行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

【独立記者論12】中国人弁護士・浦志強の開廷前に良心を語った元記者(その3)

2015-12-11 05:02:43 | 独立記者論
「浦志強事件で証言をさせられたのは、どんな体験だったか?」と題する徐凱・元『財経』記者の2本目の文章。日付は2014年7月18日である。

2、西単(シーダン)で鍋を食べようとして、地下鉄出口を出てビルの7階にある「海底撈」に行こうと入口のエレベーターを待っていた。エレベーターの扉が開き、私が入ろうとすると、中から4人の男が出てきた。そのうちの1人が腕で私の首を絞めるようにして、親しげに「徐凱じゃないか、偶然だな!」と言った。会ったこともない男だった。もう1人が私の頭をたたき、「この間は楽しく話したじゃないか。どうして顔を見せないんだよ!」と言った。前回の李だった。4人は笑いながら、「今日は西単をぶらぶらしに来たんだ。まさぴったり徐凱に会うなんて。本当に偶然だよな。今回は上司がボーナスをくれるぞ!」と言い合い、さらに2人が合流し、6人が私を車に押し込んだ。

派出所で聴取が始まった。李が「今日はお前の態度を見ようと思う。だから二つの手続きを用意した」と言って、証人聴取通知書と犯罪容疑者出頭通知書を見せた。彼は「もし協力すれば左の紙を、協力しなければ右の紙を渡す。左は証人、右は容疑者だ」と言った。私は心の中では恐れていた。そこで「じゃあ、何が聞きたいんだ」と言った。

私がまず身分証を見せるよう強く求めると、李は持っていないと言い張り、「お前のような強情な者は初めて見た」と言った。そして「おれの家は北京の郊外にあって、この仕事も大変なんだ。家には老人もいるし。もし病気になったらだれが看病するというのか。自分でみるしかないんだ」、「兄貴はお前のことを思って言ってるんだよ」と、自分を血の誓いをした私の兄貴分であるかのように話しかけてきた。

今回の聴取では、企業の登記記録の閲覧について浦志強と話したことがあるかどうかが中心だった。彼を主犯にしたがっているのだった。私は「記憶がはっきりしない」と主張したが、彼らはそれを認めないので、延々と口論になった。最後は「話したかもしれないし、話さなかったかもしれない」で落ち着いた。家に帰ると明け方の4時だった。午後5時に連行されたので、11時間もたっていた。

(以下は最後の結びである)
今日、この記録を発表するにあたって、ためらいや疑問、恐れがなかったわけではない。一番心配したのは、両親の生活に影響が出ることだった。本当に怖かった。私には両親を守る力がない上に、面倒までかけてしまうのかと。警察に対してはもう何の感情もない。彼らもきっとやならなければならない仕事をしただけなのだろう。ただ私は、浦志強が裁判を受けるのを黙ってみているわけにはいかない。なぜなら私はなぜ最初、大学を退学して改めて法学部に進んだのかをまだ覚えているからだ。どうして卒業したら記者になろうと思ったのかをまだ覚えているからだ。国と社会に対して抱いた夢をまだ覚えているからだ。私が生活をしたいと望む場所においては、家族も友人もみな尊厳を持っている。みながそれぞれ基本的な権利を持っている。こうした場所にあって、どんな者であっても浦志強のように微博の書き込みで人身の自由を失うことがあってはならない。間もなく公判が開かれるのにあたり、北京市第二中級法院の裁判官にこの文章を届けたい。私はまだあなたたちの裁判官としての良心と自負を信じている。(完)


困難な状況だからこそ、良心が試される。少なくとも徐凱氏には「良心」を語る資格が十分ある。彼の勇気に敬意をもって是非、紹介しなければならないと思った文章である。

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