中国の人権派弁護士と知られる北京の浦志強氏(50)に対する公判が14日、拘束から1年7か月ぶりに北京市第二中級人民法院で開かれる。浦志強氏は正義感が強く、熱血漢だ。眼光鋭く、声は野太く、背が高く、髪は五分刈りで、法律家というよりも任侠のイメージが強い。警察による人権侵害の温床となっていた労働矯正制度の被害者を救うなど、当局と正面から対決してきた。彼を慕う人は法曹、法学、メディア界にも多い。
昨年5月3日、仲間十数人と天安門事件25周年を記念する集まりに出かけ、翌日、警察に拘束された。騒動を挑発した容疑と違法に個人情報を入手した容疑で逮捕され、今年の5月18日、騒動を挑発した罪と民族の怨恨を扇動した罪で起訴された。さる8日、同法院で開廷に際しての当事者による事前会議が行われ、罪に問われたのがミニブログ・微博上の7本の書き込みだと示された。
共産党の一党独裁に対しては「(共産)党がなければいけないというのか?アホくさい、なんでいけないとわかるのか?」と罵声を浴びせ、少数民族ウイグル族向に対する宗教統制や同化政策については「漢民族は頭が狂ったのか、あるいは漢民族の頭(トップ)が狂ったのか?!」と批判した、というのだ。直情型の彼は歯に衣着せぬ言い方をし、決して上品な言葉づかいではないが、これだけのことで長期間の拘束と裁判を受けるのは明らかに不当だ。我々の考える法治国家とは言えないので、「違法」だと主張しても始まらない。だからあえて「不当」と言う。
言った内容が問われているのではなく、言った個人が狙い撃ちされ、その言葉に難癖をつけられて裁かれる「文字の獄」である。
日本をはじめ海外が「言論の自由」を主張して中国政府を批判しても、中国側は「内政干渉」を理由に反論する。圧力をかければかけるほど、国家主権とメンツにこだわる中国がますます意固地になるのは目に見えている。だからといって沈黙するのは正義に反する。非常に矛盾した立場に置かれる。しかもメディアとネット規制で実情を伝えられない中国の多くの庶民は、浦志強の名前も知らない。もともと言論の自由がない国である。それは庶民も知っており、半ばあきらめつつ受け入れている。その他の選択肢が見つからないからだ。
彼が不幸にも遭遇した事件の背景には、中央の政治闘争があるとの見方もある。浦志強氏が敵対した公安部門のトップは後に腐敗問題で摘発された周永康・元党中央政法委書記であり、習近平派対公安サイドの対立に巻き込まれた可能性は否定できない。影響力があり、メディアにも取り上げられて目立った彼が狙い撃ちにされたとの見方だ。この点は拙著『習近平の政治思想』に書いたののでここではこれ以上触れない。
単純な筆禍事件でないことは確かだ。言論の自由や法治とは別の、政治の世界で結論が下された事件である。だとすれば証拠や正義ではなくもっぱら権力によってあらかじめ裁かれ事件だということになる。多くの人々が見て見ぬふりをし、しらけるのは、「どうにもならない」と感じ取っているからだ。その人たちを責めることは、安全な場所にいてものを言っている外国人の私にはできない。非常にやるせない気持ちになる。
先ほど外で飲んで家に戻り、ふろに入って寝ようとしたところ、携帯の微信(ウィーチャット)に中国からある知らせが届いた。それを読んだら居ても立っても居られなくなった。浦志強氏が拘束された当時、公安当局から聴取を受けた経済誌『財経』の徐凱・元記者が、口外を禁じられたその経緯を初めて微博で明かしたのだ。
タイトルは「浦志強事件で証言をさせられたのは、どんな体験だったか?」。ごろつき、やくざ者のような警察の取り調べを赤裸々に描き、恣意的な見込み捜査の実態を暴露している。勇気のある行為だ。今になって明らかにしたことに、どんな事情があるのか。チャンスがあったら聞いてみたいが、彼が最後に、「裁判官の良心を信じたい」と締めくくった言葉に胸を打たれたので、概要を日本語で残す意義があると思った。長く司法記者を続けてきた彼は当然、判決がすでに決まっていることを知っている。それでも「信じる」と書いた彼の胸中を察したのだ。(続く)
昨年5月3日、仲間十数人と天安門事件25周年を記念する集まりに出かけ、翌日、警察に拘束された。騒動を挑発した容疑と違法に個人情報を入手した容疑で逮捕され、今年の5月18日、騒動を挑発した罪と民族の怨恨を扇動した罪で起訴された。さる8日、同法院で開廷に際しての当事者による事前会議が行われ、罪に問われたのがミニブログ・微博上の7本の書き込みだと示された。
共産党の一党独裁に対しては「(共産)党がなければいけないというのか?アホくさい、なんでいけないとわかるのか?」と罵声を浴びせ、少数民族ウイグル族向に対する宗教統制や同化政策については「漢民族は頭が狂ったのか、あるいは漢民族の頭(トップ)が狂ったのか?!」と批判した、というのだ。直情型の彼は歯に衣着せぬ言い方をし、決して上品な言葉づかいではないが、これだけのことで長期間の拘束と裁判を受けるのは明らかに不当だ。我々の考える法治国家とは言えないので、「違法」だと主張しても始まらない。だからあえて「不当」と言う。
言った内容が問われているのではなく、言った個人が狙い撃ちされ、その言葉に難癖をつけられて裁かれる「文字の獄」である。
日本をはじめ海外が「言論の自由」を主張して中国政府を批判しても、中国側は「内政干渉」を理由に反論する。圧力をかければかけるほど、国家主権とメンツにこだわる中国がますます意固地になるのは目に見えている。だからといって沈黙するのは正義に反する。非常に矛盾した立場に置かれる。しかもメディアとネット規制で実情を伝えられない中国の多くの庶民は、浦志強の名前も知らない。もともと言論の自由がない国である。それは庶民も知っており、半ばあきらめつつ受け入れている。その他の選択肢が見つからないからだ。
彼が不幸にも遭遇した事件の背景には、中央の政治闘争があるとの見方もある。浦志強氏が敵対した公安部門のトップは後に腐敗問題で摘発された周永康・元党中央政法委書記であり、習近平派対公安サイドの対立に巻き込まれた可能性は否定できない。影響力があり、メディアにも取り上げられて目立った彼が狙い撃ちにされたとの見方だ。この点は拙著『習近平の政治思想』に書いたののでここではこれ以上触れない。
単純な筆禍事件でないことは確かだ。言論の自由や法治とは別の、政治の世界で結論が下された事件である。だとすれば証拠や正義ではなくもっぱら権力によってあらかじめ裁かれ事件だということになる。多くの人々が見て見ぬふりをし、しらけるのは、「どうにもならない」と感じ取っているからだ。その人たちを責めることは、安全な場所にいてものを言っている外国人の私にはできない。非常にやるせない気持ちになる。
先ほど外で飲んで家に戻り、ふろに入って寝ようとしたところ、携帯の微信(ウィーチャット)に中国からある知らせが届いた。それを読んだら居ても立っても居られなくなった。浦志強氏が拘束された当時、公安当局から聴取を受けた経済誌『財経』の徐凱・元記者が、口外を禁じられたその経緯を初めて微博で明かしたのだ。
タイトルは「浦志強事件で証言をさせられたのは、どんな体験だったか?」。ごろつき、やくざ者のような警察の取り調べを赤裸々に描き、恣意的な見込み捜査の実態を暴露している。勇気のある行為だ。今になって明らかにしたことに、どんな事情があるのか。チャンスがあったら聞いてみたいが、彼が最後に、「裁判官の良心を信じたい」と締めくくった言葉に胸を打たれたので、概要を日本語で残す意義があると思った。長く司法記者を続けてきた彼は当然、判決がすでに決まっていることを知っている。それでも「信じる」と書いた彼の胸中を察したのだ。(続く)