かごめかごめの真実とは

空海様が私に教えてくれた秘密の暗号

次の本のゲラが届きました

2015-08-20 14:45:23 | かごめかごめの真実とは

2015年8月20日(木)

「ウエモリさんですかぁ!荷物が届いていますが、ここで受け取ってもらえますかぁ」とエレベーターの扉が開いたとたんに宅配便のお姉さん。

見ると・・、次の本のゲラ刷りが入った封書でした。

モーセ イエス・キリスト 卑弥呼 ・・と、この我が国の礎を造られた方々のことが明らかにされますよぉ。

三人さん方の本当のお墓もキッチリとありますよ、この日本に。

さぁ何月に本屋さんに並ぶのか、今から楽しみな私です。  全て私の体験、実話です。

どのようにして モーセやイエス・キリストの本当の墓を教えられたのか。

卑弥呼さんの「その日、その時がやってきた」最後のシーンなど、どこの誰も知らないことばかりです。

神様が私に教えてくれたことを、忠実にそのまま素直に文章にしましたが、

世間様からすれば、トンデモだ!! と言うことでしょうが、私は何と言われようと言われるままに書きました。

そして・・

補遺1 魏志倭人伝について ・・ 邪馬台国新論を

補遺2 銅鐸は測量の道具だった  と、分かりやすく纏めてみました。

それにしても・・不思議な不思議な物語です。 世にも奇妙な物語です。 本当に今から出版が楽しみな私です。

  

  

              モーセ            イエス・キリスト            卑弥呼

 


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銅鐸は測量器械で、紐は下げ振り(舌)用の紐です。

2015-08-13 15:12:20 | 邪馬壹国

銅鐸は測量器械で、巴型銅器と有鉤銅釧 は銅鐸の吊り金具でした 

銅鐸にひも初確認

 2015年8月12日の神戸新聞NEXTに銅鐸のひもの記事がありますねぇ
 
  • 舌の上端。茶色く残っているのがひも(奈良文化財研究所提供)
    舌の上端。茶色く残っているのがひも(奈良文化財研究所提供)
  • 小さい銅鐸の舌。上端の穴にひもが残っていた。下端に付着しているのは植物(兵庫県南あわじ市教委提供)
    小さい銅鐸の舌。上端の穴にひもが残っていた。下端に付着しているのは植物(兵庫県南あわじ市教委提供)

 木に銅鐸つるして鳴らす

 兵庫県南あわじ市(淡路島)で見つかった弥生時代中期(紀元前3~同2世紀)の「松帆銅鐸(まつほどうたく)」について、県教育委員会などは12日、音を鳴らすため内側につるした青銅製の棒「舌(ぜつ)」と、銅鐸のつり手部分の「鈕(ちゅう)」にひもの一部が残っていたと発表した。銅鐸でひもが確認されるのは初めて。専門家は「銅鐸を木などにつるして鳴らしたことが裏付けられた」としている。

 県教委などによると、発見された銅鐸7個のうち、大きい銅鐸に小さい銅鐸を納めた入れ子状態の1組2個を分離して調べたところ、大小それぞれの銅鐸で、ひもが舌の穴に通された状態で確認された。

 ひもは、植物繊維をねじったり、組み合わせたりしており、太さ4~5ミリ。銅鐸内面の下方の隆起した「突帯(とったい)」に、ひもでつり下げた舌をあてて鳴らしたとみられる。

 大小いずれの銅鐸の鈕にも太さ2ミリ程度のひもや痕跡があり、つり手にひもを巻いてつり下げたらしい。

 ひもの原料は麻か、イラクサ科の多年草「からむし」の可能性があり、銅鐸から溶け出した銅イオンの防腐効果で残ったとみられる。舌の下端や銅鐸内部にはイネ科などと推定される草の葉らしい植物も付着。県教委などは放射性炭素年代測定などで分析し、銅鐸の使用や埋納の時期を調べる。

 調査した奈良文化財研究所(奈良市)の難波洋三・埋蔵文化財センター長は「ひもが残っていたのは奇跡的。銅鐸の具体的な使い方を示す発見だ。銅鐸が埋められた時期を知る手がかりになるだろう」と話した。

 13~16日に南あわじ市滝川記念美術館でひもの写真などが展示される。問い合わせは同館(0799・36・2314)。

・・・

 2000年前に埋められたとして、紐が完全に微生物に分解されずに残っていたことは、舌を鳴らすわずかの長さよりもっと長い紐ということが言えます。

ますます銅鐸は測量器械だったことを証明する発見ですね。

 

銅鐸は測量の道具だった

 

巴型銅器も水平微調整の器具でした!

上森が教えられ、解明してきたことの多くは、今の時点では、日本の常識とは異なる異説で、首を傾げる人も多いかもしれない。しかし、銅鐸は測量の道具だった、とする上森の意見は、一級建築士として自分の事務所を構えていた上森ならではの観察眼と知識に基づくものだけに、万人に受け入れられる説得力がある。

 

 銅鐸は、紀元前2世紀から、紀元2世紀に至る弥生時代の約400年間、日本列島で使われていたが、その後姿を消した、謎の青銅器である。

その用途も不明で、研究者の多くは祭祀に使われたのだろうとみてきた。内部に木や青銅でできた「舌(ぜつ)」と呼ばれる部品を垂らし、銅鐸そのものを揺らすか、舌のみを揺らして内面にあてて音を出したというのだ。

つまり、風鈴の元祖で、その後、巨大化して、鳴らすものではなく、飾り物になった、というのだ。

 

これまでに発掘された銅鐸の形は、いずれも似たような形をしている。上の図は、代表的な形である。

では、ほとんどの銅鐸に共通する要素は何だろうか?

 銅鐸は構造上は本体の「鐸身(たくしん)」と上部の「鈕(ちゅう)」に分けられ、鈕の真ん中には穴があいており、鐸身は末広がりになっているのだ。

 デザイン的には、直線で末広がりになっているものと、流線で下の方ほど広がりが大きいものがある。

そして、鈕と鐸身をぐるっと囲むように鰭(ひれ)がついている。最も初期のものには鰭がないものもある。

後期のものほどサイズは大きく、鰭に「飾り耳」と呼ばれる突起が付いているものもある。

 鐸身に文様のないものもあれば、「流水文」、「袈裟襷(けさだすき)文」や、人物や動物などの線画の描かれたものなど、装飾デザインは、様々だ。

 銅鐸の構造で、上森が気に留めたのは、鐸身に穴があけられていることだった。研究者には、「型持穴(かたもちあな)」と呼ばれている。「舞(まい)」と呼ばれる鐸身上面の平らな部分、鈕の穴を挟むようにふたつ、鐸身の上部の鰭に近い部分に表裏に各ふたつ、鐸身下部には、「穴」というより「刻み」のような形で、表裏各ふたつと、合計10コの穴があいている。

 「型持穴」という名称がつけられたのは、それらの穴が製造過程の副産物だと考えられたからだ。鋳造するときに、内型と外型の間に青銅を流し込むための隙間が必要となり、隙間の厚さ(=鐸身の厚さ)に相当する高さの「出っ張り」を内型に作っておいたものが、穴として残った、と推測されたのだ。

ちなみに銅鐸の鐸身の厚みは2~3ミリで、現代の鋳造技術でもこの薄さできれいに鋳造するのは困難だそうだ。だとすると、銅鐸そのものが「オーパーツ」(作られた当時の技術がその後失われてしまった工芸品)と言ってもよいかもしれない。

 もしこれらの穴が「型持穴」なら、穴の数や位置が決まっている必要はあっただろうか?そもそも、優れた鋳造技術とデザイン感覚を持った古代の銅鐸の製作者たちが、不要な穴を残したとは、考えにくいのではないか?

この穴に着目した上森は、銅鐸は実は古代の測量機器だったのではないか、と考えるに至った。鐸身の上部に開けられた穴には目的があり、双眼鏡のように、両目で「覗くための穴だ」というのだ。

2013年8月28日に、上森は出雲の歴史博物館に展示されていた銅鐸を使って、それを確認している。

「銅鐸の細いほうから両眼で穴を見て、反対側の穴を見通すとどうでしょう・・・! 暗い中に焦点が1点に綺麗に映し出されたのです」

 

 

 つまり、遠くの観測点に向かって、正確に銅鐸の向きを決められる、というのだ。遠くの観測点には、銅剣を立てておいたのであろう。この説ならば、穴の位置も合理的に説明がつく。

 さて、これまでの定説では、銅鐸の上面の「舞」にある2つの穴も、「型持穴」だが、それらは内側から鐸身をたたく「舌(ぜつ)」という部品を吊り下げるための鎖かひもを通す穴も兼ねていた、とされている。

 

 

しかし、銅鐸を測量機器として見直すと、異なる説明も可能になる。

現在の測量でも、基準となる地点の地面には、石や金属で目印を設置する。三脚を立てて、三脚の上の「レベル」という測量器具がその基準点の真上になるように、「下げぶり」という分銅を垂らして、位置決めをする。

上森によれば、銅鐸はその「レベル」にあたる器具であり、やはり、その中心から分銅を垂らして、基準点の真上に設置する。舞にある穴はそのために使われたのだ。

 

 さらに、上森は、鐸身下部の「刻み」や「飾り耳」の用途も解明した。

   

上図のように、細いひもを鈕の最上部の「飾り耳」に架け、次に鐸身横の「飾り耳」、さらに、下部の「刻み」に架けてから交差させる。同じ幅でそのひもを固定する装置を地面近くに作っておけば、交差したひもが触れ合うことで銅鐸はしっかりと固定されて安定し、きちっと観測点の方向を示す。

また、地面に置いた器具も同じ方向を示すことになる。

 

おそらく、「飾り耳」を考えつく前には、鈕の穴と下部の「刻み」だけで、同じことをしていたのではないだろうか。やがて、ひもが固定しやすく、ひもの長さも調整しやすいようにと、現場の声を生かして、デザインが改良されて、「飾り耳」がついたのだろう。飾り耳は「飾り」ではなく、フックだったのだ。

 

上森は、銅鐸と一緒にしばしば出土する銅鏡も、測量現場で分度器や水平器として利用されていた、と考えている。また、銅鏡は光通信の道具でもあったのかもしれない。

 

上の写真は、銅鐸と同時代に作られていた青銅製品で、一般には有鉤銅釧(ゆうこうどうくしろ)と呼ばれている。

釧(くしろ)というのは、腕輪のことだ。

沖縄など南の海で採れるゴホウラという貝で作った腕輪を青銅で模倣するうちに、このような鉤(かぎ)のついた輪の形になってしまったと言われている。

誰がどう考えても、腕輪としては形状が異常なだけでなく、危険でさえあるこの有鉤銅釧は、上森によれば

銅鐸を使った測量現場では大活躍の道具になる。

上森はこの有鉤銅釧を「銅鐸吊り金具」だったと見ているのだ。

 前述のように、「舞」にあいている穴は、舌(=下げぶり)を吊り下げるための鎖かひもを通すために使えるが、神戸市渦ヶ森で発掘された銅鐸などのように、舞の裏側の中央に環がつけられているものでは、この穴を使う必要がない。

 そこでこの「吊り金具」の出番となる。

 適当な長さの1本のひもを、2つの「吊り金具」の輪の部分に通してつなげて、ひもを結んで輪にしておく。それを組んだ木に架けて、「吊り金具」が下にぶら下がるようにする。そこに銅鐸を持ってきて、鉤の部分を舞にあいた2つの穴に両側から引っ掛けるのだ。

 この組み合わせで、銅鐸の取り外しが楽になり、ひもを架けて調節する際にも、ひもが絡まったりせず、より使いやすくなる。

        

 

上森は言う。銅鐸は「倭国大乱」以前に使われていた測量機器で、最も進化した形で使われたのは、イエス・キリスト=大国主命が大王として国造りをしていた時代であり、キリストの死後、戦乱の中では測量さえもできなくなったので、地中に埋められるなどして廃棄されたのだと。

 

 


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第3幕の幕開けのようです

2015-07-08 10:57:55 | かごめかごめの真実とは

平成2778日(水)

「もう皆に伝えなさい!」と言われましたので、2日にイエス様の陵墓の場所を公開しました。

実は、イエス様のお墓だけでなく、神河町埴岡の里には沢山のお墓が眠っています。卑弥呼さん以外にも沢山あります。

これから一つ一つ立証されていくのか、完全に闇の中に葬られるのか・・。 それは神河町の方々がこれから問われるところです。

世間の目、世界の人々の目が注視しています。

旧、大河内町の意味は、大神様たちが居られる平らな土地という意味で、正にその通りの場所です。 

ここ旧、大河内町一帯がまほろばの地です。

卑弥呼さんの陵墓は2年足らずで造営されましたから、土が流れ出さないように葺石で覆われていましたが、

イエス様のお墓は、年月をかけて造営されましたから、表面には葺石は施されていません。

綺麗な真砂土で覆われています。

造営された時は、きれいな真砂土で赤い陵墓だったのが、樹木が生えだし、枝や葉っぱが土に帰るのが、

一年に平均0,1mmとして2000年で20cmですが、ちょうど黒い腐葉土はそれぐらいの厚さになっています。

卑弥呼さんの陵墓も同じように繰り石の上にそのような厚さの腐葉土が堆積していました。

でも・・一定の深さに達すると栗石が出てきます。

他の陵墓のところでは、石組みも見えます。

 

神様たちにお供えもして・・。

それから陵墓などを造るのに「銅鐸で測量されたんですね」と、ご報告もして・・・。

大事な大事な方位石もちゃんと残っていて、スクレーパー(凸)の方角にイエス様

凹に卑弥呼さまのお墓が見事にぴったりと位置していました。

  

   

これらの大事な方位石も先人達が残してくれた大事な遺産です。もっともっと沢山あることでしょう。

ああ・・・なんと気持ちのよいところでしょうか、まほろばの地は・・・。

    

 

イエス様は下記のような綺麗な所にお眠りになられています。

 

 

 

 

 ハートの場所から東方向に女王卑弥呼さまの陵墓も見えます。

 

 

 

ハートの場所から南にはピラミッド状の綺麗な山が見えます。それは十字架の縦のラインを教えています。

 

 

 

 イエス様は緑豊かで、近くには水も満々とあふれている綺麗な綺麗な場所です。

 

いつまでもいつまでもその場所に留まっていたい気持ちになる場所です。

 

イエス様と女王卑弥呼さまが眠るまほろばの地は兵庫県神河町にあります。

 

 

 

    

 

 このブログの写真は、2015年6月14日(日)に初めてイエス様の陵墓調査へと行った時の写真です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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銅鐸には脱着しやすくするための吊金具もありました

2015-06-26 18:45:42 | かごめかごめの真実とは

2015年6月26日(金)

 日本の古代史の中でも、謎の物体が「銅鐸」だ。 弥生時代、紀元前2世紀から、紀元2世紀にわたって約400年間作られ、その後姿を消した謎の青銅器である。 その使い途は明らかではないが、ほとんどの論者は祭祀に使われたという説を唱えている。内部に木や青銅でできた「舌(ぜつ)」と呼ばれる部品を垂らし、銅鐸そのものを揺らすか、舌のみを揺らして内面にあてて音を出したというのだ。その後、銅鐸そのものが巨大化し、鳴らすものではなく、いったという。

さて、上の図は、銅鐸の代表的な形である。 ほとんどの銅鐸に共通する要素は何だろうか? 形はだいたい似たような形をしている。 銅鐸本体の「鐸身(たくしん)」と上部の「鈕(ちゅう)」に分けられ、鈕の真ん中には穴があいている。鐸身は末広がりになっているが、直線的に広がっているものと、下の方ほど広がりが大きくなるものがある。 そして、鈕と鐸身をぐるっと囲むように鰭(ひれ)がついている。最も初期のものには鰭がないものもある。 後期のものでは、鰭にさらに「飾り耳」と呼ばれる突起が付く。そして、大型化していくのだ。 鐸身の文様は、文様のないものもあれば、「流水文」、「袈裟襷(けさだすき)文」や、人物や動物などの線画の描かれたものなどさまざまである。 ここで、気になるのが、鐸身にあいた穴である。通常「型持穴(かたもちあな)」と呼ばれる。「舞(まい)」と呼ばれる鐸身上面の平らな部分に鈕の穴を挟むように2個、鐸身の上部の鰭に近い部分に表裏各2個、鐸身下部には、「穴」というより「刻み」のような形でこれも表裏各2個、全部あわせて10個の穴があいている。 「型持穴」という名称は、鋳造するときに、内型と外型の間に青銅を流し込むための隙間を作るために、内型に隙間の厚さ(=鐸身の厚さ)に相当する高さの「出っ張り」を作っておいたものが、穴として残っているという考え方に基づいた名称である。ちなみに銅鐸の鐸身の厚みは2~3ミリで、現代の鋳造技術でもこの薄さできれいに鋳造することは困難だそうだ。だとすると、銅鐸そのものが「オーパーツ」(作られた当時の技術がその後失われてしまった工芸品)と言ってもよいのではないだろうか。 もしこれらの穴が「型持穴」であったとして、では、なぜこの個数、この位置なのであろうか?それに対する合理的な説明はあるのだろうか?銅鐸を作った人たちは、穴が残ってしまうことを不本意に思わなかったのであろうか? これに対し、上森は「銅鐸は測量機器だ」という。

 

鐸身の上部にあいた穴は「覗くための穴だ」というのだ。 2013年8月28日、上森は実際に出雲の歴史博物館で、展示された銅鐸を使ってこのことを確認している。 「銅鐸の細いほうから両眼で穴を見て、反対側の穴を見通すとどうでしょう・・・!! 焦点が暗い中に1点に綺麗に映し出されたのです」 すなわち、遠くの観測点に向かって、正確に銅鐸の向きを決められるのだ。その観測点には、銅剣を立てたのであろう。この説ならば、穴がこの位置にあることが合理的に説明がつくのだ。 さて、通常の説では、上面の「舞」にある2つの穴は、「型持穴」でもあり、「舌(ぜつ)」と呼ばれる内側から鐸身をたたく部品を吊り下げるため鎖またはひもを通す穴を兼ねていると言われている。 しかし、「測量機器」という文脈で見ると、これも変わってくる。 現在でも測量の基準となる地点の地面には石や金属の目印を設置し、三脚を立てて、三脚の上の「レベル」という測量器具がその基準点の真上になるように、「下げぶり」という分銅を垂らして位置決めをしている。 銅鐸はその「レベル」にあたる器具なので、やはり中心から分銅を垂らして、基準点の真上に設置したというわけだ。舞にある穴はそのために使われる。

 さらに上森は、鐸身下部の「刻み」や「飾り耳」の用途も解明した。 上図のように、細いひもを鈕の最上部の「飾り耳」からさらに鐸身横の「飾り耳」に架け、下部の「刻み」に架け、交差させて、地面には同じ幅でひもを固定する装置を作っておけば、交差したひもが触れ合うとき、銅鐸は安定してしっかり固定され、観測点の方向を示すのだ。 さらに、地面に置いた器具も同じ方向を示すことになる。 おそらく、「飾り耳」がないころは、鈕の穴と下部の「刻み」だけでこれと同じことをしていたのではないだろうか。そして、ひもの固定がしやすく、ひもの長さも調整しやすいように改良されて、「飾り耳」がついたと推測できるのである。現場の声が反映したのであろう。もちろん、単なる「飾り」ではない。 そして、一緒に出土することの多い銅鏡は、測量現場では分度器であり水平器、また光通信の道具でもあったであろうと推測されるのである。

上の写真は、一般には有鉤銅釧(ゆうこうどうくしろ)と呼ばれる、銅鐸と同時代の青銅製品である。 釧(くしろ)というのは、腕輪のことである。 沖縄などの南の海で採れるゴホウラという貝で作った腕輪を青銅で模倣するうちに、このような鉤(かぎ)のついた輪の形になってしまったと言われているのである。 ところが、この製品、銅鐸を使った測量に役立つのである。 われわれはこの製品を「銅鐸吊り金具」と名付けることにする。 先に「舞」にあいている穴は舌(=下げぶり)を吊り下げるための鎖またはひもを通すために使われると書いたが、神戸市渦ヶ森銅鐸などは、舞の裏側の中央に環がつけられているので、この穴を使う必要がない。

そこでこの「吊り金具」の登場である。適当な長さの1本のひもを、2つの「吊り金具」の輪の部分に通してつなげて、ひもを結んで輪にしておき、それを組んだ木に架けて、「吊り金具」が下にぶら下がるようにしておく。そこに銅鐸を持ってきて、舞にあいた2つの穴に鉤の部分を両側から互いに逆向きになるように掛けるのである。 これで、取り外しが楽になり、ひもを架けて調節する際にも、ひもが絡まったりすることが防げて便利になる。特に斜面での測量などの場合に威力を発揮することは間違いない。


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銅鐸を使って測量ができる

2015-06-17 15:50:42 | かごめかごめの真実とは

銅鐸は測量器械です。

2015年6月17日(水)

 模様は別として、銅鐸に共通するのは穴、切かぎ穴 フィンの耳ですが・・。

みな測量するのに必要なものでした。 今までは覗きの穴だけ説明していましたが、あとは、

紐を引っかけたり、引きとおすものでした。 簡単な道具を作ってみましたら、以外にうまく安定しました。

間違いなく銅鐸は測量器械でした。

 

      

 

日本の古代史の中でも、謎の物体が「銅鐸」だ。 弥生時代、紀元前2世紀から、紀元2世紀にわたって約400年間作られ、その後姿を消した謎の青銅器である。 その使い途は明らかではないが、ほとんどの論者は祭祀に使われたという説を唱えている。内部に木や青銅でできた「舌(ぜつ)」と呼ばれる部品を垂らし、銅鐸そのものを揺らすか、舌のみを揺らして内面にあてて音を出したというのだ。その後、銅鐸そのものが巨大化し、鳴らすものではなく、いったという。

さて、上の図は、銅鐸の代表的な形である。 ほとんどの銅鐸に共通する要素は何だろうか? 形はだいたい似たような形をしている。 銅鐸本体の「鐸身(たくしん)」と上部の「鈕(ちゅう)」に分けられ、鈕の真ん中には穴があいている。鐸身は末広がりになっているが、直線的に広がっているものと、下の方ほど広がりが大きくなるものがある。 そして、鈕と鐸身をぐるっと囲むように鰭(ひれ)がついている。最も初期のものには鰭がないものもある。 後期のものでは、鰭にさらに「飾り耳」と呼ばれる突起が付く。そして、大型化していくのだ。 鐸身の文様は、文様のないものもあれば、「流水文」、「袈裟襷(けさだすき)文」や、人物や動物などの線画の描かれたものなどさまざまである。 ここで、気になるのが、鐸身にあいた穴である。通常「型持穴(かたもちあな)」と呼ばれる。「舞(まい)」と呼ばれる鐸身上面の平らな部分に鈕の穴を挟むように2個、鐸身の上部の鰭に近い部分に表裏各2個、鐸身下部には、「穴」というより「刻み」のような形でこれも表裏各2個、全部あわせて10個の穴があいている。 「型持穴」という名称は、鋳造するときに、内型と外型の間に青銅を流し込むための隙間を作るために、内型に隙間の厚さ(=鐸身の厚さ)に相当する高さの「出っ張り」を作っておいたものが、穴として残っているという考え方に基づいた名称である。ちなみに銅鐸の鐸身の厚みは2~3ミリで、現代の鋳造技術でもこの薄さできれいに鋳造することは困難だそうだ。だとすると、銅鐸そのものが「オーパーツ」(作られた当時の技術がその後失われてしまった工芸品)と言ってもよいのではないだろうか。 もしこれらの穴が「型持穴」であったとして、では、なぜこの個数、この位置なのであろうか?それに対する合理的な説明はあるのだろうか?銅鐸を作った人たちは、穴が残ってしまうことを不本意に思わなかったのであろうか? これに対し、上森は「銅鐸は測量機器だ」という。

鐸身の上部にあいた穴は「覗くための穴だ」というのだ。 2013年8月28日、上森は実際に出雲の歴史博物館で、展示された銅鐸を使ってこのことを確認している。 「銅鐸の細いほうから両眼で穴を見て、反対側の穴を見通すとどうでしょう・・・!! 焦点が暗い中に1点に綺麗に映し出されたのです」 すなわち、遠くの観測点に向かって、正確に銅鐸の向きを決められるのだ。その観測点には、銅剣を立てたのであろう。この説ならば、穴がこの位置にあることが合理的に説明がつくのだ。 さて、通常の説では、上面の「舞」にある2つの穴は、「型持穴」でもあり、「舌(ぜつ)」と呼ばれる内側から鐸身をたたく部品を吊り下げるため鎖またはひもを通す穴を兼ねていると言われている。 しかし、「測量機器」という文脈で見ると、これも変わってくる。 現在でも測量の基準となる地点の地面には石や金属の目印を設置し、三脚を立てて、三脚の上の「レベル」という測量器具がその基準点の真上になるように、「下げぶり」という分銅を垂らして位置決めをしている。 銅鐸はその「レベル」にあたる器具なので、やはり中心から分銅を垂らして、基準点の真上に設置したというわけだ。舞にある穴はそのために使われる。

さらに上森は、鐸身下部の「刻み」や「飾り耳」の用途も解明した。 上図のように、細いひもを鈕の最上部の「飾り耳」からさらに鐸身横の「飾り耳」に架け、下部の「刻み」に架け、交差させて、地面には同じ幅でひもを固定する装置を作っておけば、交差したひもが触れ合うとき、銅鐸は安定してしっかり固定され、観測点の方向を示すのだ。 さらに、地面に置いた器具も同じ方向を示すことになる。 おそらく、「飾り耳」がないころは、鈕の穴と下部の「刻み」だけでこれと同じことをしていたのではないだろうか。そして、ひもの固定がしやすく、ひもの長さも調整しやすいように改良されて、「飾り耳」がついたと推測できるのである。現場の声が反映したのであろう。もちろん、単なる「飾り」ではない。 そして、一緒に出土することの多い銅鏡は、測量現場では分度器であり水平器、また光通信の道具でもあったであろうと推測されるのである。

上の写真は、一般には有鉤銅釧(ゆうこうどうくしろ)と呼ばれる、銅鐸と同時代の青銅製品である。 釧(くしろ)というのは、腕輪のことである。 沖縄などの南の海で採れるゴホウラという貝で作った腕輪を青銅で模倣するうちに、このような鉤(かぎ)のついた輪の形になってしまったと言われているのである。 ところが、この製品、銅鐸を使った測量に役立つのである。 われわれはこの製品を「銅鐸吊り金具」と名付けることにする。 先に「舞」にあいている穴は舌(=下げぶり)を吊り下げるための鎖またはひもを通すために使われると書いたが、神戸市渦ヶ森銅鐸などは、舞の裏側の中央に環がつけられているので、この穴を使う必要がない。

そこでこの「吊り金具」の登場である。適当な長さの1本のひもを、2つの「吊り金具」の輪の部分に通してつなげて、ひもを結んで輪にしておき、それを組んだ木に架けて、「吊り金具」が下にぶら下がるようにしておく。そこに銅鐸を持ってきて、舞にあいた2つの穴に鉤の部分を両側から互いに逆向きになるように掛けるのである。 これで、取り外しが楽になり、ひもを架けて調節する際にも、ひもが絡まったりすることが防げて便利になる。特に斜面での測量などの場合に威力を発揮することは間違いない。


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銅鐸で測量

2015-06-15 10:52:46 | かごめかごめの真実とは

2015年6月15日(月)

真南を教えていました。

  

  

特定の方角を教える方位石です。一か所の石組みの凸 と 凹でその方角を指示していました。

6月14日(日)

 

 方位石もあるお山へと銅鐸を持っていきました。

レプリカの銅鐸は三分の二の大きさなので、銅鐸から距離を置いて覗かなくてはなりません。

現代の測量の仕方で、銅鐸と鏡と下げ振りと糸があれば測量ができますね。

     

         

 

  巴形銅器も有鉤銅釧も銅鐸も共に測量器具でした!span>

 

 日本の古代史の中でも、謎の物体が「銅鐸」だ。 弥生時代、紀元前2世紀から、紀元2世紀にわたって約400年間作られ、その後姿を消した謎の青銅器である。 その使い途は明らかではないが、ほとんどの論者は祭祀に使われたという説を唱えている。内部に木や青銅でできた「舌(ぜつ)」と呼ばれる部品を垂らし、銅鐸そのものを揺らすか、舌のみを揺らして内面にあてて音を出したというのだ。その後、銅鐸そのものが巨大化し、鳴らすものではなく、いったという。

さて、上の図は、銅鐸の代表的な形である。 ほとんどの銅鐸に共通する要素は何だろうか? 形はだいたい似たような形をしている。 銅鐸本体の「鐸身(たくしん)」と上部の「鈕(ちゅう)」に分けられ、鈕の真ん中には穴があいている。鐸身は末広がりになっているが、直線的に広がっているものと、下の方ほど広がりが大きくなるものがある。 そして、鈕と鐸身をぐるっと囲むように鰭(ひれ)がついている。最も初期のものには鰭がないものもある。 後期のものでは、鰭にさらに「飾り耳」と呼ばれる突起が付く。そして、大型化していくのだ。 鐸身の文様は、文様のないものもあれば、「流水文」、「袈裟襷(けさだすき)文」や、人物や動物などの線画の描かれたものなどさまざまである。 ここで、気になるのが、鐸身にあいた穴である。通常「型持穴(かたもちあな)」と呼ばれる。「舞(まい)」と呼ばれる鐸身上面の平らな部分に鈕の穴を挟むように2個、鐸身の上部の鰭に近い部分に表裏各2個、鐸身下部には、「穴」というより「刻み」のような形でこれも表裏各2個、全部あわせて10個の穴があいている。 「型持穴」という名称は、鋳造するときに、内型と外型の間に青銅を流し込むための隙間を作るために、内型に隙間の厚さ(=鐸身の厚さ)に相当する高さの「出っ張り」を作っておいたものが、穴として残っているという考え方に基づいた名称である。ちなみに銅鐸の鐸身の厚みは2~3ミリで、現代の鋳造技術でもこの薄さできれいに鋳造することは困難だそうだ。だとすると、銅鐸そのものが「オーパーツ」(作られた当時の技術がその後失われてしまった工芸品)と言ってもよいのではないだろうか。 もしこれらの穴が「型持穴」であったとして、では、なぜこの個数、この位置なのであろうか?それに対する合理的な説明はあるのだろうか?銅鐸を作った人たちは、穴が残ってしまうことを不本意に思わなかったのであろうか? これに対し、上森は「銅鐸は測量機器だ」という。

 

鐸身の上部にあいた穴は「覗くための穴だ」というのだ。 2013年8月28日、上森は実際に出雲の歴史博物館で、展示された銅鐸を使ってこのことを確認している。 「銅鐸の細いほうから両眼で穴を見て、反対側の穴を見通すとどうでしょう・・・!! 焦点が暗い中に1点に綺麗に映し出されたのです」 すなわち、遠くの観測点に向かって、正確に銅鐸の向きを決められるのだ。その観測点には、銅剣を立てたのであろう。この説ならば、穴がこの位置にあることが合理的に説明がつくのだ。 さて、通常の説では、上面の「舞」にある2つの穴は、「型持穴」でもあり、「舌(ぜつ)」と呼ばれる内側から鐸身をたたく部品を吊り下げるため鎖またはひもを通す穴を兼ねていると言われている。 しかし、「測量機器」という文脈で見ると、これも変わってくる。 現在でも測量の基準となる地点の地面には石や金属の目印を設置し、三脚を立てて、三脚の上の「レベル」という測量器具がその基準点の真上になるように、「下げぶり」という分銅を垂らして位置決めをしている。 銅鐸はその「レベル」にあたる器具なので、やはり中心から分銅を垂らして、基準点の真上に設置したというわけだ。舞にある穴はそのために使われる。

 さらに上森は、鐸身下部の「刻み」や「飾り耳」の用途も解明した。 上図のように、細いひもを鈕の最上部の「飾り耳」からさらに鐸身横の「飾り耳」に架け、下部の「刻み」に架け、交差させて、地面には同じ幅でひもを固定する装置を作っておけば、交差したひもが触れ合うとき、銅鐸は安定してしっかり固定され、観測点の方向を示すのだ。 さらに、地面に置いた器具も同じ方向を示すことになる。 おそらく、「飾り耳」がないころは、鈕の穴と下部の「刻み」だけでこれと同じことをしていたのではないだろうか。そして、ひもの固定がしやすく、ひもの長さも調整しやすいように改良されて、「飾り耳」がついたと推測できるのである。現場の声が反映したのであろう。もちろん、単なる「飾り」ではない。 そして、一緒に出土することの多い銅鏡は、測量現場では分度器であり水平器、また光通信の道具でもあったであろうと推測されるのである。

上の写真は、一般には有鉤銅釧(ゆうこうどうくしろ)と呼ばれる、銅鐸と同時代の青銅製品である。 釧(くしろ)というのは、腕輪のことである。 沖縄などの南の海で採れるゴホウラという貝で作った腕輪を青銅で模倣するうちに、このような鉤(かぎ)のついた輪の形になってしまったと言われているのである。 ところが、この製品、銅鐸を使った測量に役立つのである。 われわれはこの製品を「銅鐸吊り金具」と名付けることにする。 先に「舞」にあいている穴は舌(=下げぶり)を吊り下げるための鎖またはひもを通すために使われると書いたが、神戸市渦ヶ森銅鐸などは、舞の裏側の中央に環がつけられているので、この穴を使う必要がない。

そこでこの「吊り金具」の登場である。適当な長さの1本のひもを、2つの「吊り金具」の輪の部分に通してつなげて、ひもを結んで輪にしておき、それを組んだ木に架けて、「吊り金具」が下にぶら下がるようにしておく。そこに銅鐸を持ってきて、舞にあいた2つの穴に鉤の部分を両側から互いに逆向きになるように掛けるのである。 これで、取り外しが楽になり、ひもを架けて調節する際にも、ひもが絡まったりすることが防げて便利になる。特に斜面での測量などの場合に威力を発揮することは間違いない。


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邪馬台国の謎、完全解明

2015-06-05 15:14:35 | 邪馬壹国

2015年6月5日(金)

 魏志倭人伝に記された女王卑弥呼さまへの謁見ルートが全て解明されました

謎の邪馬台国論争に終止符です。畿内説でもなく九州説でも四国説でもありませんでした。

女王卑弥呼様が居られた場所(聖地)は、兵庫県の中央部に位置する生野、神河町でした。

聖地神河へ行くには・・、先ず帯方郡を出発します。

帯方郡の出発港は現在の仁川(インチョン)であり、最終港は仁川(現在の西宮)でした。

卑弥呼さんが生きられた時代、の神様たち旅の御一行方は、仁川から仁川を往来されていました。

帯方郡の港、仁川(インチョン)から 狗邪韓国の港、馬山(マサン)。

そこから対馬の美津島箕形の港上陸して、そこから厳原の港まで歩きます。船を乗り換えます。

あるいは、小舟の場合や急ぎの場合は、小船越の西の漕手船を陸に引き揚げてもらって反対の港へと運んでもらいます。

そうやって対馬から壱岐、それから呼子(佐賀)の港に一度寄港し、で下船します。

そこから吉 岡 香椎 津へとわざわざ陸路です。 

そして津の港から船に乗って関門海峡を南下して一度宇佐八幡の神様にご挨拶してから中国山脈を南行し、

山の大門へと到着します。 凡そ20日です。

そこから10日で、仁川です。港は現在の西宮です。西宮には恵比須様の総本宮がありますよ。

さぁ宿営した仁川から 宝塚 三田篠山 春日を通って 知山でした。

そしてそこから西へ行って粟鹿が旅人である神様達が到達する宿営地です。

凡そ1か月を要しました。

ここから面会を許された人達が、女王様の居城である生野、神河の栗へと行かれました。

栗はイエス・キリスト(大国主命)のお墓がある聖地でした。

又、生野にはイエス様をお祀りする地下聖堂もありました。

女王卑弥呼様は、イエス様の大事なお墓の守りをされていました。

その聖地にある婀月山(779m)に女王卑弥呼さまの陵墓あります。

 邪馬台国の謎は全て解明されました

 「私が何を成したかを世界中の人に知らせてください」と、伝言して消えた卑弥呼さんの後ろ姿が見えるようです。

   邪馬台国上森三郎説は空海様からご教授賜りました。  

 

邪馬壹国 保存その1

邪馬壹国 保存その2

邪馬壹国 保存その3

 

女王卑弥呼の墓 保存その1

女王卑弥呼の墓 保存その2

 

大国主=神武天皇=イエス・キリスト 保存その1

大国主=神武天皇=イエス・キリスト 保存その2

大国主=神武天皇=イエス・キリスト 保存その3

大国主=神武天皇=イエス・キリスト 保存その4

大国主=神武天皇=イエス・キリスト 保存その5

大国主=神武天皇=イエス・キリスト 保存その6

大国主=神武天皇=イエス・キリスト 保存その7

 

銅鐸は測量する器械だった 

邪馬台国の謎を解く鍵が、イエス・キリストの生命の樹(カバラ)にあります。 

  

そして、肝心要のポイントは、中国遼寧省鞍山市にある道教の聖地、千山にありました。

                                         

 イエス・キリストのお墓が十字架の交点にありますが、

聖地は簡単に行けないよう陸路一か月かかってやっとたどり着ける山中で守られ続けていました。

  モーセを祀る千山とイエス・キリストを祀る聖地「栗」とを結ぶ聖なる霊ラインが邪馬台国の女王様への謁見航路でした。

 モーセとイエスが何を成したかを理解できなければ、邪馬台国の謎、世界の歴史の謎は解き明かすことはできません。


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教育者は正しきことを伝えましょう

2015-05-30 10:29:59 | かごめかごめの真実とは

2015年5月30日(土)

講師の銅鐸研究で知られる難波洋三・奈良文化財研究所埋蔵文化財センター長が地元の中学生ら約600人に、

「・・・、銅鐸は、農業の祭りに使う道具だったと考えられる」と話したとの記事。

そしてこの記事の中に、兵庫県は銅鐸の出土数が全国最多であるとも書かれています。

・・・

「農業の祭りに使う道具だったと考えられる」などと言ってたら、あちらでヒソヒソ、こちらでヒソヒソと、

「あの人、よくあんなことを大勢の前で言えるわねぇ、測量の器械なのにぃ・・」

「銅鐸にある、穴とその形に共通性があるのが分からないのかしらねぇ」

「銅鐸が測量の器械だったなんて、知ってても立場上言えないのかしら・・、そうだとしたら可哀そうねぇ」

・・などと、冷ややかな視線で見ている賢い生徒さんも居てたかもしれませんね。

兵庫県で沢山出土している理由が、そろそろ歴史の表舞台に明るみになっていくことでしょう。

 

下げ振りを吊るす「環」まで再現されていますね。

・・・

私の手元にも三分の二の銅鐸のレプリカがあります。

  

 

レプリカの銅鐸は三分の二の大きさなので、銅鐸から距離を置いて覗かなくてはなりません。

 

現代の測量の仕方で、銅鐸と鏡と下げ振りと糸があれば測量ができますね。

 

     

         

 

 測量に必要な観測点を決めるための「下げ振り」もセットで出土していますね。

銅鐸本体には、その下げ振りを吊るす穴もあって、視線を透過させる穴もちゃんとありますね。

現在使われているレベルやトランシットとなんら変わりません。

銅鐸が測量の器械であったということを大勢の学生さんに教えることで、

我が国の礎を築いた先人達は、いかに知的な頭脳集団であり平和的理想国家建設に一丸となって邁進したかを自ずと思い知ることでしょう。

 教育者は、正しきことを伝えましょう!

日本の古代史の中でも、謎の物体が「銅鐸」だ。 弥生時代、紀元前2世紀から、紀元2世紀にわたって約400年間作られ、その後姿を消した謎の青銅器である。 その使い途は明らかではないが、ほとんどの論者は祭祀に使われたという説を唱えている。内部に木や青銅でできた「舌(ぜつ)」と呼ばれる部品を垂らし、銅鐸そのものを揺らすか、舌のみを揺らして内面にあてて音を出したというのだ。その後、銅鐸そのものが巨大化し、鳴らすものではなく、いったという。

さて、上の図は、銅鐸の代表的な形である。 ほとんどの銅鐸に共通する要素は何だろうか? 形はだいたい似たような形をしている。 銅鐸本体の「鐸身(たくしん)」と上部の「鈕(ちゅう)」に分けられ、鈕の真ん中には穴があいている。鐸身は末広がりになっているが、直線的に広がっているものと、下の方ほど広がりが大きくなるものがある。 そして、鈕と鐸身をぐるっと囲むように鰭(ひれ)がついている。最も初期のものには鰭がないものもある。 後期のものでは、鰭にさらに「飾り耳」と呼ばれる突起が付く。そして、大型化していくのだ。 鐸身の文様は、文様のないものもあれば、「流水文」、「袈裟襷(けさだすき)文」や、人物や動物などの線画の描かれたものなどさまざまである。 ここで、気になるのが、鐸身にあいた穴である。通常「型持穴(かたもちあな)」と呼ばれる。「舞(まい)」と呼ばれる鐸身上面の平らな部分に鈕の穴を挟むように2個、鐸身の上部の鰭に近い部分に表裏各2個、鐸身下部には、「穴」というより「刻み」のような形でこれも表裏各2個、全部あわせて10個の穴があいている。 「型持穴」という名称は、鋳造するときに、内型と外型の間に青銅を流し込むための隙間を作るために、内型に隙間の厚さ(=鐸身の厚さ)に相当する高さの「出っ張り」を作っておいたものが、穴として残っているという考え方に基づいた名称である。ちなみに銅鐸の鐸身の厚みは2~3ミリで、現代の鋳造技術でもこの薄さできれいに鋳造することは困難だそうだ。だとすると、銅鐸そのものが「オーパーツ」(作られた当時の技術がその後失われてしまった工芸品)と言ってもよいのではないだろうか。 もしこれらの穴が「型持穴」であったとして、では、なぜこの個数、この位置なのであろうか?それに対する合理的な説明はあるのだろうか?銅鐸を作った人たちは、穴が残ってしまうことを不本意に思わなかったのであろうか? これに対し、上森は「銅鐸は測量機器だ」という。

鐸身の上部にあいた穴は「覗くための穴だ」というのだ。 2013年8月28日、上森は実際に出雲の歴史博物館で、展示された銅鐸を使ってこのことを確認している。 「銅鐸の細いほうから両眼で穴を見て、反対側の穴を見通すとどうでしょう・・・!! 焦点が暗い中に1点に綺麗に映し出されたのです」 すなわち、遠くの観測点に向かって、正確に銅鐸の向きを決められるのだ。その観測点には、銅剣を立てたのであろう。この説ならば、穴がこの位置にあることが合理的に説明がつくのだ。 さて、通常の説では、上面の「舞」にある2つの穴は、「型持穴」でもあり、「舌(ぜつ)」と呼ばれる内側から鐸身をたたく部品を吊り下げるため鎖またはひもを通す穴を兼ねていると言われている。 しかし、「測量機器」という文脈で見ると、これも変わってくる。 現在でも測量の基準となる地点の地面には石や金属の目印を設置し、三脚を立てて、三脚の上の「レベル」という測量器具がその基準点の真上になるように、「下げぶり」という分銅を垂らして位置決めをしている。 銅鐸はその「レベル」にあたる器具なので、やはり中心から分銅を垂らして、基準点の真上に設置したというわけだ。舞にある穴はそのために使われる。

さらに上森は、鐸身下部の「刻み」や「飾り耳」の用途も解明した。 上図のように、細いひもを鈕の最上部の「飾り耳」からさらに鐸身横の「飾り耳」に架け、下部の「刻み」に架け、交差させて、地面には同じ幅でひもを固定する装置を作っておけば、交差したひもが触れ合うとき、銅鐸は安定してしっかり固定され、観測点の方向を示すのだ。 さらに、地面に置いた器具も同じ方向を示すことになる。 おそらく、「飾り耳」がないころは、鈕の穴と下部の「刻み」だけでこれと同じことをしていたのではないだろうか。そして、ひもの固定がしやすく、ひもの長さも調整しやすいように改良されて、「飾り耳」がついたと推測できるのである。現場の声が反映したのであろう。もちろん、単なる「飾り」ではない。 そして、一緒に出土することの多い銅鏡は、測量現場では分度器であり水平器、また光通信の道具でもあったであろうと推測されるのである。

上の写真は、一般には有鉤銅釧(ゆうこうどうくしろ)と呼ばれる、銅鐸と同時代の青銅製品である。 釧(くしろ)というのは、腕輪のことである。 沖縄などの南の海で採れるゴホウラという貝で作った腕輪を青銅で模倣するうちに、このような鉤(かぎ)のついた輪の形になってしまったと言われているのである。 ところが、この製品、銅鐸を使った測量に役立つのである。 われわれはこの製品を「銅鐸吊り金具」と名付けることにする。 先に「舞」にあいている穴は舌(=下げぶり)を吊り下げるための鎖またはひもを通すために使われると書いたが、神戸市渦ヶ森銅鐸などは、舞の裏側の中央に環がつけられているので、この穴を使う必要がない。

そこでこの「吊り金具」の登場である。適当な長さの1本のひもを、2つの「吊り金具」の輪の部分に通してつなげて、ひもを結んで輪にしておき、それを組んだ木に架けて、「吊り金具」が下にぶら下がるようにしておく。そこに銅鐸を持ってきて、舞にあいた2つの穴に鉤の部分を両側から互いに逆向きになるように掛けるのである。 これで、取り外しが楽になり、ひもを架けて調節する際にも、ひもが絡まったりすることが防げて便利になる。特に斜面での測量などの場合に威力を発揮することは間違いない。


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銅鐸は測量するための器械ですよ!

2015-05-20 18:49:30 | かごめかごめの真実とは

 

銅鐸は測量器械で、巴型銅器と有鉤銅釧 は銅鐸の吊り金具でした


2015年5月20日(水)

邪馬壹国(しゃもいっこく)・・、

皆さんが言われるところの邪馬台国の謎は、完全に解明されました

淡路島で銅鐸が発見されたことが、今日のニュースの記事に出ていましたが、

新聞の記事を読んで嘆かわしいのは、銅鐸をいつまで祭祀の道具と言い続けるのでしょうかね。

銅鐸は測量の器械なんですよぉ~~!!

ちゃんと、測量するときに大事な基準点を出すための下げ振り もちゃんとセットで出土しているではありませんか。

平和的近代国家を作り上げるには、この国土を正確に測量、検地することから賢人達は始められたんですね。

それは紀元前から行われていましたが、初代大王イエス・キリストでそれに一段と拍車が掛けられます。

でも・・、イエス=大国主命がAD99年11月17日、現在の岡山県備前市で亡くなられる(享年102歳)や、我が国は覇権争いで80年ほど戦場に変わりました。

当然として悠々と測量などやれる環境にありませんから、その測量器械は、土に埋められたということです。

私は建築業界に30年間身を置き、一応一級建築士の資格も持っていますが、現在でも測量する時に使うレベルやトランシットを設置する時に必ず基準点を正確に決めなければなりません。 

全く太古の時代から同じように下げ振り(重り)に糸を付けて正確に基準点をだして、測量されていたのだと安心しますし、先人達に会ってみたいと言う気持ちも沸いてきます。

  銅鐸はな~~んだ!と、出雲に行って教えられましたぁ

Photo_2

 

 

 

 

 

銅鐸や銅鏡、銅剣は測量の器械でしたが、銅鐸と銅鏡で日時計にもなりますね。

 

Img9051936170001
Dscf9598

 

 

 

 

 

 

 

 

 

下げ振りの棒にちゃんと糸を通す穴も作られていますねぇ!

本体の上部には下げ振りを吊るす穴もちゃんとありますね。

銅鐸本体にも、のぞき穴がちゃんとありますよぉ!

この銅鐸が発見された淡路島の松帆地区は、

私が教えられたイエス様の生命の樹の第2のセフィラであるコクマー(知恵)にあたる場所です。

今日まで、淡路島の西端には何があるんだろうと思っていましたが、銅鐸発見のニュースで、

イエス様の生命の樹の正当性が立証された気がしています。

 

レプリカの銅鐸は三分の二の大きさなので、銅鐸から距離を置いて覗かなくてはなりません。

現代の測量の仕方で、銅鐸と鏡と下げ振りと糸があれば測量ができますね。

     

         

 

 

巴形銅器測量器具でしたねぇ。

 

 

巴形銅器は三脚を固定し、有鉤銅釧(銅鐸)を吊るす為の道具でした!

 

そして、基準点に合わすための水平距離の微調整を行いやすくする為の器具でした。

 

 

 

 

日本の古代史の中でも、謎の物体が「銅鐸」だ。 弥生時代、紀元前2世紀から、紀元2世紀にわたって約400年間作られ、その後姿を消した謎の青銅器である。 その使い途は明らかではないが、ほとんどの論者は祭祀に使われたという説を唱えている。内部に木や青銅でできた「舌(ぜつ)」と呼ばれる部品を垂らし、銅鐸そのものを揺らすか、舌のみを揺らして内面にあてて音を出したというのだ。その後、銅鐸そのものが巨大化し、鳴らすものではなく、いったという。

さて、上の図は、銅鐸の代表的な形である。 ほとんどの銅鐸に共通する要素は何だろうか? 形はだいたい似たような形をしている。 銅鐸本体の「鐸身(たくしん)」と上部の「鈕(ちゅう)」に分けられ、鈕の真ん中には穴があいている。鐸身は末広がりになっているが、直線的に広がっているものと、下の方ほど広がりが大きくなるものがある。 そして、鈕と鐸身をぐるっと囲むように鰭(ひれ)がついている。最も初期のものには鰭がないものもある。 後期のものでは、鰭にさらに「飾り耳」と呼ばれる突起が付く。そして、大型化していくのだ。 鐸身の文様は、文様のないものもあれば、「流水文」、「袈裟襷(けさだすき)文」や、人物や動物などの線画の描かれたものなどさまざまである。 ここで、気になるのが、鐸身にあいた穴である。通常「型持穴(かたもちあな)」と呼ばれる。「舞(まい)」と呼ばれる鐸身上面の平らな部分に鈕の穴を挟むように2個、鐸身の上部の鰭に近い部分に表裏各2個、鐸身下部には、「穴」というより「刻み」のような形でこれも表裏各2個、全部あわせて10個の穴があいている。 「型持穴」という名称は、鋳造するときに、内型と外型の間に青銅を流し込むための隙間を作るために、内型に隙間の厚さ(=鐸身の厚さ)に相当する高さの「出っ張り」を作っておいたものが、穴として残っているという考え方に基づいた名称である。ちなみに銅鐸の鐸身の厚みは2~3ミリで、現代の鋳造技術でもこの薄さできれいに鋳造することは困難だそうだ。だとすると、銅鐸そのものが「オーパーツ」(作られた当時の技術がその後失われてしまった工芸品)と言ってもよいのではないだろうか。 もしこれらの穴が「型持穴」であったとして、では、なぜこの個数、この位置なのであろうか?それに対する合理的な説明はあるのだろうか?銅鐸を作った人たちは、穴が残ってしまうことを不本意に思わなかったのであろうか? これに対し、上森は「銅鐸は測量機器だ」という。

鐸身の上部にあいた穴は「覗くための穴だ」というのだ。 2013年8月28日、上森は実際に出雲の歴史博物館で、展示された銅鐸を使ってこのことを確認している。 「銅鐸の細いほうから両眼で穴を見て、反対側の穴を見通すとどうでしょう・・・!! 焦点が暗い中に1点に綺麗に映し出されたのです」 すなわち、遠くの観測点に向かって、正確に銅鐸の向きを決められるのだ。その観測点には、銅剣を立てたのであろう。この説ならば、穴がこの位置にあることが合理的に説明がつくのだ。 さて、通常の説では、上面の「舞」にある2つの穴は、「型持穴」でもあり、「舌(ぜつ)」と呼ばれる内側から鐸身をたたく部品を吊り下げるため鎖またはひもを通す穴を兼ねていると言われている。 しかし、「測量機器」という文脈で見ると、これも変わってくる。 現在でも測量の基準となる地点の地面には石や金属の目印を設置し、三脚を立てて、三脚の上の「レベル」という測量器具がその基準点の真上になるように、「下げぶり」という分銅を垂らして位置決めをしている。 銅鐸はその「レベル」にあたる器具なので、やはり中心から分銅を垂らして、基準点の真上に設置したというわけだ。舞にある穴はそのために使われる。

さらに上森は、鐸身下部の「刻み」や「飾り耳」の用途も解明した。 上図のように、細いひもを鈕の最上部の「飾り耳」からさらに鐸身横の「飾り耳」に架け、下部の「刻み」に架け、交差させて、地面には同じ幅でひもを固定する装置を作っておけば、交差したひもが触れ合うとき、銅鐸は安定してしっかり固定され、観測点の方向を示すのだ。 さらに、地面に置いた器具も同じ方向を示すことになる。 おそらく、「飾り耳」がないころは、鈕の穴と下部の「刻み」だけでこれと同じことをしていたのではないだろうか。そして、ひもの固定がしやすく、ひもの長さも調整しやすいように改良されて、「飾り耳」がついたと推測できるのである。現場の声が反映したのであろう。もちろん、単なる「飾り」ではない。 そして、一緒に出土することの多い銅鏡は、測量現場では分度器であり水平器、また光通信の道具でもあったであろうと推測されるのである。

上の写真は、一般には有鉤銅釧(ゆうこうどうくしろ)と呼ばれる、銅鐸と同時代の青銅製品である。 釧(くしろ)というのは、腕輪のことである。 沖縄などの南の海で採れるゴホウラという貝で作った腕輪を青銅で模倣するうちに、このような鉤(かぎ)のついた輪の形になってしまったと言われているのである。 ところが、この製品、銅鐸を使った測量に役立つのである。 われわれはこの製品を「銅鐸吊り金具」と名付けることにする。 先に「舞」にあいている穴は舌(=下げぶり)を吊り下げるための鎖またはひもを通すために使われると書いたが、神戸市渦ヶ森銅鐸などは、舞の裏側の中央に環がつけられているので、この穴を使う必要がない。

そこでこの「吊り金具」の登場である。適当な長さの1本のひもを、2つの「吊り金具」の輪の部分に通してつなげて、ひもを結んで輪にしておき、それを組んだ木に架けて、「吊り金具」が下にぶら下がるようにしておく。そこに銅鐸を持ってきて、舞にあいた2つの穴に鉤の部分を両側から互いに逆向きになるように掛けるのである。 これで、取り外しが楽になり、ひもを架けて調節する際にも、ひもが絡まったりすることが防げて便利になる。特に斜面での測量などの場合に威力を発揮することは間違いない。


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ダビデの星の中心ポイントがアブラハムのお墓です

2014-12-29 10:11:54 | かごめかごめの真実とは

2014年12月29日(月)

 

                       

 

鶴と亀の巨大な地上絵がある生野を頂点とするダビデの星の中心点に、1,2㎞ほどの巨大な勾玉が山を使って造形されています。

この勾玉は、熊山遺跡(岡山県)を通って、銅鐸や剣、鏡など大量に出土した、

荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡などがある出雲地方を向けて造営されています。 

 

 

この巨大な勾玉の地上絵を私には、キリスト教やユダヤ教、イスラム教の宗祖であるアブラハムのお墓であると契約の主が告げます。

この淡路島のアブラハムのお墓と、丹後半島のモーセの墓と、奈良県山添村のテラ(アブラハムの父)の墓の3点は夏に輝く大三角形の星座に見立てているようです。

今までこの3ヶ所に立たれたのは、私と武部さん2人だけです。

この3ヶ所とイエス=キリストのお墓を入れて4ヶ所も当然として私と武部さん2人だけです。

いえいえ、空海様や卑弥呼さんや、出口王仁三郎氏らももう行って居られるご様子です。

「世界平和へのシナリオ」を神様は日出国、日本にご用意されていました。

 

・・・

12日、アブラハムのお墓へ御案内いたします。  

 


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それは困りますねぇ

2014-07-24 13:14:12 | かごめかごめの真実とは

2014年7月24日(木)

 スタップサロンに奥様の付添で来られたご主人様が手持無沙汰にして居られるのを見られて、「こちらのテーブルに座ってもらってもいいですか」と、神様の言葉を届けてくれるT、Tさんが言われるので、「いいですよ、どうぞ」と言うことで、初対面のご主人様。

「カゴメの話や本のことは御存じなのでしょうか」と私。

「いえ・・、何もご存じないようです」と、T,Tさん。

「そうですかぁ・・」ということで、・・でも自己紹介がてら新刊の本の表紙に書いてある 著者「上森三郎」の部分を指さして、

「上森三郎と申します・・」と自己紹介をしました。 そして・・いろいろを話して・・

私 :「ところで職業はどのようなことを・・」

御主人様 :「教員をやっています」

私 :「そうですかぁ・・、この本の中の88ページに銅鐸のことを書いているんですが、学校で先生が、銅鐸は・・・・と説明されたら生徒さんが、 先生! 銅鐸は測量するための道具です!と言うようなことがこれから起こりますが・・」

ご主人様 :「そうですかぁ・・、それは困りますねぇ・・」

・・というような会話をしていると、奥様の施術も終わり、お二人仲良く笑顔で帰って行かれました。

 いつまでもいつまでもお二人仲良く過ごされることを願って見送りました。

  いつまでもお幸せに!・・と。 田中先生の魔法の手から奇跡が起きますことを願って

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銅鐸や銅鏡、銅剣は測量の器械でしたが、銅鐸と銅鏡で日時計にもなりますね。

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ついに告知されました!

2014-07-10 11:18:29 | かごめかごめの真実とは

2014年7月10日(木)

イスラエルの「元つ国日本」にユダヤ人が戻ってくる

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続・世界文明の「起源は日本」だった

イスラエルの「元つ国日本」にユダヤ人が戻ってくる

世界の聖地《東経134度80分》がよみがえる!

著者:上森 三郎、神部 一馬

四六判ハードカバー 価格:2000円+税

超★わくわくシリーズ056

☆2014年7月下旬発売予定☆

ISBN:9784864712071

物質文明のリーダーたるユダヤ人と
霊性文明のリーダーたるユダヤ人
このどちらもが共通のふるさとの地NIPPONで融合を遂げるとき

――万有和楽の世界への大激動を告げる書!
日本にこれほど精緻な仕組みがほどこされていたとは!
まだ誰も見たことのないNIPPONへ――

◎ ピラミッドのルーツも「日来神宮」!
◎ 新世紀《生命も宗教も元一つ》の仕組みが、ここ大和の地より世界に再び移写拡大を始める!
◎ 新発見の巨大地上絵がGoogleアースから消されている!
◎ オスプレイが東経134度80分を狙っている!?
◎ 『石の宝殿』の下にはキリストの『聖杯』が秘匿されている!?
◎ 地下聖堂は兵庫県生野町の山中120メートル地下にある
◎ 浦島太郎のヘブライ語読み《ウーシラッ・ショーメン・ダラ》は《水を引いて統治権を守護せよ!》
◎ かごめ歌の《後ろの正面だあれ=ウーシラッ・ショーメン・ダラ》は浦島太郎の隠喩だった!
◎ 浦島太郎はモーセ、モーセはスーサの王=スサノオノミコト!
◎ 邪馬壹国の読みは《シャモイッコク》、シャモはモーセの逆さ読み、闘争心の強い軍鶏のたとえ
◎ イエス・キリスト=神武天皇はモーセの律法を第一とする国・邪馬壹国の創始者!
◎ 銅鐸、銅鏡、剣を測量機器として、ユダヤの神秘思想《カバラと生命の樹》によって国造りが行われていた!
◎ 稲荷とはINRI=イエス・キリストのこと!
◎ イエスは日本の天皇から神道を学び、イスラエルから戻って神武となった
◎ キリストの墓は高砂高御位山の北麓にある、勾玉の形をした山である
◎ 日本人のDNAがモーセやキリストに受け継がれていた
◎ 日本発の文明や文化が3500年前あたりから日本に戻ってきた
◎ 「イスラエル10支族」は「東の海に囲まれた島々」に向かった
◎ 大和の国が蘇り、世界の聖地となる
◎ 七福神の福禄寿・寿老人はモーセ、大黒天がイエス、布袋はトマス、弁財天が卑弥呼
◎ 八坂のヘブライ語読み《ヤーサカ》は《神よと叫ぶ》の意味
◎ 八幡は《ヤーハタ》、《秦氏の神ヤハウエ》のこと
◎ ワッショイは《神が来られた》、エッサは《救世主》、エンヤラヤーは《我こそは神を誉め讃えまつらん》
◎ 出雲大社はモーセとイエスを祀っている!
◎ 君が代はヘブライ語読みでこそ意味をなす!
◎ かごめ歌もとうりゃんせも皆ヘブライ語で読める!
◎ スフィンクスの目は太陽巨石文化時代の発祥地、飛騨高山の位山を見つめている
◎ 古代日本のスメラミコトは二千何百種に及ぶ文字を持っていた
◎ 世界最古の文字は神代文字、世界の文字のルーツはすべて日本!
◎ 契約のアークとイエスの痕跡を消すための壮大なる国仕掛けをしたのは、和気清麻呂と空海
◎ 契約のアークは「地下神殿がある生野で祀れ」との空海様のメッセージ
◎ モーセの律法を第1とする理想的平和国家を造ろうと、馬ノ山周辺に賢者たちが結集した
◎ 馬ノ山古墳は古代ユダヤ・出雲王朝の重要な拠点だった
◎ 紀元前300年頃、3000人あまりが出雲に辿り着いた
◎ 比叡山延暦寺根本中堂と高野山金剛峯寺を結んだ底辺の正三角形の頂点に何かがある!
◎ 6500年前、曽畑式水人は北米に渡りインディアンの先祖となった
◎ 南米地下都市の『黄金板の碑文』がイズモ文字で読めた!
◎ 太古、日本の国王が世界を治めていた

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Things at Mr Uemori's office

2014-06-17 19:57:00 | 空海 -KUKAI-

 

I visited Mr Uemori’s office for first time in March 2014. There are quite a few interesting things placed in his office and I took some photos of them. I’d like to introduce them here.



Japanese maps for foreigners (written in Roman style)

Mr Uemori was introduced to an old lady who lived in an area called Sengamine. On the day that she gave him a book with a red cover, his friend rang and asked to meet up as he had something to give to Mr Uemori. The time was getting late so Mr Uemori told him to do it the next day but his friend insisted to meet asap. And on that night, Mr Uemori’s friend gave him a similar book with a red cover but  larger in size.

The book was also published by the same group which the old lady belongs to, and came to Mr Uemori’s place as if by a miracle.There were surprising maps in the big red covered book.

 

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As you can see, these are the Japanese maps with lines like Mr Uemori makes now. On top of that, this map is written in Roman Style (The style used to write Japanese words alphabetically according to the sound). There are not only lines but words as well. Some important points which are not printed originally are hand written.
So-----it means that there were people who made important findings, and they were researching those area like Mr Uemori is doing at the moment. And they were not Japanese!

Well-----who they were and what were they searching for?





Himiko's KOTAISEKI (Praying stone) 



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These are strange stones which Mr Uemori found while he was digging and researching Himiko’s tomb. They are magnetised and if you place a compass near them, the needle keeps moving and doesn’t stop at north. They have a formidable power. If you put your hands over them, you will feel very strong energy coming up from the palm of your hands. Me Uemori says if an energy sensitive person stands in front of them, their body will be forced back.
Mr Uemori thinks these stones are the Kotaiseki which were used by HiImiko when she offered her prayers.



Replica of a bronze mirror (銅鏡) Img_1958    and a bronze bell (銅鐸) Img_1960

 

Academically, it is said that they were the tools used in rituals at that time (around 2C) however; Mr Uemori determined that they were surveying instruments. Img9051936170001

He says they can be used as a sundial when combined. Dscf9598






Turtles     Img_1961

There are so many different sizes, colours and materials of the turtle decorations in his office. The Turtle plays important role in the story of Urashima tarou and also appears in the song of Kagome Kagome. Mr Uemori says Urashima tarou represents Moses. According to him, the story of how Urashima tarou rescued a turtle when it was abused by a human and the turtle took him to a wonderful palace at the bottom of the deep ocean, represents the story of how Moses rescued Israelis from Egypt and they reached Japan. 

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Nanakosho  (Buddhism ritual implements)  Img_1957

Kongousho, which is called vajra in Sanskrit, is a ritual implement in Tibetan and Esoteric Buddhism.  This kind of ritual implement represents a weapon in Indian myths, and expresses a state that the teaching of Buddha renounces worldly desires and gains spiritual enlightenment/Buddhahood. So, Kongousho generally explains two different faces. One is “impregnable” and the other is “smash”. It is derived from the saying that ”The Buddha’s prajna (insight leading to enlightenment) is impregnable and smashes worldly desires”. 
Kongousho has several kinds and they have different shapes at both edges. This one is called Nanakosho as the edge has 6 claws around the central bar.




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最澄様も動き出されました

2014-06-13 11:52:34 | かごめかごめの真実とは

2013年10月7日(月)のことです。

霧の動きが目の前を流れる比叡山延暦寺は幻想の世界でした。

「最澄氏はここから何を祈っていたんだろう・・」と思いながら、根本中堂へと入って行きました。 床にひざまずき仏様の目線で静かに暗闇に映し出されるご本尊様をみつめていると、平安の時代にもうすべり込んでいるかのようでした。

そこへ御坊様が詳しくお話をしてくれると言うので御坊様の前に行って静かに聞くことにしました。 ・・・

「ここ延暦寺は京都から鬼門にあたる場所に造られていまして・・」と御坊様。

「・・んん、なるほど・・、方角は合ってるな・・」

「あちらに書かれている傳教の文字は昭和天皇の直筆です」

「傳教・・・でんぎょう、か・・難しい字だなぁ」

「ご本尊様も京都を見て御守りしています」と説明が続きます。

「えっ、それはないでしょう」

・・と強い疑念を持った私は早速コンパスグラスで配置された建物の角度から仏様が向いている方角を割り出しました。

ご本尊様はキッチリと100度の方角をみつめていました。 もちろん根本中堂は100度の方角を向けて建築されています。 これは尾張を強く意識した設計となっています。

この角度から奈良、平安へと遷りゆく大いに隠された歴史が浮かび上がって来そうです。

そして100度の方角には、銅鐸のレプリカを買求めに行った時に下り立ったJR野洲駅からすぐさま目に飛び込んできた人工的な山に映った三上山を通り、そのラインの先にある御座所山をキッチリとみつめていました。そしてその180度反対方向には、出雲の国を造られた王様が眠る松本古墳に行き着きます。

又、比叡山延暦寺と大田市の物部神社とを結んだライン上に卑弥呼おばさんが眠る婀月山がピタリと位置するのは偶然でしょうか。

最澄氏は、ご本尊様といつも向かいあいますが、その方向280度には卑弥呼おばさんの御霊が眠っています。 

最澄氏は比叡山から、自ら入定した卑弥呼おばさんの御魂の供養を日々欠かさなかったように思えて仕方ありません。

どうも、平安京を創った桓武天皇や和気清麻呂他、主要なメンバーは皆この日本の歴史をよ~~く知っていたようです。

でも、これら日本の本当の歴史を表に出すことは許されず、「1200年の後の世に表にあげよ!」と、かごめの唄に託したようです。

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比叡山から山王総本宮の日吉大社へと車を走らせました。そしてもう、すぐそこが日吉大社という所の交差点の信号が赤になり、右手のお寺さんを見ると入口横に延暦寺根本中堂で、「昭和天皇直筆の 傳教」 の文字が目に飛び込んできました。

傳教大師御生誕地 生源寺

最澄氏の生れ在所を調べて行った訳でもありませんでしたから、それはビックリの私でした。 当然、吸いこまれるようにお寺さんの門を潜っていました。

本堂に上がってお線香をあげました。 静かな時間が流れ、そして境内へ出て何気なく空を見上げると、本堂に入る前とは全く違った情景にそれはそれは感動するばかりで、空を見上げていました。

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間違いなく最澄氏に呼ばれ、最澄氏の故郷に案内されたようでした。

・・・

傳教大師最澄氏のご誕生の地である生源寺さんから山王総本宮日吉大社へと行きました。

変った鳥居がありましたねぇ。 そして・・、西本宮本殿のご祭神は、おお~~ 大己貴神おおなむちのかみを祀っていました。 福岡県朝倉市の大己貴神社に行ってから、不思議と縁あるところへと導かれているようです。

 

 

 

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広い境内をゆっくりと散策して、滋賀県大津市坂本を後にして、京都へと車を走らせました。

そして・・、行った所は・・大酒神社。

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そして・・ 

 

日本の国造りに大きな役割を果たした秦氏が建立した広隆寺へ。

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 間違いなくメッセンジャーの山下さんを動かして、私に大事な場所を見せてくれたようでした。

 山下さん、ありがとうございました。 感謝申し上げます。

・・・

んん~~ん、不思議な話はまだまだ続いていますね。

空歳様と最澄様がキッチリと教えていらっしゃいます。

高野山金剛峯寺と比叡山延暦寺の根本中堂とを結んで、ピンポイントで出来た正三角形の頂点にピラミッドらしき人工の山があります。

どうもこの山はお墓(方墳)のようですね。

その山の麓には白髭しろひ大明神と言う神社があります。・・が、今は寂しいかぎりの様相になっています。

この白髭神社は誰を祀っているかと言いますと、猿田彦を祀っています。

この一連の流れから教えられるものは、大己貴神おおなむちのかみと、猿田彦が同一人物のように聞こえてきます。

そしてこの山には何か大変な秘密が隠されているようです。

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間違いなく最澄氏に導かれていました

2013-10-09 10:42:40 | かごめかごめの真実とは

2013年10月7日(月)

霧の動きが目の前を流れる比叡山延暦寺は幻想の世界でした。

「最澄氏はここから何を祈っていたんだろう・・」と思いながら、根本中堂へと入って行きました。 床にひざまずき仏様の目線で静かに暗闇に映し出されるご本尊様をみつめていると、平安の時代にもうすべり込んでいるかのようでした。

そこへ御坊様が詳しくお話をしてくれると言うので御坊様の前に行って静かに聞くことにしました。 ・・・

「ここ延暦寺は京都から鬼門にあたる場所に造られていまして・・」と御坊様。

「・・んん、なるほど・・、方角は合ってるな・・」

「あちらに書かれている傳教の文字は昭和天皇の直筆です」

「傳教・・・でんぎょう、か・・難しい字だなぁ」

「ご本尊様も京都を見て御守りしています」と説明が続きます。

「えっ、それはないでしょう」

・・と強い疑念を持った私は早速コンパスグラスで配置された建物の角度から仏様が向いている方角を割り出しました。

ご本尊様はキッチリと100度の方角をみつめていました。 もちろん根本中堂は100度の方角を向けて建築されています。 これは尾張を強く意識した設計となっています。

この角度から奈良、平安へと遷りゆく大いに隠された歴史が浮かび上がって来そうです。

そして100度の方角には、銅鐸のレプリカを買求めに行った時に下り立ったJR野洲駅からすぐさま目に飛び込んできた人工的な山に映った三上山を通り、そのラインの先にある御座所山をキッチリとみつめていました。そしてその180度反対方向には、出雲の国を造られた王様が眠る松本古墳に行き着きます。

又、比叡山延暦寺と大田市の物部神社とを結んだライン上に卑弥呼おばさんが眠る婀月山がピタリと位置するのは偶然でしょうか。

最澄氏は、ご本尊様といつも向かいあいますが、その方向280度には卑弥呼おばさんの御霊が眠っています。 

最澄氏は比叡山から、自ら入定した卑弥呼おばさんの御魂の供養を日々欠かさなかったように思えて仕方ありません。

どうも、平安京を創った桓武天皇や和気清麻呂他、主要なメンバーは皆この日本の歴史をよ~~く知っていたようです。

でも、これら日本の本当の歴史を表に出すことは許されず、「1200年の後の世に表にあげよ!」と、かごめの唄に託したようです。

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比叡山から山王総本宮の日吉大社へと車を走らせました。そしてもう、すぐそこが日吉大社という所の交差点の信号が赤になり、右手のお寺さんを見ると入口横に延暦寺根本中堂で、「昭和天皇直筆の 傳教」 の文字が目に飛び込んできました。

 

傳教大師御生誕地 生源寺

最澄氏の生れ在所を調べて行った訳でもありませんでしたから、それはビックリの私でした。 当然、吸いこまれるようにお寺さんの門を潜っていました。

本堂に上がってお線香をあげました。 静かな時間が流れ、そして境内へ出て何気なく空を見上げると、本堂に入る前とは全く違った情景にそれはそれは感動するばかりで、空を見上げていました。

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間違いなく最澄氏に呼ばれ、最澄氏の故郷に案内されたようでした。

その後のお話は、次へと 続きます・・。


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