大繁盛していた父の店にも戦争の影が忍び寄って来ました。職人達への召集に続き父も徴用され呉(軍港)の造船所で木工の仕事に就かされました。しかし、父は休暇で帰って来る度にリュックサックに一杯のネーブルを詰めて帰って来ます。
そうそう、戦時中は石段のお店は何かと不便ですので、母の両親が住まう長屋の4軒隣に住んでいました。
私の記憶が鮮明なのは、この長屋暮らしからです。
何故、父のリョクサックにはネーブルで一杯だったのでしょう。
呉に戻る時の父の財布(腹巻きですが)には大金が入っていたそうです。その金で徴用先の造船所でも案外良い暮らしをしていた様です。
しかし、近隣の都市が空襲に遭うようになり、父は父の実家に私だけを疎開させました。空襲があっても長男だけは助けたいと思っていたのです。
小学校の校門を出ると、私だけは皆と反対の田舎の方へ線路伝いに歩いて父方のおじいさん、おばあさんの家に行きます。
私の家では戦時中も白米を食べていましたが、父の実家では麦ご飯で、ハエが多く食が進みません。白米だけを寄って食べていました。