怪人クンのムフフ日記

ムフフ、ムフフ、時々オヨヨの〝怪人クンワールド〟炸裂!
あの大物も、この人も。愉快な仲間続々登場!

“怪人スタイル”の源流

2005年05月14日 | Weblog
言葉も文章も表現一つで相手(読み手)に与える印象が全然変わってくる。書き手の言いたいことが素直に相手に受け入れられるとは限らない。人間、顔も性格も考え方も違うのだ。「読み方」だって様々だろう。捉え方は千差万別。そこにはルールもマニュアルも存在しない。どれが正しい、正しくない、どちらがいい、悪いでもない。ゆえに難しい。だから面白いとも言えるのだ。どう感じるかは読者の自由である。感性である。書く側も読む側にもセンスがいる。
言葉(文章)にはいろんな力がある。読み手に与える影響力。元気力。勇気力。魔力。暴力。不快力…。それにより誰かが傷ついたり、悩んだりしてしまうこともある。故意ではなくとも常に危険とは背中合わせ、紙一重の世界。書き手は一語一句に気を遣わなければならない。
怪人クンのブログ。毎日たくさんの読者が訪問してくれる。とても嬉しい。みなが読んでくれていることが「書く」、「書き続ける」モチベーションになる。時にはダメ出しやいろんな意見をいただく。これも「読んでくれている」からこそ生まれるもの。ありがたい。
怪人クンの文章表現は自分で言うのもなんだが他者とは一味違う、と思っている。根底にあるもの、ここにその答えがあると言える。怪人クンに多大なる影響を与えた“3人の師匠”の血が注入されていることが“怪人スタイル”の源流にあることが大きいだろう。
怪人クンの書く文章を読者はどう思ってくれてるのだろうか?一度聞いてみたい気もするが。いい意味で個性的、悪く言えば過激表現が多い…と言われるかも?
例えば、同じテーマで何かの文章を書けば怪人クンと他者では全然違うものが生まれるだろう。読み手はどう思うだろうか?どちらがいい、悪いという判断ではなく「読みやすい」、「読みにくい」、「分かりやすい」、「分かりにくい」、「共感できる」、「共感できない」で判断され、最終的に「好き」か「嫌い」かでジャッジメントが下されるだろう。
一つの例を書いてみよう。街を歩いていて、ある女性に出会ったとしよう。とても大きな女性。それを文章にしてみる。
ここで架空の人に登場してもらおう。Aさん。彼はこう書いた。
「横断歩道。私の前をとても大きな女性が通りかかった。何て大きな人だ、と私は唖然となり、ただただ口を開けて見入るばかりでした」。
怪人クンならどう書くだろう?
「午後の街。きょうは日曜日。毎週この時間は決まって買い物客でごった返す。街は息づいている。
スクランブル交差点。その時、眼前に飛び込んできた大きな物体。一際目立つ。巨大象のようだ。少しパーマかかった黒髪。長いヘアーを揺らし、肩で風を切って歩く物体。白地のジャケットにグレーのデニム。ピンクのミュール。お尻のラインに目を落とした。確かに人である。男ではない。女性だ。すれ違いざま、大きな風を切った。横断歩道のストライブが左右に揺れたような錯覚を私は覚えた。一瞬の出来事に言葉もない。どんどん小さくなる背中。やがてそれは視界から消えた。それなのに、私の眼はいつまでもその物体を追い続けていた…」。
どうだろう?Aさんと怪人クン、全然違う文章でしょ?Aさんはストレートで分かりやすい。でも、風景が足りない。怪人クンの表現は少々過激かも?女性を「物体」と言うのは失礼かもしれないが、これも怪人クン流なのだ。読み手に「一体この女性ってどんな人なんだろう?」というイメージ、幻想を与えるのがこの手法を用いた狙い。読者に自由に想像して読んでほしいからである。
今回、こういうブログになったのには理由(わけ)がある。13日分の文中、『“イモ”たちが南の体育館を占拠!』という表現に一人の“イモ”が疑問視した。「まるで“イモ”が一大派閥みたい…あの表現はどうか?」と言ってきたのだ。怪人クンは言葉遊びの感覚で書いたつもりでも、人によってはそう捉えない人もいるのだ。やっぱ言葉は難しい…。

※金曜の夜、“ネコの足跡”で一杯。かつどんに久々の再会でした。ネコママは着物姿でおもてなし。
※帯に注目、ここにもネコが!(写真)。