城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

新型コロナをめぐる様々な言説 21.1.10

2021-01-10 20:17:45 | 面白い本はないか
 朝起きると予想していなかった20cmの積雪。しばらく本を読んでいたら、7時過ぎにラインが鳴った。近くの喫茶店にいるから、来ないかとの有難いEさんからのお誘い。朝食前だからちょうど良い。長靴を履いて雪の道を急いだ。Eさんの話では、大垣のR山岳会が涌谷山を計画し、これに参加の予定だったが、この雪で中止になることを想定し、とりあえず集合場所に行ったそうだ。涌谷は中止、かわりに貝月山に行くことになった。しかし、Eさんは中止になるものと考え、山登りの準備はしていないということで今回のお誘いとなった。二人の話題は2月~4月の雪山の計画、充実した内容(昨年随分お世話になったOさんの計画、EさんあるいはOさんがいるからおじさんたち未熟者は難しい山にも挑戦できる)だが、こちらは要介護3の母親と体力に少し自信の無いおじさん、勇気を振り絞って?参加できるところは行こうと決めた。そうするとEさんにライン、貝月山も「白龍の湯」から先は除雪されていないので、ロッジにすら到達できないということで、大野アルプスに変更になったと。揖斐の街の中で20cmなら貝月ゲレンデでは最低でも40cm以上はある。この冬はとにかく雪が降り続く。このため比較的簡単な山でも、普段の倍以上の時間がかかると予想されるし、登山口に到達することも難しい。

 今日の城ヶ峰 揖斐小学校のムクノキの後方 山頂は見えない

 さて、今日は新型コロナのお話し。とにかく情報が多すぎるのか、わからないことが多すぎる。昨年の秋以降にぼちぼちコロナに関する本が出だした。しかし、7月くらいの時点で書かれているので、現在の猖獗を極める状況については必ずしも予想できていない。3.11の大震災と原発事故があったときに、この後の世の中は大きく変わるという言説が溢れた。しかし、ほとんど世の中は変わっていない。ではコロナの後はどうだろうか。しかし、それを問う前にまずこの新型コロナがいつになったら終結するのというのが最大の関心事だろう。専門家が言うには、1人の感染者は2.5人を感染させる(感染したと判明する2日前から感染する)。これを40%すなわち1人(2.5×0.4)にすれば感染拡大は収る。ワクチンを人口の6割に接種するか、何もしないで6割感染させれば、その人たちに抗体ができるので拡大は止まる(しかし、そこまでいくのに多数の死者や重症者が出る)。現段階ではワクチンが出てきているが、治療薬はまだない(まだ数年かかるらしい)。以上のことを少し頭においていただいて、2冊の本を紹介する。

 今日の城台山山頂

 一冊目、岩村充著「ポストコロナの資本主義ー挑戦される国家・企業・通貨」。著者は日銀出身の経済学者だが、この本で興味を惹かれたのは経済以外のことだった。おじさんも含めて誰もが疑問に思ったのが、「PCR検査をなぜ日本はもっとできないか」だろう。特に韓国があのように出来ているのに(韓国人も日本のことがとても気になるように日本人もとてもお隣の状況が気になる。例えば購買力平価で測ると日本の国民一人当たりのGDPはすでに韓国より下位にある)。しかし、ここで著者は問いかける。検査によって患者は何が得られるのか。感染したと判明しても今のところ隔離しか対処の方法はない。重要人物か医療従事者でもない限り、自分以外の人のためにしかならない。日本では「感染が不安だから検査を受けて安心したい、政府はそうした国民の声に応えていない」という世論が形成された。スウェーデンの17歳グレタ・トゥーンベリのように自分が感染したと思ったら自ら隔離を選んだ少女よりもずっと幼いということになる。そして、検査の正しさは70~80%、三日に一度くらい検査しないと確実ではない。そうなると膨大な人々に検査をしなければならなくなる。検査を十分できなかった理由がある。一つは熟練の検査技師の不足(行革の影響でないことを祈りたい)と検査試薬の不足。このことが判明していたなら、大変なことになっていた(試薬=検査の奪い合い)。政府は国民に対し、「検査で陰性と出ても本当は感染しているかもしれないので、安心して仲間と騒いで良い訳でありません。思い当たることがあったら、最大限の自由隔離してください」と言うべきであった。もちろん、治療薬ができたら検査は重要な治療のステップとなる。(日本では入院患者の在院日数が長く、医療費もかさむということで、随分ベッド数を政府は減らした。しかし、今回のような非常事態ではベッドの多かったことが吉と出た)

 ほかに、日本はハンセン病隔離政策のはずべき歴史を持つこと。19世紀自由とは「血と涙」で守るべきものだったが、20世紀サッチャー、レーガンは自由が儲けるためのもの(新自由主義)のインフラとなり、自由を守る心に「劣化」をもたらした。自由の先進国であるはずの欧米諸国で一般化してしまった「外出禁止令」。感染を防止するための「接触追跡システム」の抱える問題(いわゆる中国のようなビッグブラザー、監視社会)を指摘している。

 揖斐のまち

 十分ここまででも長くなってしまった。もう一つ紹介したいのは、様々な分野の専門家により書かれた「コロナ後の世界」。気になるところを抜き出してみよう。まずは免疫学の小野昌弘先生。感染してしまった人にとって最大の問題は重症化だが、これはウィルスの毒性によるものではなく、人間の免疫系の過剰反応によるものであることが明らかとなった。この暴走を防ぐ方法は現時点では限られている。二番目は有名な精神医学者の斉藤環先生。(三密を避けることに関して)親密さの抑圧は恋愛の不可能性にもつながる。三密を禁じられ、社交距離を測定される環境下では、新しい恋愛の実践は実質的に不可能だ。性愛においても、われわれはかつてないほど高度な禁欲を(自ら進んで)強いられている。(これで少子化に拍車がかかるかもしれない)三番目はおじさんが好きな政治哲学者宇野重規先生。(コロナ中そして後は特に)つねに一定のリスクを意識して、日々を過ごし、行動していかなければならないことは、人々に大きな心理的ストレスを与える。この間も、相互に過剰なまでの自粛を求める「自粛警察」の動きが各地で伝えられたが、これもそのようなストレスによって加速された側面が強い。自分がこれだけ自由を奪われ、それに耐えているにもかかわらず、好きなように行動し、ルールを守らない人間がいるのは許せない(この自主警察こそ日本が法による明確な規制がなくても規制ができてしまう国であうことを指摘することができる)。責任の所在があいまいなのも、日本政治の特徴だ。専門家会議のメンバーの尽力に対し、賞賛の声が集まる一方で、彼らの発言に対し、批判の声が高まったのも事実だ。専門家は、己の知見と学問的信念に基づき発言し、提言するのが当然である。これに対し、そのうちどれを政策として実行するかは政治家の任務である。政治的責任を取るのはそれを採用した政治家であって、提言した専門家(学問的責任は問われる)ではない。都合のいいときだけ政策の正当化のために専門家が動員され、政治家は自らの責任を曖昧にする。

 四番目は科学技術社会論の神里達博先生。リスクと自由と責任は同時に降りてくる。これこそが近代の本質と言って良いほどだ。しかし、この国には、結局のところ、西洋近代的な意味での責任者=権力者がいない。だから自由もない。あるのは津々浦々に至るまでの、持ち場、持ち場で「役割を果たす」無数の人々である。ミクロにはうまくいくこともあるが、その結果が全体としてどういう影響を及ぼすのか、きちんと考えて計画している人は結局どこにもいない。第五番目は社会学の柴田悠先生。新型ウィルスや新型細菌の「自然物」だけではなく、人間が作ったAI(ディープラーニング以降のAIはなぜそうなるのかがわからないというブラックボックスを持っている)も不可知性という脅威を人間に与える可能性がある。第六番目は社会学の大澤真幸先生。新しいウィルスは、現在の新型コロナウィルスで終わるわけではない。現代社会は、新しいウィルスに対して、二つの意味で脆弱。第一は、人間が住む世界が野生動物の世界に接近し、両者の間の緩衝地帯が著しく小さくなったこと。第二は、人間の移動が頻繁になり、ウィルスの感染の速度が著しく大きいこと。現在のコロナ禍は、人新世(人類の活動が地球の生態系に与える影響力が著しく大きくなった時代)に固有な現象の一部と解すべきだ。

 コロナと,格闘している医療従事者に最大限の敬意と感謝をさしあげたい。政府はとにかく医療崩壊とならないように努力して欲しい。
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