資本主義の未来は明るいのであろうか?自己責任を強調し、市場最優先、世界を駆け巡る巨大なマネーは人々を勝ち組と負け組に選別し、富める者と貧しい者の格差は耐えがたいほど拡大している。現代にマルクスが蘇れば、このような状況に対してどのような処方箋を書くのであろうかと想像するのは知的な遊びとしては面白いだろう。しかし、ぼんくらのおじさんには検討もつかない。Wikipediaで調べるとマルクスは1818年生まれ(1883年死亡)で哲学者、思想家、経済学者、革命家とある。「共産党宣言」(1848年)で「万国の労働者よ、団結せよ!」と訴えて、特に有名になった。また、かつて経済学特にマルクス経済学を学ぶものにとって、「資本論」を読むことは必須とされた(しかし、おじさんも含め大部分の学生はその最初を読んだだけで挫折しまうような本だった)。学生運動の高揚の後、マルクスの思想は急速に日本から消えていった。そして社会主義体制国家が崩壊した今(中国や北朝鮮はこの範疇に入らない)、なぜマルクスを読むことが必要なのだろうか。
マルクスが生きた時代の資本主義は労働者にとって極めて過酷な状態だった。長時間労働、児童労働は野放し、職場環境は悪く、労働運動に対する弾圧は熾烈を極めた。それに比べると現在は、労働法制は整備され、職場環境は劇的に改善された。しかし、不正規労働者の占める割合は今や40%となり、正規労働者も長時間労働を強いられている。ブラック企業などどいう女工哀史の時代に戻ったとも思えるような企業まで出現している。政府は財界の言うことばかり聞き、世界一働きやすい日本(働かせやすいの間違いではないか)の実現に努力し、加えて日本人の労働条件の改善はせずに外国人労働者を最低賃金で働かせようとしている。ケインズは孫たちの世代(100年後)には一日3時間働ければよくなと予言したが、まさにブラックジョークとなっている。今「蟹工船」や「女工哀史」がリバイバルするのも納得できる。
内田樹・石川康宏著「若者よ、マルクスを読もう(Ⅰ~Ⅲ)」(他にもマルクスの入門書が数多く出版されている)はこうした時代の中で生まれたものだ。この本が韓国で翻訳されていることが興味深い(内田氏によると韓国ではマルクスについて書かれたものはほとんどなく、社会学などの思想的基盤が弱いと書いている)。内田氏の書いていることだが、マルクスの民衆への深い愛情(マルクス自身はユダヤ人で父親はユダヤ教ラビで弁護士、いわゆるブルジャワ階級に属する)そして時代の諸問題に鋭く切り込むその論理、洞察力は彼の説く思想が時代にあわなくなっても、常に参照すべき偉人あることを強調している。BBCが西暦2000年を前にして、「過去1000年間でもっとも偉大な思想家は誰だと思うか」というアンケートで、第一位はマルクス、第二位がアインシュタイン、第三位がニュートン、第四位ダーウィンとなった。そこで内田氏はマルクスがこのように多くの人から敬意を払われている国々では、仮にはっきりした自覚がないにしても、その思想は社会の不公正や貧困の解決に取り組む人々の意志を支える一つの土壌になっているのでないかと。
この本の著者内田氏は、実に幅広い分野で提言したり、本を出している。思いがけない切り口から迫るやり方は、高校生の頃からマルクスを愛読していたからなのだろう。もともとはフランス文学を専門とし、フランスの思想家エマニュエル・レヴィナスに師事した(武道家でもある)。彼の本で最初に読んだのは「私家版・ユダヤ文化論」(内容は全く覚えていない。彼はヨーロッパにおける反ユダヤ主義について研究した。)「マルクスを読もう」から内田氏の主張を引用する。日本では「高齢者」や「生活保護受給者」や「公務員」をバッシングして、彼らからその特権をはぎ取ろうという言説がある。「あいつらからはぎ取って、俺に返せ」では弱者たちはけっして連帯できない。二極化がますます進むだけ。上層部は緊密なネットワークを形成して、お互いに便宜を図りあって相互支援、相互扶助をしあっている。逆に下に行けば行くほど、連帯する能力は劣化し、相互扶助のシステムは機能しなくなっている。マルクスの社会改革論は奪還論ではなく、惻隠の情、贈与しなければならないという衝動なんです。それがないと社会正義は実現できない。少年青年の頃に、マルクスを学び、マルクス主義の実践運動に少しでも関わった人たちは、人間的で公正な社会をいまただちにここで実現するには人間はあまりに弱く、あまりに邪悪であり、あまりに卑劣である。マルクス主義に人を向かわせる最大の動機は「貧しい人たち、飢えている人たち、収奪されている人たち、社会的不正に耐えている人たち」に対する私たち自身のやましさです。そうしたやましさが日本人の心から消え、マルクスが読まれなくなった。成就のための必須の階段の一段を失い、人間的成熟の訓練の機会を失った日本人は恥ずかしいほど未熟な国民になりました。
いやー内田氏マルクスに負けず劣らず本当に熱いですね。ここで紹介できなかった石川康宏氏も思想家というより実践家です。ゼミで慰安婦問題を取り上げたり、原発問題をマルクスを読み返しながら、難しい問題に取り組んでいる方です。正月から外は寒いのに少し熱くなりすぎました。書く予定だった「平田オリザ」と「吉田裕」はまた別の機会にということで今日はおしまいです。
マルクスが生きた時代の資本主義は労働者にとって極めて過酷な状態だった。長時間労働、児童労働は野放し、職場環境は悪く、労働運動に対する弾圧は熾烈を極めた。それに比べると現在は、労働法制は整備され、職場環境は劇的に改善された。しかし、不正規労働者の占める割合は今や40%となり、正規労働者も長時間労働を強いられている。ブラック企業などどいう女工哀史の時代に戻ったとも思えるような企業まで出現している。政府は財界の言うことばかり聞き、世界一働きやすい日本(働かせやすいの間違いではないか)の実現に努力し、加えて日本人の労働条件の改善はせずに外国人労働者を最低賃金で働かせようとしている。ケインズは孫たちの世代(100年後)には一日3時間働ければよくなと予言したが、まさにブラックジョークとなっている。今「蟹工船」や「女工哀史」がリバイバルするのも納得できる。
内田樹・石川康宏著「若者よ、マルクスを読もう(Ⅰ~Ⅲ)」(他にもマルクスの入門書が数多く出版されている)はこうした時代の中で生まれたものだ。この本が韓国で翻訳されていることが興味深い(内田氏によると韓国ではマルクスについて書かれたものはほとんどなく、社会学などの思想的基盤が弱いと書いている)。内田氏の書いていることだが、マルクスの民衆への深い愛情(マルクス自身はユダヤ人で父親はユダヤ教ラビで弁護士、いわゆるブルジャワ階級に属する)そして時代の諸問題に鋭く切り込むその論理、洞察力は彼の説く思想が時代にあわなくなっても、常に参照すべき偉人あることを強調している。BBCが西暦2000年を前にして、「過去1000年間でもっとも偉大な思想家は誰だと思うか」というアンケートで、第一位はマルクス、第二位がアインシュタイン、第三位がニュートン、第四位ダーウィンとなった。そこで内田氏はマルクスがこのように多くの人から敬意を払われている国々では、仮にはっきりした自覚がないにしても、その思想は社会の不公正や貧困の解決に取り組む人々の意志を支える一つの土壌になっているのでないかと。
この本の著者内田氏は、実に幅広い分野で提言したり、本を出している。思いがけない切り口から迫るやり方は、高校生の頃からマルクスを愛読していたからなのだろう。もともとはフランス文学を専門とし、フランスの思想家エマニュエル・レヴィナスに師事した(武道家でもある)。彼の本で最初に読んだのは「私家版・ユダヤ文化論」(内容は全く覚えていない。彼はヨーロッパにおける反ユダヤ主義について研究した。)「マルクスを読もう」から内田氏の主張を引用する。日本では「高齢者」や「生活保護受給者」や「公務員」をバッシングして、彼らからその特権をはぎ取ろうという言説がある。「あいつらからはぎ取って、俺に返せ」では弱者たちはけっして連帯できない。二極化がますます進むだけ。上層部は緊密なネットワークを形成して、お互いに便宜を図りあって相互支援、相互扶助をしあっている。逆に下に行けば行くほど、連帯する能力は劣化し、相互扶助のシステムは機能しなくなっている。マルクスの社会改革論は奪還論ではなく、惻隠の情、贈与しなければならないという衝動なんです。それがないと社会正義は実現できない。少年青年の頃に、マルクスを学び、マルクス主義の実践運動に少しでも関わった人たちは、人間的で公正な社会をいまただちにここで実現するには人間はあまりに弱く、あまりに邪悪であり、あまりに卑劣である。マルクス主義に人を向かわせる最大の動機は「貧しい人たち、飢えている人たち、収奪されている人たち、社会的不正に耐えている人たち」に対する私たち自身のやましさです。そうしたやましさが日本人の心から消え、マルクスが読まれなくなった。成就のための必須の階段の一段を失い、人間的成熟の訓練の機会を失った日本人は恥ずかしいほど未熟な国民になりました。
いやー内田氏マルクスに負けず劣らず本当に熱いですね。ここで紹介できなかった石川康宏氏も思想家というより実践家です。ゼミで慰安婦問題を取り上げたり、原発問題をマルクスを読み返しながら、難しい問題に取り組んでいる方です。正月から外は寒いのに少し熱くなりすぎました。書く予定だった「平田オリザ」と「吉田裕」はまた別の機会にということで今日はおしまいです。