今日のウオーキングは足を伸ばして「不動院」までカワセミを探しに出かけました。
途中の民家の「さくらんぼ」です。
「つぐみ」も撮影できました。
大芝水門の上流の太田川の中州では今でも工事が進んでいます。
中州の上ではコサギが相変わらず、集まって居ります。
不動院駅前の「バス停」付近の「カープ女子」?がポーズをしてくれました。
ユキヤナギでしょうか?
国宝「不動院」到着です。
不動院 → 本尊;薬師如来
一説にいれば、前身は足利尊氏が諸国に建立した安国寺(1345年頃)の一つで、安芸安国寺とも呼ばれた由緒ある寺院であった。
銀山城主武田氏菩提寺として栄えたが、武田氏滅亡後、は衰退。
毛利氏の時代となり、毛利輝元の使僧であり豊臣秀吉の側近として活躍した政僧「恵瓊」が住職となり伽藍を復興拡充、現代に遺る文化財を造営した。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦で恵瓊は刑死、広島城主毛利輝元も萩に移封となり、慶長6年(1601)福島正則が広島城主として入城、正則の祈祷師有珍を迎えて住職とし、宗派も臨済宗から真言宗に改め、不動明王を本尊とし、不動院と称するようになった。
元和5年(1619)福島正則は信州に移封され、広島城主として浅野長晟が入城し、
以後浅野氏の庇護のもとで寺は守られてきた。
金堂は「国宝」昭和33年2月に指定。
池の周りを本日の目的の「カワセミ」を待ち受けて探しましたが・・・
居るのは「亀」くらいです。
付近の「彼岸桜」に「ひよどり」が来ました。
諦めて、上段の墓地の方を巡ってきました。
秀吉の遺髪の碑、武田刑部(銀山城主)、僧「恵瓊」、福島正則の墓前に・・・
下段の墓地には墓参りの家族も沢山おられます。
境内を回って見ることに・・・
「椿侘助」は咲いています。
ボケ、マンサク?
シキギ?
サンシュユ? に、枝垂れ梅。
カワセミを諦めていると椿の花に「ひよどり」が来ました。
一時間もアチコチしたようです。
カワセミにも会えずに「延命地蔵」さんにお参りして退散しました。
民家の「レンギョウ」でしょうか?
おまけの
畑の「蕗のとう」「つくし」が春の陽を受けて伸びやかに成長しています。
約、2時間の近ぶらでしたが、花名が分からないのが多かったです。
途中の民家の「さくらんぼ」です。
「つぐみ」も撮影できました。
大芝水門の上流の太田川の中州では今でも工事が進んでいます。
中州の上ではコサギが相変わらず、集まって居ります。
不動院駅前の「バス停」付近の「カープ女子」?がポーズをしてくれました。
ユキヤナギでしょうか?
国宝「不動院」到着です。
不動院 → 本尊;薬師如来
一説にいれば、前身は足利尊氏が諸国に建立した安国寺(1345年頃)の一つで、安芸安国寺とも呼ばれた由緒ある寺院であった。
銀山城主武田氏菩提寺として栄えたが、武田氏滅亡後、は衰退。
毛利氏の時代となり、毛利輝元の使僧であり豊臣秀吉の側近として活躍した政僧「恵瓊」が住職となり伽藍を復興拡充、現代に遺る文化財を造営した。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦で恵瓊は刑死、広島城主毛利輝元も萩に移封となり、慶長6年(1601)福島正則が広島城主として入城、正則の祈祷師有珍を迎えて住職とし、宗派も臨済宗から真言宗に改め、不動明王を本尊とし、不動院と称するようになった。
元和5年(1619)福島正則は信州に移封され、広島城主として浅野長晟が入城し、
以後浅野氏の庇護のもとで寺は守られてきた。
金堂は「国宝」昭和33年2月に指定。
池の周りを本日の目的の「カワセミ」を待ち受けて探しましたが・・・
居るのは「亀」くらいです。
付近の「彼岸桜」に「ひよどり」が来ました。
諦めて、上段の墓地の方を巡ってきました。
秀吉の遺髪の碑、武田刑部(銀山城主)、僧「恵瓊」、福島正則の墓前に・・・
下段の墓地には墓参りの家族も沢山おられます。
境内を回って見ることに・・・
「椿侘助」は咲いています。
ボケ、マンサク?
シキギ?
サンシュユ? に、枝垂れ梅。
カワセミを諦めていると椿の花に「ひよどり」が来ました。
一時間もアチコチしたようです。
カワセミにも会えずに「延命地蔵」さんにお参りして退散しました。
民家の「レンギョウ」でしょうか?
おまけの
畑の「蕗のとう」「つくし」が春の陽を受けて伸びやかに成長しています。
約、2時間の近ぶらでしたが、花名が分からないのが多かったです。