彦山光三は不知火〔諾…〕の手数入(でずいり)
から太刀もち・露払いが土俵に上るようになった
らしい云々と書いていたが、大いに疑問だ。
彦山翁が歌川國貞が描いた不知火の錦絵に「堪能」
したと云うけど、その絵をみると、太刀持・露払は
某女性市長が挨拶した「土俵下」だった。
それでは、太刀もち・露払いの両力士が横綱と
一緒に土俵へ上るのはいつからなのか…。
私見・愚考では、明治初年の鬼面山あたりから
ではないかと思う。
彼の錦絵をみると、太刀もち・露払いは「土俵下」
ではない。
では、なんで太刀もち・露払いが土俵へ上る理由。
それは「写真術」と関係がありそうだ。
幕末~維新にかけて、外人さんがカメラで力士━
殊に横綱のセレモニーを写そうとした。当時、土俵下
の太刀もち・露払いは、ぼやけてしまうじゃぁないか。
尚、浮世絵師が横綱手数入を題材にした場合、
実際は土俵下なのに土俵上にいるように描いたり、
逆に、土俵へ上っている太刀もち・露払いを土俵下
にいるように描写することだって可能でしょう…。
から太刀もち・露払いが土俵に上るようになった
らしい云々と書いていたが、大いに疑問だ。
彦山翁が歌川國貞が描いた不知火の錦絵に「堪能」
したと云うけど、その絵をみると、太刀持・露払は
某女性市長が挨拶した「土俵下」だった。
それでは、太刀もち・露払いの両力士が横綱と
一緒に土俵へ上るのはいつからなのか…。
私見・愚考では、明治初年の鬼面山あたりから
ではないかと思う。
彼の錦絵をみると、太刀もち・露払いは「土俵下」
ではない。
では、なんで太刀もち・露払いが土俵へ上る理由。
それは「写真術」と関係がありそうだ。
幕末~維新にかけて、外人さんがカメラで力士━
殊に横綱のセレモニーを写そうとした。当時、土俵下
の太刀もち・露払いは、ぼやけてしまうじゃぁないか。
尚、浮世絵師が横綱手数入を題材にした場合、
実際は土俵下なのに土俵上にいるように描いたり、
逆に、土俵へ上っている太刀もち・露払いを土俵下
にいるように描写することだって可能でしょう…。