2015年9月27日(日)
大谷資料館を見学後、市営駐車場から平和観音の方へ歩いて行きました。 途中の道には「天狗の投石」と呼ばれる奇岩が見られたり、大谷石で造られたおうちや蔵なども見ることができ、公園のようになったかと思うと真正面に「平和観音」様がど~ん!と見えてきます。
そのお姿を見た瞬間に「はっ!?」とむか~し、むか~しの記憶がよみがえりました。 あとから「あれは大谷にある平和観音だったかな?」と母に確認したら、やはりそのようでした。
その記憶とは、観音様の前で集合して撮った写真を見ながら父が「この観音様の親指見て。 親指だけ少し上がってるでしょ。 水虫が痒くて掻いているのかな?ww」
不信心な父ですね。 もういませんが。 その時に見た写真を探してみました。 アルバムをひっくり返して、出てきた写真が下です。 観音様の全体像の下にみんなが並んでいる写真があったように思ったのですが、記憶違いか、その写真はどこか違う所にあるのか。。。
集合写真は観音様の下半分でした。 この中に不信心な父がいます。w 母もいます。 私はいません。 祖母と留守番だったのかな。w
昭和40年代前半ではないでしょうか。 この写真を見ながらあんな話をしたのだったかなぁ。。。
それにしてもこれ、社員旅行だったらしいのですが、男性はワイシャツ、ネクタイ姿の方が多いですね。 女性のファッションが年代を感じますね。w
こちらの写真が一緒にあった観音様の上半身。
「平和観音」は昭和23年から6年間もかけて、手彫りで掘られた観音様です。
第二次世界大戦中、戦闘機を作る中島飛行機が大谷石採掘場構内(現在の大谷資料館内)で飛行機製造の作業を行っていました。 しかし、そこでは飛行機を一機も製造することなく終戦を迎えました。 動員された作業員の中に群馬県から来た上野浪造氏がいました。 彼は戦争で弟二人を亡くし、また戦争中に亡くなった多くの人々の魂を慰めようと、この地に高崎の白衣観音のような観音様を掘ろうと決意します。 が資金も尽き完成できずにいた時、地域の人々が大谷観光協会をつくり資金を募り、東京芸大の飛田朝次郎教授が観音像を再度作り替え完成させたのが昭和29年。 昭和31年に日光輪王寺の僧侶に寄り開眼式が行われたのだそうです。
「平和観音」の由来はそう言う事だったのですね。
現在の観音様
ところで、昔の観音様と今の観音様、胸の下で組まれた手のあたりが壊れてしまっているようですね。 何かあったのか一応調べてみたのですが、わかりませんでした。
お顔は白く、微笑んだ美しい表情は昔のままですね。
さて、観音様とは全く関係ないのですが、この写真と、
この写真がどうやら同じ旅行中に撮られているようなのです。 大谷の近くなんでしょうかね。
第二次世界大戦が終わり70年も経つというのに、人間の歴史にはまだまだ非情な戦いが続いています。 おそらく平和は世界中全ての人が願っているはずなのでしょうが。。。
戦いのない安全で平和な世界に、本当になってほしいですね。