱でもあるのだろう。だが自己愛が拡大し、増殖し、他人と自分を比べ競争心や羨望、虚栄心が生まれると人は鎖につながれた奴隷となる。ではどうすればいいのか。

「人間の弱さはどこから生じるのか。その力と欲望との間に見られる不平等から生じる。私たちを弱いものにするのは、私たちの情念である。それを満足させるには、自然に私が与えている以上の力が必要となる。だから欲望を減らせばいい」

ルソーの言葉はそのまま『孟子』の中においても違和感はない。神の存在と不可分な西洋と、神を遠ざけ、人間と人生に対する飽くなき関心に支えられた中国の思索が、2000年の歳月を隔て、等しく良心=conscienceを探し当てたのは驚くべきことだ。いずれも利が幅を利かせ、真理がゆがめられていた社会から生まれた思索であることを思えば、「講真話」の精神は人類が歴史から学んだ今なお生きる教訓である。

ルソーはフランス革命を生み、日本の自由民権運動や辛亥革命にも影響を与えた。フランス革命が生んだ『人権宣言』は正しくは『人間と市民の権利宣言』であり、人間の中でも市民=中産階級を特別視する思想が含まれている。この点、ルソーの良心は貫徹されていない。自由民権運動も、辛亥革命が生んだ孫文の三民主義も民族の救済=愛国が先決とされ、個人は置き去りにされた。中国の共産党政権はその後、人民=無産階級という新たな概念を取り入れ、公民の伸張を妨げたままだ。

若干、脱線したのでこれは日を改めて考えることにする。「講真話」が、人間が本来持っている魂の声である良心の叫びであることを言いたかっただけである。

 ◇ ◇ ◇

本日、29日の胡耀邦生誕100周年記念講演会会場となる日大経済学部の教室を下見した。実に素晴らしい教室である。お骨折りを頂いた曽根康雄教授に感謝申し上げたい。

【独立記者論6】知識人の良心とは何か?・・・真実を語ること(まだ続く)

2015-11-11 09:50:57 | 独立記者論
『孟子』とルソーの良心論に入る前に、もう一つ、真実を語ることの難しさに触れなくてはいけない。肝心な人物を忘れていた。魯迅である。まずは『魯迅全集2』(人民文学出版社)に収められている短編『立論』を以下に全訳する。


私は夢の中で、小学校の授業で作文を書こうとして、先生に立論の方法を尋ねた。
「難しい!」。先生は眼鏡をずらして射るように私を見つめて言った。「君にひとつお話をしよう--」

ある家に男の子が生まれ、一族が大喜びした。満一か月を迎えたお祝いをした際、家の者が赤ん坊を抱いて来客に見せた--当然のことながらめでたいことをみんなに祝ってもらおうと思ったのだろう。
ある客は『この子はやがて金持ちになりますよ』と言ったため、家人から感謝された。
ある客は『この子はやがて仕官しますよ』と言ったため、お返しにお世辞を受けた。
ある客は『この子はやがて死ぬんだ』と言ったため、家じゅうの者から袋だたきに遭った。
やがて死ぬと言うのは当たり前であって、富貴になると言うのはウソかも知れない。だがウソを言った者はよい目を見て、当たり前のことを言った者は殴られる。君は・・・。

そう問われた私は答えた。
「私はウソもつきたくないし、殴られるのも嫌です。それならば先生、どう言えばいいのでしょうか?」
すると先生は答えた。
「それなら、君はこう言うしかない。『あらあら、この子は!ほら、なんて・・・。いやはや!ハハハ!へへ!ヘッ、ヘッヘッヘッ』」


中国ではしばしば、本音を言うことの是非を論じる場合に引用される文章だ。TPOをわきまえて話すべきだなどと正論を並べるのは筋違いだ。魯迅はマナー講座をしているわけではなく、真実を語ることについて、教師に「難しい!」と言わせたのだ。教師はすなわち魯迅自身である。

人は最初から大きなウソをつくわけではない。世間のしがらみや人情、慣習にがんじがらめにされ、身動きの取れない社会で生きている。個人はその中で賢く振舞うためのの知恵を身につける。巧みにウソをつく技を磨いていく。ありもしない全体意思のために個人の意思はかき消され、気が付くと見の回りはウソで塗り固められ、それをウソだと感じることもないほど慣れてしまっている。「慣習」とか「空気」と呼ばれる抗しがたい力だ。個人は社会に従属し、個性は埋没し、独立が失われる。社会がどこに向かおうとしているのか。それを真に問おうとすれば、「この子はやがて死ぬんだ」と本当のことを言った客のように袋叩きに遭うことになる。

この文章が書かれたのは魯迅が北京に住んでいた1925年7月8日だ。魯迅らが中心となって民主と科学を訴えた五・四運動(新文化運動)からは6年が過ぎている。孫文がこの年の3月に死去し、5月には上海の南京路で五・三〇事件が起きた。日系など外国資本の搾取に抗議する中国人労働者のデモが英国の警察から発砲を受け、死傷者を出した事件だ。国内の混乱に乗じて列強の影が濃くなり、屈辱と繁栄が交錯していた時代である。多くの人が目の前の不正義を見て見ぬふりで通り過ぎていた。当たり前のことを言うことが「難しい!」社会だったのだ。

魯迅はまた1936年、日本の雑誌『改造』(4月号)に求められ、『私は人をだましたい』と題する評論文を書いた。すでに満州事変が勃発し、当時、魯迅が移り住んでいた上海にも日本軍の進駐が始まっていた。検閲下の日本の雑誌に、侵略を受けている中国人に何を書けというのか。原稿用紙8枚ほどの短文に計4か所伏字がされた。

魯迅は同文のなかで、水害の義援金を募る少女に1円を渡したことを書いた。難を逃れようと安全な場所を見つけた人々は、治安が悪化するといって機関銃でその場を追われた。おそらくみな死んでしまっただろう。1円は水利局の役人の1日分のたばこ代にもならない。だが魯迅は、天真爛漫な少女が失望する顔を見たくないがために、1円で彼女の悦びを買った、と告白する。そして次のように、その文章を書いている行為そのものを問う。

何か書けと言われたから礼儀上「はい」と答えた。「はい」というたから書いて失望させないようにしなければならないようになったが、つまる処やはり人だましの文章である。こんなものを書くにも大変良い気持でもない。いいたいことは随分あるけれども「日支親善」のもっと進んだ日を待たなければならない。(中略)自分一人の杞憂かも知らないが、相互に本当の心が見え瞭解(りょうかい)するには、筆、口、あるいは宗教家のいわゆる涙で目を清すというような便利な方法が出来ればむろん大いに良いことだが、しかし恐らくかかることは世の中に少ないだろう。哀しいことである。出鱈目のものを書きながら熱心な読者に対してすまなくも思った。(岩波文庫『魯迅評論集』)

平和な現代において、知識人は同じ覚悟を持ち得るだろうか。自分を偽り、人をだますことを生業としている者はあまりにも多い。もしかすると本人はだましているという自覚さえないほど感覚がマヒしている。私も例外ではなかったことを認める。血を吐きながら「講真話」(真実を話す)ことと向き合ってきた先人の歩みをいま少し、振り返るべきだ。良心は本来、人に備わっているものである。

魯迅は同文をこう締めくくっている。

「終りに臨んで血で個人の予感を書添えて御礼とします。」

翌年、北京で盧溝橋事件が起き、日中は全面戦争へと突入する。「血の予感」は的中した。多くの人がだまし、だまされた末路である。すべては小さなウソから始まったとすれば、教師が漏らした「難しい!」は、途方もない重みをもって我々にのしかかっている。