2013年10月7日(月)のことです。
霧の動きが目の前を流れる比叡山延暦寺は幻想の世界でした。
「最澄氏はここから何を祈っていたんだろう・・」と思いながら、根本中堂へと入って行きました。 床にひざまずき仏様の目線で静かに暗闇に映し出されるご本尊様をみつめていると、平安の時代にもうすべり込んでいるかのようでした。
そこへ御坊様が詳しくお話をしてくれると言うので御坊様の前に行って静かに聞くことにしました。 ・・・
「ここ延暦寺は京都から鬼門にあたる場所に造られていまして・・」と御坊様。
「・・んん、なるほど・・、方角は合ってるな・・」
「あちらに書かれている傳教の文字は昭和天皇の直筆です」
「傳教・・・でんぎょう、か・・難しい字だなぁ」
「ご本尊様も京都を見て御守りしています」と説明が続きます。
「えっ、それはないでしょう」
・・と強い疑念を持った私は早速コンパスグラスで配置された建物の角度から仏様が向いている方角を割り出しました。
ご本尊様はキッチリと100度の方角をみつめていました。 もちろん根本中堂は100度の方角を向けて建築されています。 これは尾張を強く意識した設計となっています。
この角度から奈良、平安へと遷りゆく大いに隠された歴史が浮かび上がって来そうです。
そして100度の方角には、銅鐸のレプリカを買求めに行った時に下り立ったJR野洲駅からすぐさま目に飛び込んできた人工的な山に映った三上山を通り、そのラインの先にある御座所山をキッチリとみつめていました。そしてその180度反対方向には、出雲の国を造られた王様が眠る松本古墳に行き着きます。
又、比叡山延暦寺と大田市の物部神社とを結んだライン上に卑弥呼おばさんが眠る婀月山がピタリと位置するのは偶然でしょうか。
最澄氏は、ご本尊様といつも向かいあいますが、その方向280度には卑弥呼おばさんの御霊が眠っています。
最澄氏は比叡山から、自ら入定した卑弥呼おばさんの御魂の供養を日々欠かさなかったように思えて仕方ありません。
どうも、平安京を創った桓武天皇や和気清麻呂他、主要なメンバーは皆この日本の歴史をよ~~く知っていたようです。
でも、これら日本の本当の歴史を表に出すことは許されず、「1200年の後の世に表にあげよ!」と、かごめの唄に託したようです。
比叡山から山王総本宮の日吉大社へと車を走らせました。そしてもう、すぐそこが日吉大社という所の交差点の信号が赤になり、右手のお寺さんを見ると入口横に延暦寺根本中堂で、「昭和天皇直筆の 傳教」 の文字が目に飛び込んできました。
傳教大師御生誕地 生源寺
最澄氏の生れ在所を調べて行った訳でもありませんでしたから、それはビックリの私でした。 当然、吸いこまれるようにお寺さんの門を潜っていました。
本堂に上がってお線香をあげました。 静かな時間が流れ、そして境内へ出て何気なく空を見上げると、本堂に入る前とは全く違った情景にそれはそれは感動するばかりで、空を見上げていました。
間違いなく最澄氏に呼ばれ、最澄氏の故郷に案内されたようでした。
・・・傳教大師最澄氏のご誕生の地である生源寺さんから山王総本宮日吉大社へと行きました。
変った鳥居がありましたねぇ。 そして・・、西本宮本殿のご祭神は、おお~~ 大己貴神おおなむちのかみを祀っていました。 福岡県朝倉市の大己貴神社に行ってから、不思議と縁あるところへと導かれているようです。
広い境内をゆっくりと散策して、滋賀県大津市坂本を後にして、京都へと車を走らせました。
そして・・、行った所は・・大酒神社。 そして・・ 日本の国造りに大きな役割を果たした秦氏が建立した広隆寺へ。 間違いなくメッセンジャーの山下さんを動かして、私に大事な場所を見せてくれたようでした。 ・・・ んん~~ん、不思議な話はまだまだ続いていますね。 空歳様と最澄様がキッチリと教えていらっしゃいます。 高野山金剛峯寺と比叡山延暦寺の根本中堂とを結んで、ピンポイントで出来た正三角形の頂点にピラミッドらしき人工の山があります。 どうもこの山はお墓(方墳)のようですね。 その山の麓には白髭しろひげ大明神と言う神社があります。・・が、今は寂しいかぎりの様相になっています。 この白髭神社は誰を祀っているかと言いますと、猿田彦を祀っています。 この一連の流れから教えられるものは、大己貴神おおなむちのかみと、猿田彦が同一人物のように聞こえてきます。 そしてこの山には何か大変な秘密が隠されているようです。