八木梅林へ続きます。
◎ 八木梅林
昔の八木梅林橋は欄干がない小さな橋でしたが、古川土地整理事業により新しくかけられました。
現在の八木梅林橋には、平成7年(1995)に佐東地区内の小学校の児童が描いた12枚の陶板画が設置してあります。
「八木梅林」の名は古くからあり、慶長12年の太田川の流路変換でこの地に梅の木が植えられたと言われる。
梅林の広さは1万坪もあったそうです。
花見 時には殿様の野点(野外で立てる茶の湯)があったり、多くの人が訪れたりしました。
又、日清戦争のころには薬用として知られていました。
第一古川は、蛇行した水路による親水護岸、樹木や丸太橋などのある散策路が整備され多くの人々に親しまれています。
(カモが居ましたが、撮影できませんでした)
◎ 胡子神社
八木城主香川氏の経営したと思われる市場集落跡地。
市場の守護神として祀られている。
◎ 佐東公民館
2014年の土砂災害では避難者が生活した場所でもある。
(30分休憩しました)
「今井一記念碑」 元役場前に設置されている記念碑?
◎ 胡子神社 中道
この辺りは七軒のお茶屋が並んでいた。
県道にかかる小さな「太郎橋」。
◎ 黄幡神社
ご祭神 :素戔嗚の命
安川と古川に挟まれ度重なる洪水による氾濫の原を形成。
寛政年間(1890年代)旧家の土井家の屋敷神として祠が建てられた。
秋の収穫時、お正月等多くの人が参詣するようになった。
明治11年(1878)本殿を再建、大正15年(1926)社殿を西向きから東向きにした。
ん
境内の大木の「イチョウ」の木の「乳だれ」はすごい大きさだった。
◎ 胡子神社(中須)
雲石街道に位置する今日、3個目の胡子神社です。
中須、雲石街道です。
※ 上八木駅から、八木、梅林、七軒茶屋、中須と通過してきました。
気温も四月を思わせる温度で、歩くには暑かったです。
緑井の土砂災害地を右に見ながら、昔の人が山より少し離れた街道を出雲方面へと歩いていたのでしょう。
夕方、5時前、アストラムライン「古市駅」で解散でした。
よく歩いて、14000歩、7,2kmの今日のスマホの歩数計です。
皆さん、最後の頃は、だらだらでした、私も足が、パンパンでした。
皆さん、お疲れさまでした!!
◎ 八木梅林
昔の八木梅林橋は欄干がない小さな橋でしたが、古川土地整理事業により新しくかけられました。
現在の八木梅林橋には、平成7年(1995)に佐東地区内の小学校の児童が描いた12枚の陶板画が設置してあります。
「八木梅林」の名は古くからあり、慶長12年の太田川の流路変換でこの地に梅の木が植えられたと言われる。
梅林の広さは1万坪もあったそうです。
花見 時には殿様の野点(野外で立てる茶の湯)があったり、多くの人が訪れたりしました。
又、日清戦争のころには薬用として知られていました。
第一古川は、蛇行した水路による親水護岸、樹木や丸太橋などのある散策路が整備され多くの人々に親しまれています。
(カモが居ましたが、撮影できませんでした)
◎ 胡子神社
八木城主香川氏の経営したと思われる市場集落跡地。
市場の守護神として祀られている。
◎ 佐東公民館
2014年の土砂災害では避難者が生活した場所でもある。
(30分休憩しました)
「今井一記念碑」 元役場前に設置されている記念碑?
◎ 胡子神社 中道
この辺りは七軒のお茶屋が並んでいた。
県道にかかる小さな「太郎橋」。
◎ 黄幡神社
ご祭神 :素戔嗚の命
安川と古川に挟まれ度重なる洪水による氾濫の原を形成。
寛政年間(1890年代)旧家の土井家の屋敷神として祠が建てられた。
秋の収穫時、お正月等多くの人が参詣するようになった。
明治11年(1878)本殿を再建、大正15年(1926)社殿を西向きから東向きにした。
ん
境内の大木の「イチョウ」の木の「乳だれ」はすごい大きさだった。
◎ 胡子神社(中須)
雲石街道に位置する今日、3個目の胡子神社です。
中須、雲石街道です。
※ 上八木駅から、八木、梅林、七軒茶屋、中須と通過してきました。
気温も四月を思わせる温度で、歩くには暑かったです。
緑井の土砂災害地を右に見ながら、昔の人が山より少し離れた街道を出雲方面へと歩いていたのでしょう。
夕方、5時前、アストラムライン「古市駅」で解散でした。
よく歩いて、14000歩、7,2kmの今日のスマホの歩数計です。
皆さん、最後の頃は、だらだらでした、私も足が、パンパンでした。
皆さん、お疲れさまでした!!